Knowledge Check
明治時代の理解度テスト
41つの詳細学習トピックにある205問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
Test
理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
0 / 10 問回答
五箇条の御誓文は、国民の権利や議員選出方法まで具体的に定めた近代憲法だった。
五箇条の御誓文は新政府の基本方針を示した文書ですが、国民の権利や議会制度を具体的に規定する憲法ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する五榜の掲示にはキリスト教禁制など旧来の統制と、条約遵守・外国人への暴行禁止という開国後の対外秩序への対応が併存していた。
五榜の掲示は新政府が旧来の社会統制を一部残しながら、条約を守る対外方針も示していたことを表します。
出題元の学習トピックを確認する政体書は立法・行政・司法の三権分立思想を取り入れたため、現代と同じ独立した三権が成立した。
政体書は三権分立思想を取り入れましたが、一切の権力を太政官に属させる中央集権的な構造も持っており、現代の三権分立と同一ではありません。
出題元の学習トピックを確認する五箇条の御誓文や政体書による制度づくりは、戊辰戦争が続く中で進められた。
1868年春の新政府はまだ全国支配を確立しておらず、戦争を続けながら政治理念と行政機構を整えていました。
出題元の学習トピックを確認する1868年に五箇条の御誓文と政体書が出されたことで、中央集権的な近代国家の形成はその年のうちに完成した。
諸藩はなお土地・人民・軍事力を持ち、政府制度も改編が続きました。中央集権化は版籍奉還や廃藩置県などを通じて段階的に進みます。
出題元の学習トピックを確認する1868年4月に江戸城が新政府へ引き渡されたことで、戊辰戦争はその時点で終結した。
江戸城開城後も上野・北越・東北・蝦夷地で戦闘が続き、戊辰戦争は1869年5月の箱館戦争終結まで続きました。
出題元の学習トピックを確認する奥羽越列藩同盟は、最初から旧幕府を復活させることだけを目的に結成された軍事同盟だった。
当初は会津・庄内両藩への寛典を求める諸藩の連携として形成され、新政府との対立が深まる中で軍事同盟へ変化しました。
出題元の学習トピックを確認する彰義隊が上野で新政府軍と戦ったのは、江戸城開城後である。
江戸城は4月に引き渡されましたが、旧幕臣を中心とする彰義隊は5月に上野で新政府軍と戦いました。
出題元の学習トピックを確認する榎本武揚らが五稜郭を拠点につくった政権は、国際的に承認された近代的な独立共和国として正式に成立した。
榎本らは蝦夷地仮政権を樹立しましたが、近代的な独立共和国が正式に成立したと単純化するのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する1869年の箱館戦争終結で戊辰戦争は終わったが、各藩の土地・人民支配はなお残り、中央集権化には版籍奉還や廃藩置県が必要だった。
軍事的抵抗の終結と中央集権国家の完成は同じではなく、諸藩の権限を中央へ集める制度改革がその後も続きました。
出題元の学習トピックを確認する明治政府が開拓を始めた北海道は、それ以前に恒常的な生活圏を持つ人びとがいない無人の土地だった。
北海道では以前からアイヌ民族が狩猟・漁労・採集・交易などを営み、独自の社会と文化を形成していました。
出題元の学習トピックを確認する屯田兵は農業に従事しながら軍事的役割も担い、北海道への定住と北方防備を結びつけた制度だった。
屯田兵は入植・農業と軍事を組み合わせ、北海道開拓と北方防備の双方を担いました。
出題元の学習トピックを確認する移住と土地制度の拡大はアイヌ民族の従来の土地利用をそのまま法的に保障し、狩猟や鮭漁への規制も行われなかった。
開発に伴って生活圏が狭まり、狩猟や河川での鮭漁など従来の生業にも規制が加えられました。
出題元の学習トピックを確認する明治期のアイヌ政策には、日本語教育や農耕への転換など、和人社会の制度・生活様式へ合わせる同化の方向があった。
同化政策は文化的差異をそのまま保障するのではなく、多数派側の言語や生活様式への適応を求める方向を持っていました。
出題元の学習トピックを確認する1899年の北海道旧土人保護法によって、アイヌ民族の土地・漁場・文化的権利は十分に回復され、同化政策も終わった。
同法は救済や農業振興を掲げましたが、同化政策と結びつき、失われた土地や文化的権利を十分に回復する制度ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1869年の版籍奉還によって、藩そのものが廃止され、旧藩主は地方統治から直ちに完全に離れた。
版籍奉還後も藩は存続し、旧藩主の多くが知藩事として旧藩の統治を続けました。藩の廃止は1871年の廃藩置県です。
出題元の学習トピックを確認する版籍奉還では旧藩主が土地・人民を世襲的に支配する大名から、中央政府に任命される知藩事へ位置づけ直された。
旧藩主は知藩事という政府任命の地方行政官とされ、領主と土地・人民の関係が組み替えられました。
出題元の学習トピックを確認する廃藩置県に先立つ御親兵の編成は、中央政府が直接指揮できる軍事力を確保する意味を持った。
藩を廃止するには反対が起きた場合にも政府が秩序を維持できる軍事基盤が必要で、御親兵はその条件の一つでした。
出題元の学習トピックを確認する1871年の廃藩置県によって、現在とほぼ同じ都道府県区分が一度で完成した。
廃藩直後は3府302県で、その後も統廃合が続きました。廃藩置県は現在の都道府県制度完成ではなく、中央政府による地方支配再編の出発点です。
出題元の学習トピックを確認する廃藩置県後も戸籍・徴兵・教育・租税など全国共通制度の整備が必要であり、中央集権国家形成はさらに続いた。
地方行政の統合は大きく進みましたが、人々を国家が直接把握し統治する制度はその後も整備されていきました。
出題元の学習トピックを確認する『四民平等』は、政府が一つの『四民平等令』を出して身分差を一度に廃止したことを指す。
『四民平等』は単一の法令名ではなく、明治初期の複数の身分制度改革をまとめて理解するための表現です。
出題元の学習トピックを確認する華族・士族・平民への再編後も族籍区分や旧武士の家禄などが残り、社会的・経済的差が直ちに消えたわけではなかった。
近世の身分制は解体へ向かいましたが、新しい族籍や経済的な違いは残りました。
出題元の学習トピックを確認する全国統一の戸籍制度は、中央政府が人々を直接把握し、徴兵・租税・教育など全国共通制度を運用する基盤にもなった。
戸籍法と壬申戸籍は、藩や村ごとの旧来の把握方法から、中央政府による全国的な人々の登録へ移る重要な制度でした。
出題元の学習トピックを確認する『解放令』は1871年の布告に当時から付けられていた正式な法令名である。
『解放令』は一般的な呼称で、当時の正式な法令名ではありません。法令索引では『いわゆる、身分解放令』と整理されています。
出題元の学習トピックを確認する1871年の布告で法制度上の身分差別が廃止されたため、社会的な偏見や差別、経済上の不利も直ちに解消した。
法制度上の転換は重要でしたが、社会的偏見や差別は残り、生活保障なども十分ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1872年の学制公布によって、現在と同じ義務教育制度が直ちに全国で完成した。
学制は全国的学校制度と広い就学を構想しましたが、学校費用などを地域住民が負担し、実施には困難もありました。
出題元の学習トピックを確認する1873年の徴兵令は国民皆兵を原則としたが、制度発足当初には一家の主人や一定の学生、代人料納付者など免役規定もあった。
国民皆兵は原則でしたが、当初からすべての男子が例外なく兵役に就いたわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する地租改正後の地租は、その年の豊作・凶作に応じて毎年税額を増減することを基本とした。
地租は地価を基準とし、豊凶によって税額を増減させないことが原則でした。政府は安定した税収を得やすくなる一方、凶作時にも一定負担が残りました。
出題元の学習トピックを確認する地租改正では土地所有者を納税者とし、地価を基準に原則として貨幣で納税する制度へ転換した。
地券を持つ土地所有者が地価の一定割合を金納する仕組みとなり、旧来の石高制や物納中心の年貢から転換しました。
出題元の学習トピックを確認する学制・徴兵令・地租改正は、藩ごとの制度を復活させて教育・軍事・租税を各地方の自主運営へ戻すことを共通目的とした。
三つの改革は、中央政府が教育・軍事・租税に全国共通の制度を設け、人々と国家を直接結びつける方向を持っていました。
出題元の学習トピックを確認する岩倉使節団の目的は欧米の制度・文物の視察だけで、条約改正に関する外交任務は含まれていなかった。
使節団には国書奉呈、不平等条約改正の予備交渉、制度・文物調査という複数の任務がありました。
出題元の学習トピックを確認するアメリカで本格的な条約改正交渉へ進もうとした際、当初の使節団には十分な全権委任状がなく、大久保利通と伊藤博文が一時帰国した。
現地で任務を予備交渉から本交渉へ拡大したため、条約調印権限を明記した委任状を取り直す必要が生じました。
出題元の学習トピックを確認する条約改正が実現しなかった唯一の理由は、全権委任状を用意していなかったことだった。
委任状を取得した後も、領事裁判権撤廃や関税自主権回復をめぐる日米の隔たりを埋められず、交渉は合意に至りませんでした。
出題元の学習トピックを確認する岩倉使節団の外遊中にも留守政府は学制や徴兵令などの改革を進めており、日本の近代化が使節団帰国後に初めて始まったわけではない。
廃藩置県は出発前、学制・徴兵令などは外遊中に進められており、使節団視察はすでに進行中の改革を考える材料の一つでした。
出題元の学習トピックを確認する岩倉使節団の帰国によって条約改正問題は解決し、領事裁判権撤廃と関税自主権回復も1873年までに実現した。
条約改正は長期課題となり、領事裁判権撤廃は1899年、関税自主権回復は1911年までかかりました。
出題元の学習トピックを確認する殖産興業は1870年に一度だけ出された単一の法令の名称である。
殖産興業は官営工場・鉄道・鉱山・農工業奨励など、1870〜1880年代に政府が進めた産業育成政策の総称です。
出題元の学習トピックを確認する1872年開業の鉄道は文明開化の象徴にとどまらず、人・郵便・貨物を運ぶ行政・経済インフラとして使われた。
鉄道は旅客だけでなく郵便物や貨物の輸送にも利用され、情報と商品を結ぶ基盤になりました。
出題元の学習トピックを確認する富岡製糸場の目的は富岡だけで生糸を大量生産することで、全国への器械製糸技術の普及は想定されていなかった。
富岡は官営模範工場で、伝習工女を通じて器械製糸技術を各地へ広めることも重要な目的でした。
出題元の学習トピックを確認するお雇い外国人の役割には、専門技術を導入するだけでなく、日本人が技術を習得し運営を引き継ぐための指導も含まれた。
政府は外国人技術者を利用しつつ、日本人技術者・職工・工女への技術移転を進め、国内で運用できる人材を育てました。
出題元の学習トピックを確認する1872年の鉄道開業と富岡製糸場の操業によって、日本の産業革命はその年に完成した。
殖産興業は産業革命の前提となる基盤整備であり、日本の急速な機械化は1880年代後半以降に本格化しました。
出題元の学習トピックを確認する文明開化は一つの法令によって全国の人々が同じ時期に一斉に西洋式生活へ切り替わった出来事である。
文明開化は制度・知識・生活文化が長期的に変化した過程で、都市と農村、地域や階層によって進み方も異なりました。
出題元の学習トピックを確認する太陽暦の採用は日付の表示変更だけでなく、官庁・学校・交通・商取引などに共通の時間基準を及ぼす意味を持った。
暦は社会活動を共通の時間に合わせる制度で、近代国家が生活時間にも統一的な基準を設ける一例でした。
出題元の学習トピックを確認する『学問のすゝめ』は明治政府が公布した公式政策文書で、学制の法令本文として使われた。
『学問のすゝめ』は福沢諭吉らによる民間の著作であり、政府の公式政策文書ではありません。
出題元の学習トピックを確認する明六社は政府の法令決定機関ではなく、知識人が政治・教育・宗教などについて意見を交換する結社だった。
明六社は『明六雑誌』を通じて多様な議論を行い、社員の意見も一枚岩ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1873年にキリスト教禁制の高札が撤去されたことで、現在と同じ宗教の自由制度がその年に完成した。
高札撤去は禁教政策の転換でしたが、その後も神社制度や宗教行政の再編が続き、現代と同じ制度が直ちに完成したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する1868年の神仏分離政策は、全国の寺院と仏像を一律に破壊することを政府が命じた政策だった。
政府の神仏分離政策は神社から仏教的要素を分ける制度政策であり、寺院・仏像の全国一律破壊を命じたものではありません。
出題元の学習トピックを確認する廃仏毀釈は神仏分離を背景に、地域ごとの事情も重なって寺院廃止や仏像・仏具の破壊などが起こった動きである。
国家による制度分離と、各地で起こった仏教排斥・破壊の動きは区別して理解する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する神社と国家の関係は1868年の一つの法令で完成し、その後の行政機構や神社制度はほとんど変化しなかった。
神祇官・神祇省・教部省・内務省など担当機構は変化し、神社行政と宗教行政の境界も数十年かけて整えられました。
出題元の学習トピックを確認する1900年には内務省で神社局と宗教局が分けられ、神社祭祀と一般の宗教行政を区別する方向が行政上も明確になった。
神社局は神宮・神社・神職など、宗教局は仏教各宗派などを担当し、行政上の区別が進みました。
出題元の学習トピックを確認する廃仏毀釈による文化財の散逸が起きた後も、明治政府は文化財保存制度を設けず、古社寺や古器旧物を保護する政策は行わなかった。
文化財の散逸への対応として、古器旧物保存方や後の古社寺保存法など、保存制度も整えられていきました。
出題元の学習トピックを確認する1872年の琉球藩設置によって琉球王国以来の制度はただちに廃止され、同年に沖縄県が設置された。
1872年は尚泰を琉球藩王に封じた段階で、沖縄県の設置は1879年です。首里の行政組織や旧来の制度もなお残っていました。
出題元の学習トピックを確認する1879年、明治政府は琉球藩を廃して沖縄県を設置し、尚泰に東京への移住を命じた。
1879年の沖縄県設置によって首里王府による統治は終わり、琉球は府県制度へ行政的に組み込まれました。
出題元の学習トピックを確認する沖縄県設置後は旧慣温存を行わず、土地・租税・地方制度をただちに本土と同一にした。
政府は旧慣温存政策をとり、土地・租税・地方制度など旧来の仕組みを一定期間残しました。制度統合は段階的でした。
出題元の学習トピックを確認する宮古・八重山では旧来の人頭税が長く残ったが、土地整理の進展とともに1903年に廃止された。
沖縄県設置後も旧来の租税制度は残り、宮古・八重山の人頭税は1903年まで存続しました。
出題元の学習トピックを確認する1879年の沖縄県設置によって徴兵・土地・地方自治・国政選挙まで本土と同じ制度が一度に完成した。
徴兵令全面施行は1898年、土地整理は1899〜1903年、町村制度は1908年、衆議院議員選挙は1912年で、制度統合には数十年を要しました。
出題元の学習トピックを確認する1873年の征韓論争では、西郷隆盛が朝鮮への即時武力征服だけを主張し、使節派遣は議論されなかった。
直接の争点は西郷自身を朝鮮へ使節として派遣するかどうかで、西郷の武力行使意図の程度には研究上も議論があります。
出題元の学習トピックを確認する明治六年の政変は朝鮮外交だけをめぐる対立で、留守政府と岩倉使節団帰国組の政策・権力上の緊張とは無関係だった。
朝鮮政策に加え、留守中に進んだ改革、財政、政策決定の主導権をめぐる緊張も政変の背景にありました。
出題元の学習トピックを確認する西郷の遣韓使節案が実行されず、西郷・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らが政府を去った。
1873年10月の政変で遣韓使節案は見送られ、これらの有力者が相次いで参議などの職を辞しました。
出題元の学習トピックを確認する明治六年の政変後、政府を去った人物たちは全員が同じ武力反乱に参加した。
板垣・後藤らは議会開設を求める運動へ進み、江藤や西郷の周辺では士族反乱へつながるなど、進路は分かれました。
出題元の学習トピックを確認する明治六年の政変は、有力者の下野を通じて自由民権運動と士族反乱という異なる反政府運動が展開する一つの出発点になった。
政変後、下野した有力者は議会開設要求と武力反乱という異なる方向へ進み、その後の政治対立を形づくりました。
出題元の学習トピックを確認する1874年の民撰議院設立建白書は、一部官僚への権力集中を『有司専制』として批判し、民撰議院の設立を求めた。
建白書は『天下ノ公議ヲ張ル』ために民撰議院が必要だとし、政策内容だけでなく政治決定の仕組みを問題にしました。
出題元の学習トピックを確認する民撰議院設立建白書は、現在と同じ普通選挙権と選挙制度の具体的内容まで完成させた文書だった。
代表制を求める重要な主張でしたが、誰に選挙権を与えるかなど具体的制度はまだ固まっていませんでした。
出題元の学習トピックを確認する建白書は新聞にも掲載され、民撰議院をいつ設けるべきかなどをめぐる社会的論争を生んだ。
『日新真事誌』への掲載によって主張が広まり、新聞を通じて政治制度を論じる新しい政治参加の形が生まれました。
出題元の学習トピックを確認する1874年の段階で、全国の農民・都市住民を含むすべての階層が同じ民撰議院要求を共有していた。
初期の中心は旧士族や知識人で、運動はその後、豪農・地主層や都市知識人などへ広がっていきました。
出題元の学習トピックを確認する自由民権運動は1874年から全国一律の統一組織として始まり、地域ごとの政治課題とは無関係だった。
愛国公党や立志社などから始まり、地域の地租負担や地方行政への不満とも結びつきながら全国化しました。
出題元の学習トピックを確認する士族反乱は1876年の廃刀令だけを原因として突然始まり、それ以前の廃藩置県・徴兵令・家禄問題とは無関係だった。
士族の軍事的・身分的・経済的特権は廃藩置県、徴兵令、廃刀令、秩禄処分などを通じて段階的に縮小しました。
出題元の学習トピックを確認する1876年の秩禄処分は、華族・士族への家禄・賞典禄の支給を廃止し、金禄公債証書へ切り替えた。
秩禄処分は政府の恒常的な家禄支出を整理するとともに、士族の継続的収入の仕組みを大きく変えました。
出題元の学習トピックを確認する神風連の乱・秋月の乱・萩の乱は、一つの全国組織が同じ指令で同時に起こした一斉蜂起だった。
各反乱には地域ごとの人間関係や政治思想があり、全国統一組織による一斉蜂起ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する西南戦争では鹿児島県士族を中心とする勢力が西郷隆盛を擁立し、政府の征討軍と戦った。
西郷の威望と鹿児島の士族組織が結びつき、西南戦争はそれ以前の士族反乱を上回る規模になりました。
出題元の学習トピックを確認する西南戦争の敗北によって士族は政治社会から姿を消し、政府への反対運動も終わった。
多くの士族は政府・軍・教育などで活動を続け、政府への反対も自由民権運動のような言論・制度改革要求へ広がりました。
出題元の学習トピックを確認する西南戦争後、政府への反対運動では結社・演説・新聞・建白・請願を通じた政治参加要求が次第に重要になった。
大規模な士族武力反乱が一区切りを迎える一方、言論や結社によって政治制度を変えようとする運動が広がりました。
出題元の学習トピックを確認する自由民権運動は板垣退助一人の指示で全国へ拡大し、参加者の要求も地域を問わず同一だった。
旧士族、豪農・地主、名望家、都市知識人など多様な担い手がおり、地域課題や政治構想にも違いがありました。
出題元の学習トピックを確認する1878年に再興された愛国社は、各地の政社代表や有志が地域を越えて政治課題を共有する場となった。
愛国社の大会を通じ、地域ごとに異なる運動が国会開設という共通目標で結びついていきました。
出題元の学習トピックを確認する1880年、河野広中・片岡健吉が提出しようとした国会開設の上願書は政府に正式受理され、ただちに国会開設が決まった。
上願書は太政官・元老院に受理されませんでしたが、国会開設要求は全国的な政治争点として残りました。
出題元の学習トピックを確認する1880年の集会条例は政治集会や政治結社を保護・奨励し、自由民権運動の活動を広げるために制定された。
集会条例は政治集会・政治結社への規制を強めるもので、運動の全国化と政府による統制は並行して進みました。
出題元の学習トピックを確認する1878年の地方三新法は、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の三つから成っていた。
地方三新法によって地方行政区画、府県会、地方税の制度が全国的に整えられました。
出題元の学習トピックを確認する1878年の府県会選挙では、男女や納税額を問わずすべての成人住民に選挙権が認められた。
選挙権は一定額以上の地租を納める成年男子に限られ、現在の普通選挙とは大きく異なりました。
出題元の学習トピックを確認する府県会は府知事・県令から独立し、その議決だけで地方行政を最終決定できた。
府県会の議決には府知事・県令の認可が必要で、中央政府が任命する地方長官の監督が強く残りました。
出題元の学習トピックを確認する市制・町村制では住民代表の議会が置かれた一方、市長の選任には内務大臣など中央政府の関与が残った。
自治的な議会制度を設けつつ、行政の長については中央政府の監督を残す仕組みでした。
出題元の学習トピックを確認する明治期の地方自治は、現在と同じ普通選挙と首長直接選挙を前提とし、中央政府から独立した制度だった。
選挙資格は制限され、中央官庁の監督も強く、現在の地方自治とは制度原理が異なります。
出題元の学習トピックを確認する明治十四年の政変は、開拓使官有物払下げ事件だけを原因として起こり、憲法構想や財政政策をめぐる政府内対立とは無関係だった。
払下げ問題は重要な契機でしたが、憲法制定の時期・制度構想、財政政策、政府内主導権など複数の対立が重なっていました。
出題元の学習トピックを確認する開拓使官有物払下げ計画は、政府中枢と関係の深い民間側へ有利な条件で公有財産を譲るのではないかという藩閥政治批判と結びついた。
払下げ問題は公有財産の処分を超えて、政府の人間関係と政治の公正さを問う世論の批判へ発展しました。
出題元の学習トピックを確認する大隈重信は開拓使官有物払下げを自ら主導した責任だけを問われて政府を去った。
大隈自身が払下げを主導したわけではなく、憲法構想・財政政策・政府内不信などが失脚の背景にありました。
出題元の学習トピックを確認する1881年の国会開設の勅諭は、1890年を期して国会を開設すると約束した。
国会開設年を政府が明示したことは大きな転換でしたが、制度設計の主導権は政府側が保持しました。
出題元の学習トピックを確認する国会開設の勅諭によって自由民権運動の要求は全面的に実現し、その後の政党活動は不要になった。
勅諭後も自由党・立憲改進党などが結成され、憲法・議会のあり方をめぐる政治運動は続きました。
出題元の学習トピックを確認する自由党と立憲改進党は支持基盤・人脈・政治構想がほぼ同一で、自由民権運動全体もこの二党だけに整理された。
両党には支持層や政治構想の違いがあり、地方結社や農民運動など自由民権運動のすべてが二党へ収まったわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する1881年、国会期成同盟を基盤に板垣退助を党首とする自由党が結成された。
国会開設が約束されたことで、将来の議会活動を見据えた全国政党の形成が進みました。
出題元の学習トピックを確認する福島事件は自由党本部が全国一斉蜂起を命じ、その命令に従って起きた反乱だった。
県令と県会の対立、道路建設の負担問題、民権運動への弾圧が福島で結びついて激化した事件です。
出題元の学習トピックを確認する加波山事件は自由党急進派の一部が関わった事件で、自由党という全国政党全体が組織したものではない。
自由党内部には穏健派と急進派が併存し、党首脳が地方急進派を十分統制できない状況がありました。
出題元の学習トピックを確認する秩父事件は自由党本部が計画した政党反乱で、農民の負債や松方デフレは事件の背景ではなかった。
秩父事件の中心には負債に苦しむ農民の生活要求があり、松方デフレ下の農村不況が重要な背景でした。
出題元の学習トピックを確認する西南戦争後、不換紙幣の増発によるインフレーションと紙幣価値の下落が財政上の問題となった。
戦費などで不換紙幣が増え、物価上昇と正貨に対する紙幣価値の下落が進んだため、政府は紙幣整理を急ぎました。
出題元の学習トピックを確認する松方財政は政府支出と紙幣発行を大幅に増やして物価上昇を促す拡張的な財政政策だった。
松方正義は政府支出を抑え、不換紙幣を回収・整理する緊縮財政を進めました。
出題元の学習トピックを確認する1882年の日本銀行創設と同時に、日本は金本位制を採用した。
1885年の日本銀行券は銀貨と交換できる兌換銀券で、金本位制の採用は1897年です。
出題元の学習トピックを確認する松方デフレでは農産物価格が下落して現金収入が減る一方、借金が同じ割合で減らないため農民の負債負担が重くなった。
物価下落は税や負債の返済を相対的に重くし、農地を手放す農民や小作へ移る農民も生みました。
出題元の学習トピックを確認する松方財政は農村不況だけをもたらし、近代的な通貨・銀行制度の整備にはつながらなかった。
大きな社会的負担を生んだ一方、不換紙幣整理・正貨蓄積や日本銀行創設を通じて近代的な通貨・信用制度の基礎も整いました。
出題元の学習トピックを確認する1890年の国会開設を実現するには、議会だけでなく行政・上院・司法など立憲国家全体の制度設計も必要だった。
国会開設の約束後、政府は憲法・議会とあわせて内閣、華族、枢密院など国家全体の制度を段階的に整えました。
出題元の学習トピックを確認する伊藤博文はドイツ憲法だけを調査し、その制度をほぼそのまま日本へ移植した。
ドイツ・オーストリアを重視しましたが、イギリスやベルギーなども調査し、複数の制度を比較して日本向けに再構成しました。
出題元の学習トピックを確認する1884年の華族令そのものが貴族院を設置し、貴族院議員を華族だけに限定した。
華族令は五爵制を整え、後の貴族院と関係しましたが、貴族院自体の設置ではなく、勅選議員や多額納税者議員など華族以外の議員も置かれました。
出題元の学習トピックを確認する1885年、太政官制に代えて内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。
内閣総理大臣と各省大臣による行政組織へ再編され、憲法施行後の国家運営を見据えた体制が整えられました。
出題元の学習トピックを確認する1885年の内閣制度は、衆議院多数派が首相を選び、内閣が議会に政治責任を負う現在と同じ議院内閣制として始まった。
当初の内閣総理大臣は衆議院多数派によって選ばれる制度ではなく、内閣も帝国議会に対して政治的責任を負う仕組みではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1872年の学制によって、明治期の学校制度は現在と同じ形で完成し、その後の大きな制度改正は不要になった。
学制は出発点で、その後も教育令や1886年の諸学校令などを通じて学校体系は段階的に再編されました。
出題元の学習トピックを確認する1890年の教育勅語は国会が制定した法律ではなく、勅語として発せられ、学校への謄本配布や奉読を通じて強い影響を持った。
教育勅語は学校制度を定める法律とは性格が異なり、道徳理念を示す天皇の勅語として教育現場に浸透しました。
出題元の学習トピックを確認する1899年の高等女学校令によって、男子の中学校と女子の高等女学校は進学経路や教育目標まで完全に同一になった。
女子中等教育は制度化されましたが、男女で教育内容や進学経路には大きな違いが残りました。
出題元の学習トピックを確認する1907年の小学校令改正で尋常小学校の修業年限が6年となり、義務教育6年制へ延長された。
就学率の上昇を背景に、義務教育の年限が4年から6年へ延長されました。
出題元の学習トピックを確認する明治後期の学校教育の拡大は、国家が共通の規律や道徳を国民へ求めることとは無関係で、個人の自由な学習機会だけを広げる政策だった。
教育機会の拡大と同時に、学校は共通の知識・規律・道徳を広め、国家的統合を支える役割も担いました。
出題元の学習トピックを確認する大日本帝国憲法は1889年2月11日に発布され、その日から帝国議会を含む全制度が全面施行された。
憲法は1889年に発布されましたが、施行は帝国議会開設に合わせた1890年11月29日です。
出題元の学習トピックを確認する大日本帝国憲法下では天皇に広い権限が認められる一方、通常の法律や予算には帝国議会の協賛が必要だった。
強い天皇大権と、法律・予算を審議する帝国議会の制度的権限が同じ憲法体制の中に併存しました。
出題元の学習トピックを確認する明治憲法で認められた臣民の権利は、法律による制限を受けない現在と同じ絶対的な基本的人権として保障された。
多くの権利には『法律ノ範囲内』などの条件があり、法律による制限の余地が大きく残されていました。
出題元の学習トピックを確認する1890年の第1回衆議院議員総選挙では、25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者に選挙権が限られた。
有権者は総人口の約1.1%で、最初の総選挙は普通選挙ではなく強く制限された選挙でした。
出題元の学習トピックを確認する帝国議会は象徴的な機関にすぎず、政府は議会の同意なしに通常の法律や新たな予算を自由に成立させることができた。
法律・予算には議会の協賛が必要で、政府は民党勢力との交渉や妥協を迫られるようになりました。
出題元の学習トピックを確認する超然主義を掲げた政府は、帝国議会の予算審議権を無視して予算を自由に成立させることができた。
政府が政党から距離を置こうとしても、憲法上、予算には議会の協賛が必要で、衆議院多数派との調整を避け続けることはできませんでした。
出題元の学習トピックを確認する初期議会でいう民党は、立憲自由党という一つの政党だけを指す名称だった。
民党は立憲自由党・立憲改進党など、政府に対抗する複数の政党・勢力をまとめた呼称です。
出題元の学習トピックを確認する第1議会では政府と民党が予算をめぐって対立したが、双方の妥協によって最終的に予算が成立した。
民党の一部が譲歩し、政府も予算削減を受け入れ、制度の中で交渉して予算を成立させました。
出題元の学習トピックを確認する1892年の第2回総選挙では、政府支持派を増やそうとして地方官・警察を通じた強い選挙干渉が行われた。
品川弥二郎内相のもとで圧力や集会妨害などが行われ、各地で衝突や死傷者を生みました。
出題元の学習トピックを確認する初期議会の段階で、衆議院多数派が内閣を組織する政党内閣が制度として完成していた。
この時期は政府と民党が対立と妥協を重ね、政党が政策決定に関わる慣行が形成され始めた段階です。
出題元の学習トピックを確認する1875年の江華島事件は、それ以前の日朝外交上の緊張とは無関係な偶発的海難事故だった。
新政府の外交文書受理問題や征韓論争など、日朝関係の緊張が続く中で起こり、日本は事件を条約交渉の契機にしました。
出題元の学習トピックを確認する日朝修好条規は朝鮮を『自主ノ邦』としたが、日本に領事裁判権や沿岸測量権などを認める不平等な内容も含んでいた。
第1款の自主国規定だけでなく、領事裁判権など日本側の特権を含む条約全体を見る必要があります。
出題元の学習トピックを確認する壬午軍乱は日本への反感だけを原因として起こり、朝鮮国内の軍人待遇や政権対立は関係しなかった。
旧式軍人の待遇問題、開化政策への反発、政権内部の対立など複数の要因が重なっていました。
出題元の学習トピックを確認する甲申事変は朝鮮国内の急進開化派の改革構想と、日本・清の競合が重なった事件である。
金玉均らは国内改革を目指しつつ日本側の支援を利用し、清軍介入によって短期間で失敗しました。
出題元の学習トピックを確認する1885年の天津条約によって朝鮮をめぐる日本と清の勢力競合は完全に解消され、その後両国が朝鮮へ出兵することもなくなった。
撤兵と将来の出兵時の事前通告を定めましたが、競合自体は続き、1894年の再出兵から日清戦争へ進みました。
出題元の学習トピックを確認する不平等条約の改正は外交交渉だけの問題で、日本国内の法制度や裁判制度の整備とは無関係だった。
列強は日本の法制度・裁判制度も問題にしており、条約改正は国内制度整備と国際的信用形成を伴う長期課題でした。
出題元の学習トピックを確認する鹿鳴館外交の条約改正交渉では、舞踏会だけでなく内地開放や裁判制度、外国人判事任用など具体的な法的条件も争点となった。
鹿鳴館は文明国を示す象徴でしたが、実際の交渉では領事裁判権撤廃の条件となる司法制度などが重要でした。
出題元の学習トピックを確認するノルマントン号事件では船長が一切裁判を受けなかったため、領事裁判権の問題が初めて発見された。
領事裁判所で審理は行われましたが、日本の裁判所が外国人を直接裁けない制度上の制約が世論に強く意識されました。
出題元の学習トピックを確認する日英通商航海条約は1894年に調印され、1899年の施行によって領事裁判権撤廃が実現した。
1894年の調印と1899年の施行を区別する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する1899年の改正条約施行によって領事裁判権と関税自主権の両方が完全に回復し、条約改正はすべて終了した。
領事裁判権は1899年に撤廃されましたが、関税自主権の完全回復は1911年です。
出題元の学習トピックを確認する甲午農民戦争は日清戦争を起こすためだけに発生した運動で、朝鮮社会内部の不正や農民の改革要求とは無関係だった。
地方官の不正や租税負担など朝鮮社会内部の問題を背景に、農民軍自身が政治・社会改革を求めた運動でした。
出題元の学習トピックを確認する日清戦争では1894年8月1日の宣戦布告より前に、日本軍の景福宮占領や豊島沖海戦などの武力行動が始まっていた。
宣戦布告前の7月に軍事行動と戦闘が始まっており、外交上の開戦日と実際の武力衝突を分けて理解する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する甲午農民戦争は日清両国が出兵した時点で終結し、その後農民軍が日本軍と戦うことはなかった。
農民軍は日清戦争中に再蜂起し、日本軍・朝鮮政府軍と戦いました。
出題元の学習トピックを確認する下関条約で清は朝鮮の独立を認め、台湾・澎湖諸島などを日本へ割譲し、賠償金を支払うことになった。
条約は朝鮮の独立承認、領土割譲、賠償金などを定め、東アジアの勢力関係を大きく変えました。
出題元の学習トピックを確認する三国干渉を受けたことだけで、日露戦争の開戦はその時点で不可避に決まった。
三国干渉はロシアへの警戒を強めた一要因ですが、日露戦争までには満州駐兵や朝鮮をめぐる対立など複数の段階がありました。
出題元の学習トピックを確認する1895年の下関条約で台湾が割譲されると、現地の抵抗なく日本の統治は直ちに安定して確立した。
台湾民主国や各地の住民による武装抵抗が起こり、日本軍は軍事的制圧を伴って支配を広げました。
出題元の学習トピックを確認する台湾総督府は日本国内の一般の府県庁と同じ権限しか持たず、軍事や警察には関与しなかった。
総督府は植民地統治のため行政・警察・軍事など幅広い権限を集中させました。
出題元の学習トピックを確認する台湾の土地調査は地籍を整理する制度整備であると同時に、総督府が課税や開発のため土地を把握する統治手段でもあった。
土地の境界や権利関係を整理することは、近代的地籍制度と植民地財政・統治の双方に結びつきました。
出題元の学習トピックを確認する鉄道・港湾・衛生などの整備は住民生活への影響だけを目的とし、植民地支配や商品流通とは無関係だった。
社会に具体的な変化をもたらす一方、支配の安定や財政確保、商品・資源の流通を支える政策でもありました。
出題元の学習トピックを確認する明治期の台湾統治は、軍事的制圧、警察・行政制度、土地・産業再編、住民の抵抗や適応が重なった過程として捉える必要がある。
植民地統治は単なる領土変更や『近代化』の一語では説明できず、複数の側面が同時に進みました。
出題元の学習トピックを確認する1890年に公布された旧民法は、そのまま直ちに施行され、1898年まで内容の再検討は行われなかった。
民法典論争を受けて施行は延期され、法典調査会で再検討された後、修正民法が1898年に全面施行されました。
出題元の学習トピックを確認する明治民法の家制度は、既存の家族・相続慣行の一部を選び、戸主を中心とする全国共通の法制度として再編したものだった。
家や相続の慣行は以前からありましたが、1898年民法はそれらを近代国家の法律として選択・制度化しました。
出題元の学習トピックを確認する『家』という生活単位や家業・家産の継承は1898年の民法によって初めて日本社会に生まれた。
多様な家族・相続慣行は明治以前から存在しており、民法はそれを新たな全国法制度へ再編しました。
出題元の学習トピックを確認する明治民法では、妻の一定の重要な法律行為に夫の許可を必要とする規定があり、男女の法的地位は対等ではなかった。
女性が一切財産を持てなかったわけではありませんが、婚姻した女性の法律行為能力には夫との関係で制限がありました。
出題元の学習トピックを確認する1898年民法は個人の自由だけを重視し、戸主権や家督相続のような家族秩序を法制化しなかった。
近代的な財産・契約法と同時に、戸主を中心とする家族法や家督相続も制度化しました。
出題元の学習トピックを確認する日清戦争後の政府と政党の接近は、どちらか一方が全面的に屈服した結果ではなく、予算成立や政権参加をめぐる双方の必要から進んだ。
政府には戦後経営の予算成立、政党には政策・人事への影響という動機があり、立憲政治を運営するため接近が進みました。
出題元の学習トピックを確認する1898年の隈板内閣は憲政党内の旧自由党系・旧進歩党系が完全に統合されていたため、長期安定政権となった。
両派の人事・党運営をめぐる対立が続き、隈板内閣は短期間で崩壊しました。
出題元の学習トピックを確認する1900年の立憲政友会結成によって元老・官僚・軍部・貴族院の政治的影響力は消滅した。
政友会は政府有力者と衆議院政党を結びつけましたが、元老・官僚・軍部・貴族院は引き続き大きな力を持ちました。
出題元の学習トピックを確認する桂園時代の政権運営には、桂太郎・西園寺公望の個人的関係だけでなく、元老・官僚・軍部・貴族院・衆議院政党など複数の勢力調整が必要だった。
桂と西園寺の交代の背後には、それぞれを支える複数の政治基盤と元老の首相推薦がありました。
出題元の学習トピックを確認する桂園時代には衆議院多数派が自動的に首相を選ぶ現在と同じ議院内閣制が完成していた。
首相選定には元老の推薦が大きく作用し、軍部・貴族院・官僚も強い影響力を持っていました。
出題元の学習トピックを確認する財閥と地主制は、同じ資本家が都市企業と農村を一体的に支配する一つの制度を指す。
財閥は企業資本・金融・事業経営の集中、地主制は農地所有と小作関係の拡大で、仕組みを分けて理解する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する三井・三菱・住友などの財閥は、すべて官営事業の払下げだけを出発点として成立した。
財閥ごとに起源は異なり、既存商業資本、海運、鉱業、政府との関係、市場拡大など複数の条件がありました。
出題元の学習トピックを確認する地主制の拡大には松方デフレだけでなく、地租改正後の土地制度、市場経済、負債、近世以来の地主・小作関係など複数の条件が関わった。
松方デフレは重要な要因の一つですが、地主制をそれだけの結果とすることはできません。
出題元の学習トピックを確認する明治期の地主は全員が自ら農業をせず、小作料だけで生活する大地主だった。
自作を続ける地主から大地主まで形態は多様で、地域差も大きくありました。
出題元の学習トピックを確認する明治後半の経済成長は産業投資を拡大する一方、企業資本や農地所有の集中を通じて資産格差を広げる側面も持った。
産業化は新しい事業機会を生みましたが、利益や資産が社会全体へ均等に分配されたわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する1883年の大阪紡績会社の操業開始だけで、日本の産業革命はその年に完成した。
大阪紡績会社は重要な転換点の一つですが、産業革命は1880年代後半から日清・日露戦争期にかけて機械制工業が拡大した長期過程です。
出題元の学習トピックを確認する製糸は繭から生糸をつくり、紡績は主に綿花から綿糸をつくるため、原料も主要市場も同じではなかった。
生糸は欧米向け、綿糸は日清戦争後にアジア市場への輸出を伸ばすなど、両産業は異なる役割を持ちました。
出題元の学習トピックを確認する日本の産業革命は1890年という一つの年に始まり、その年のうちに終わった出来事として理解できる。
紡績・製糸の機械化から鉄道・鉱業・鉄鋼の拡大まで、複数の産業が長期的に発展した過程です。
出題元の学習トピックを確認する官営八幡製鉄所は1901年に操業を始め、国内で大規模に鉄鋼を生産する重工業の基盤となった。
日清戦争後の国家投資を背景に建設され、鉄道・機械・軍需などに必要な鉄鋼の国内供給を支えました。
出題元の学習トピックを確認する八幡製鉄所の操業後、生糸や綿糸などの軽工業は急速に重要性を失い、重工業へ完全に置き換えられた。
重工業が成長した後も軽工業は主要な輸出産業であり、両者は並行して日本経済を支えました。
出題元の学習トピックを確認する明治後半の製糸・紡績では、農村出身の若い女性が主要な工場労働力として生産を支えた。
女性労働者は生糸・綿糸という主要産業の生産主体であり、農村家計にとっても賃金収入が重要でした。
出題元の学習トピックを確認する明治期の工場労働者は、業種・企業・地域にかかわらずほぼ同じ労働条件で働いていた。
繊維・鉱山・鉄工などで性別、年齢、技能、雇用形態、賃金や寄宿条件には大きな差がありました。
出題元の学習トピックを確認する政府は1900年に工場調査を行い、1903年の『職工事情』などで労働時間や寄宿舎を含む工場労働の実態を調べた。
労働実態の調査は工場法を検討する基礎資料となり、女性・年少者の保護問題を可視化しました。
出題元の学習トピックを確認する1911年に工場法が成立すると、その年から全国の対象工場で直ちに施行された。
工場法は1911年に成立・公布されましたが、実際の施行は行政準備などを経た1916年です。
出題元の学習トピックを確認する1911年の工場法は全工場・全労働者を対象に、成人男性を含む労働時間を一律に規制する完成した労働法だった。
対象となる工場には規模などの条件があり、保護は女子・年少者を中心とし、例外規定もありました。
出題元の学習トピックを確認する足尾銅山は近代産業を支える大鉱山へ成長する一方、生産拡大に伴う排水や廃棄物が公害問題の背景となった。
銅生産の拡大が国家経済を支えた一方、環境対策の遅れによって下流の農漁業へ負担が生じました。
出題元の学習トピックを確認する渡良瀬川流域では場所や時期に関係なく、すべての地域が常に同じ程度の鉱毒被害を受けた。
被害の程度は場所・時期・洪水の状況などで異なり、流域全体を一様な被害として扱うことはできません。
出題元の学習トピックを確認する足尾鉱毒問題では被害農民自身も請願や集団行動を続け、田中正造はその要求を議会や世論へつなぐ役割を果たした。
田中一人の運動ではなく、流域住民の継続的な運動と国政での追及が結びついて問題が政治化しました。
出題元の学習トピックを確認する1897年の政府命令によって足尾銅山は直ちに閉山し、鉱毒問題はその年に解決した。
政府は鉱毒予防工事を命じましたが、操業は継続し、被害住民との対立や問題は続きました。
出題元の学習トピックを確認する1901年の田中正造の直訴によって政府が直ちに鉱業を停止し、被害救済も完了した。
直訴は社会的関心を高めましたが、問題は解決せず、その後も調査・治水・谷中村問題などが続きました。
出題元の学習トピックを確認する明治後半の文学・美術・科学では、欧米から受け入れた知識や方法を日本の言語・教育・研究環境の中で再構成する動きが進んだ。
翻訳語、文章表現、美術教育、研究機関などを整え、外来の知識や技法を国内で使える形へ組み替えることが重要でした。
出題元の学習トピックを確認する二葉亭四迷の『浮雲』によって言文一致は一作で完成し、その後ほかの作家や新聞・雑誌の試みはほとんど必要なかった。
『浮雲』は先駆ですが、山田美妙らの試みや翻訳・新聞雑誌の文章も関わり、言文一致は段階的に定着しました。
出題元の学習トピックを確認する明治美術では、日本画は伝統をそのまま守り、洋画だけが新しい表現を試みるという明確な役割分担が続いた。
日本美術院も日本画の革新を試み、洋画側でも新しい技法が広がるなど、双方で表現の再編が進みました。
出題元の学習トピックを確認する北里柴三郎や志賀潔の成果は、海外で学んだ研究方法が国内の研究機関や人材育成へつながった例でもある。
北里の研究と伝染病研究所、そこでの志賀の研究は、実験研究を継続する制度の形成と結びついていました。
出題元の学習トピックを確認する鈴木梅太郎は1910年の時点で、現在の化学物質としてのビタミンB1を完全に同定していた。
米ぬか由来の有効成分をオリザニンと名づけた重要な研究ですが、現在のビタミンB1を完全同定したとするのは単純化です。
出題元の学習トピックを確認する義和団事件は、日本とロシアが中国国内で直接争った二国間戦争だった。
義和団の排外運動、清朝の対応、外国公使館包囲、日本を含む8か国の軍事介入が重なった国際危機でした。
出題元の学習トピックを確認する1901年の北京議定書で清は巨額の賠償金や外国軍の駐兵などを受け入れ、列強による財政・軍事上の制約が強まった。
義和団事件の終結は反乱鎮圧だけでなく、清が列強へ大きな賠償と駐兵権を認める結果を伴いました。
出題元の学習トピックを確認するロシアの満州駐兵は、日本の安全保障だけでなく清の主権や列強間の利害にも関わる問題だった。
満州では清の主権、ロシアの鉄道・軍事権益、日本の朝鮮政策、列強の中国政策が交差していました。
出題元の学習トピックを確認する日本政府はロシアの満州進出後、最初から日英同盟だけを外交方針とし、ロシアとの妥協案は検討しなかった。
日英提携と並行して、伊藤博文らは満州・朝鮮をめぐるロシアとの利害調整も模索しました。
出題元の学習トピックを確認する1902年の第1回日英同盟では、日本がロシア一国と戦争になればイギリスも自動的に参戦すると定められていた。
一国との戦争では同盟国は厳正中立を保ち、別の国が敵側へ加わった場合に軍事援助へ進む仕組みでした。
出題元の学習トピックを確認する日本は日露戦争でロシア本国を軍事的に屈服させ、無制限に戦争を継続できる余力を残したまま講和した。
日本軍は大きな勝利を得ましたが人的・財政的に消耗し、ロシアを全面降伏させたわけでもありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する日露戦争の戦費調達では、国内の増税や公債だけでなく、高橋是清らによる欧米市場での外債募集も重要だった。
巨額の戦費を賄うため、日本は海外金融市場からの資金調達にも大きく依存しました。
出題元の学習トピックを確認するポーツマス条約で日本は賠償金を得なかったが、韓国での優越的地位、南満州の権益、南樺太などを得た。
賠償金要求は断念しましたが、条約には日本側が獲得した重要な政治・領土・鉄道権益も含まれました。
出題元の学習トピックを確認する日比谷焼打ち事件は、賠償金が得られなかったことだけが原因で、集会禁止や警察への反発とは無関係だった。
講和条件への不満に加え、国民大会の禁止、警察との衝突、政府への不信や都市民衆の政治参加が重なりました。
出題元の学習トピックを確認するポーツマス条約は日本が賠償金も領土・権益も何一つ得られなかった、成果のない講和条約だった。
賠償金は得られませんでしたが、南樺太や南満州の鉄道・租借権、韓国における優越的地位などを得ました。
出題元の学習トピックを確認する1905年の第二次日韓協約によって韓国政府は直ちに廃止され、1910年と同じ植民地統治が始まった。
1905年にはまず外交権が奪われて保護国化し、韓国政府は残りました。独立国家そのものが消滅する併合は1910年です。
出題元の学習トピックを確認する1906年に韓国統監府が設置され、伊藤博文が初代統監となり、日本の支配機構が韓国内に常設された。
統監府を通じて日本は外交だけでなく財政・警察・通信・司法などへの影響力も広げました。
出題元の学習トピックを確認するハーグ密使事件後、高宗は退位へ追い込まれ、第三次日韓協約と韓国軍解散によって日本の内政・軍事への統制が強まった。
1907年には外交権だけでなく行政・人事・軍事を含む国家機能への支配が一段と深まりました。
出題元の学習トピックを確認する日本支配に抵抗した義兵は、全国で一つの統一指揮系統を持つ単一組織として活動した。
義兵は地域や指導者によって構成・目的・行動が異なり、1907年の軍解散後には元軍人も加わって拡大しました。
出題元の学習トピックを確認する1909年の伊藤博文暗殺を受けて、日本政府は初めて韓国併合を決定した。
日本政府は伊藤暗殺より前の1909年7月に、適当な時期に韓国を併合する方針をすでに決定していました。
出題元の学習トピックを確認する日露戦争後、日本が得た南樺太・関東州・南満州鉄道の権益は、すべて日本へ割譲された領土として同じ法的性格を持っていた。
南樺太は日本領、関東州は清領土上の租借地、南満州鉄道は清領土内の鉄道・付属権益であり、法的性格は異なります。
出題元の学習トピックを確認する日本は1905年の満州に関する日清条約で、ロシアから移された旅順・大連の租借権や鉄道権益について清の承認を得た。
満州は清の領域だったため、日本とロシアのポーツマス条約だけでなく清との条約による承認が必要でした。
出題元の学習トピックを確認する南満州鉄道株式会社は政府の対外政策とは無関係な一般の民間鉄道会社で、鉄道輸送以外の事業は行わなかった。
満鉄は政府の勅令にもとづく特殊会社で、鉄道のほか炭鉱・付属地・調査・都市整備など幅広い活動を担いました。
出題元の学習トピックを確認する南樺太はポーツマス条約で日本へ割譲された領土であり、1907年には樺太庁が設置された。
清領土上の租借地や満鉄権益とは異なり、南樺太では日本の領有地域として行政機構が整えられました。
出題元の学習トピックを確認する1907年・1910年の日露協約は、両国が満州での特殊利益を放棄し、清の領域への権益拡大を完全にやめたことを意味した。
協約はむしろ満州での利益範囲や特殊利益を相互に調整・確認するもので、清の領域内での列強の権益競争の一部でした。
出題元の学習トピックを確認する明治後半の労働組合運動は、すべて社会主義革命を目指す運動であり、賃金や労働時間の改善だけを求める活動は存在しなかった。
労働条件改善を目的とする組合運動と、社会制度の変革を目指す社会主義運動には接点があっても同一ではありません。
出題元の学習トピックを確認する1901年に結成された社会民主党は普通選挙や軍備全廃などを掲げたが、政府によって結党直後に禁止された。
社会主義思想が政党活動へ進む一方、政府は初期から禁止・解散などの統制を加えました。
出題元の学習トピックを確認する1900年の治安警察法は政治集会や結社だけでなく、労働者・小作人の争議行為にも警察的な制限を加えた。
工場法が保護立法であるのに対し、治安警察法は政治・社会運動や争議を統制する性格を持ちました。
出題元の学習トピックを確認する1908年の赤旗事件は、明治天皇暗殺計画が発覚して幸徳秋水らが大逆罪で起訴された大逆事件そのものだった。
赤旗事件は街頭示威と警察との衝突、大逆事件は1910年の暗殺計画をめぐる刑事事件で、別の事件です。
出題元の学習トピックを確認する大逆事件で死刑判決を受けた24名は、全員が同じ暗殺計画に同程度に参加していたことが後世の研究でも確定している。
被告ごとの関与には違いがあり、共謀範囲や事実認定、捜査・裁判の妥当性は後世まで重大な論争の対象です。
出題元の学習トピックを確認する明治期の日本人海外移民はハワイとアメリカ本土に限られ、南米への集団移住は大正時代以降に初めて始まった。
1899年にはペルー、1908年にはブラジルへの集団移住が始まり、明治期から移住先は中南米にも広がりました。
出題元の学習トピックを確認する米国西海岸の排日運動は、日本人移民が仕事を奪ったという経済問題だけで起こり、人種的偏見や地域政治は関係しなかった。
排日運動には人種差別、労働・土地をめぐる競争意識、労働組合や地域政治など複数の要因が重なりました。
出題元の学習トピックを確認する1906年のサンフランシスコでの日本人児童隔離問題は、日本政府の抗議を受けて日米間の外交問題へ発展した。
地方教育行政の問題が、条約上の待遇や移民問題と結びつき、国家間の交渉事項となりました。
出題元の学習トピックを確認する日米紳士協約は1908年に両国代表が署名した一通の正式条約で、日本人移民を全面禁止した。
単一の条約ではなく、1907〜1908年の外交了解と日本側の旅券発給制限などの行政措置の組み合わせです。
出題元の学習トピックを確認する日米紳士協約は新規労働移民を大幅に減らしたが、米国社会の排日感情や差別的な制度を解消したわけではなかった。
協約後も土地所有制限など排日的な動きが続き、1924年には日本人移民が事実上全面排除されます。
出題元の学習トピックを確認する不平等条約の改正は、1894年の改正条約締結、1899年の領事裁判権撤廃、1911年の関税自主権完全回復という段階を経て進んだ。
条約改正は一度の交渉で完成したのではなく、法権と税権の回復が異なる時期に実現しました。
出題元の学習トピックを確認する1894年の日英通商航海条約が調印された時点で、領事裁判権も関税自主権も直ちに完全回復した。
改正条約は1899年に施行されて領事裁判権が撤廃され、関税自主権の完全回復は1911年まで待つ必要がありました。
出題元の学習トピックを確認する1911年の関税自主権回復によって、日本政府は自国の法律と政策に応じて関税率を決められるようになった。
条約で固定されていた関税率の制約が取り除かれ、通商・産業政策上の重要な権限を回復しました。
出題元の学習トピックを確認する欧米との条約上の対等化が実現した1911年には、国内でも男女普通選挙や労働・社会問題の解決が完成していた。
条約上の主権回復と国内の政治的・社会的平等は別問題で、制限選挙、労働、公害など多くの課題が残っていました。
出題元の学習トピックを確認する1912年7月30日の大正改元によって、明治期の憲法・議会・官僚制・産業構造・植民地統治はその日にすべて廃止された。
元号が変わっても明治期に形成された制度や社会構造は大正期へ継続し、課題や運動も引き継がれました。
出題元の学習トピックを確認する
Result
0 / 10 問正解
間違えた問題は解説と出題元の学習トピックを確認できます。