自由党・立憲改進党と自由民権運動の分岐―国会開設が約束された後、運動はなぜ政党結成と激化事件へ進んだのか
一言でいうと
1881年の国会開設の勅諭によって1890年の国会開設が約束されると、自由民権運動は新しい段階へ入りました。国会で活動することを見据え、国会期成同盟を基盤に板垣退助を党首とする自由党が1881年に結成され、翌1882年には大隈重信を中心に立憲改進党が成立します。ただし、両党は支持基盤や政治構想が同じではなく、自由民権運動全体が二つの政党へそのまま整理されたわけでもありません。一方、地方では政府や県令による政治運動への規制や地域行政をめぐる対立が激化し、福島事件や加波山事件など異なる形の激化事件が起こりました。さらに松方財政下のデフレで農村不況が深まるなか、秩父事件が起こります。これらを一つの中央組織が計画した『自由党の反乱』とみなさず、政治的弾圧への抵抗、急進派の行動、負債農民の生活要求など異なる背景を区別する必要があります。
国会開設の約束はなぜ政党結成へつながったのか
1881年10月の国会開設の勅諭で、政府は1890年に国会を開設すると約束しました。民権派にとって、課題は単に『国会を開け』と要求することから、将来の国会でどのような政策を主張し、議席を通じて政府と向き合うかという段階へ移ります。
同年10月29日、国会期成同盟を基盤として自由党が結成され、板垣退助が党首となりました。旧土佐藩士だけでなく、各地の地主層や在野の言論人なども参加し、藩閥政府に対抗する全国政党を目指しました。
翌1882年3月には、明治十四年の政変で政府を去った大隈重信を中心に立憲改進党が結成されます。国会開設の約束は、民権運動を終わらせたのではなく、国会を見据えた政党政治の準備を促しました。
自由党と立憲改進党は何が違ったのか
自由党は国会期成同盟の流れを受け継ぎ、板垣退助を中心として各地の民権結社や地主層、地方活動家を広く結びつけました。思想面ではフランス流の自由民権思想の影響が強いとされます。
立憲改進党は大隈重信を中心に、小野梓・矢野竜渓・尾崎行雄らが参加し、イギリス型の立憲政治・議会政治を理想として掲げました。自由党とは人脈や政治構想に違いがあり、同じ民権派だからといって一つの党へまとまったわけではありません。
さらに、自由民権運動の参加者すべてが両党の党員になったわけでもありません。地方の結社、農民の負担軽減要求、新聞・演説を中心とする言論活動などは、それぞれ異なる社会的背景を持ちながら続きました。『自由民権運動=自由党と立憲改進党の活動』と同一視しないことが重要です。
自由党と立憲改進党はともに国会開設後の政治を見据えた政党でしたが、支持基盤・人脈・政治構想は同一ではなく、自由民権運動全体を二党だけで説明することはできません。
福島事件ではなぜ地方政治の対立が激化したのか
1882年、福島県では県令三島通庸と、自由党に参加した県会議長河野広中らが激しく対立しました。県会側は三島の強引な行政運営に反発し、議案を一律に否決するなど対抗します。
対立は県会の内部だけにとどまりませんでした。三島が進めた会津三方道路の建設では、農民に人夫や費用の負担が求められ、反対する農民の運動と民権派の政治運動が結びつきます。11月末に喜多方で農民と警察が衝突すると、これを契機に河野ら自由党関係者を含む多数が検挙されました。これが福島事件です。
福島事件は、自由党本部が全国一斉蜂起を命じた事件ではありません。県令と県会の政治対立、道路建設をめぐる地域住民の負担問題、政府による民権運動への警戒と弾圧が一つの地域で結びついて激化した事件として捉える必要があります。
なぜ一部の民権運動は急進化したのか
1880年代に入ると、集会条例などによる政治活動への規制が強まり、民権派の中には通常の請願や政党活動だけでは政治を変えられないと考える急進派も現れました。地方の対立や警察による検挙も、運動内部の緊張を高めます。
1884年の加波山事件では、自由党急進派の一部が三島通庸ら政府高官の襲撃を計画しました。爆弾の誤爆によって計画が発覚し、参加者は加波山で挙兵したのち警官隊と衝突します。
ここでも、自由党員が関わったことと、自由党という全国政党そのものが事件を組織したことは区別しなければなりません。自由党内部には穏健な議会活動を目指す人々と急進的な行動へ向かう人々が併存し、党首脳が地方の急進派を十分に統制できない状況が生まれていました。
秩父事件はなぜ政治運動だけでは説明できないのか
1881年に大蔵卿となった松方正義は、不換紙幣の整理などを進める緊縮的な財政政策を行いました。物価が下落するデフレのなかで、農村では農産物価格の低下や負債返済の重さが問題となり、土地を失う農民も増えていきます。松方財政の仕組み自体は後のTopicで詳しく扱いますが、自由民権運動の激化を理解するうえで農村不況は重要な背景です。
養蚕・製糸への依存が大きかった秩父地方でも、生糸価格の下落と負債が農民生活を圧迫しました。1884年、負債の据え置きや返済条件の緩和などを求める農民らが秩父困民党を組織し、郡役所・警察・高利貸しなどを襲撃する大規模な蜂起へ進みました。政府は軍隊・憲兵を出動させて鎮圧しました。
秩父事件には地域の自由党員や民権運動とのつながりがありましたが、その中心には負債に苦しむ農民の生活要求がありました。しかも自由党は秩父事件の直前、1884年10月29日に解党を決議しています。したがって秩父事件を『自由党が起こした反乱』とだけ説明すると、農村の社会経済的背景と事件の独自性を見失います。
激化事件の後、自由民権運動はどこへ向かったのか
福島事件や加波山事件などが続くなか、自由党は急進派を統制できず、政府による弾圧や党内の対立もあって1884年10月に解党しました。一方、立憲改進党は組織を維持し、両党の歩みは同じではありませんでした。
激化事件が鎮圧されたからといって政治参加要求が消えたわけでもありません。その後は民権派の再結集を目指す大同団結運動などが起こり、1890年の国会開設へ向けて政党勢力は再編されていきます。
同時に政府は、内閣制度の創設、憲法起草、大日本帝国憲法の発布へと立憲国家の制度づくりを進めます。自由民権運動の後半は、『民権派対政府』という一つの対立だけではなく、政党政治の準備、地域社会の抵抗、政府による統制、国家制度形成が並行する時期だったのです。
Review
入試で押さえるポイント
- 1881年、国会期成同盟を基盤に板垣退助を党首とする自由党が結成された
- 1882年、大隈重信を中心に立憲改進党が結成され、イギリス型の立憲政治・議会政治を掲げた
- 自由党・立憲改進党は支持基盤や政治構想が異なり、両党と自由民権運動全体を同一視しない
- 福島事件は三島通庸と河野広中らの対立、道路建設の負担への農民反対運動、民権運動への弾圧が結びついた事件
- 加波山事件は自由党急進派の一部による行動であり、自由党全体が全国的に計画した反乱ではない
- 秩父事件は松方デフレ下の農村不況・負債問題を重要な背景とし、地域の民権運動とのつながりはあるが単純な『自由党の反乱』ではない
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- 問1
自由党と立憲改進党は支持基盤・人脈・政治構想がほぼ同一で、自由民権運動全体もこの二党だけに整理された。
両党には支持層や政治構想の違いがあり、地方結社や農民運動など自由民権運動のすべてが二党へ収まったわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1881年、国会期成同盟を基盤に板垣退助を党首とする自由党が結成された。
国会開設が約束されたことで、将来の議会活動を見据えた全国政党の形成が進みました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
福島事件は自由党本部が全国一斉蜂起を命じ、その命令に従って起きた反乱だった。
県令と県会の対立、道路建設の負担問題、民権運動への弾圧が福島で結びついて激化した事件です。
本文の該当箇所を確認する - 問4
加波山事件は自由党急進派の一部が関わった事件で、自由党という全国政党全体が組織したものではない。
自由党内部には穏健派と急進派が併存し、党首脳が地方急進派を十分統制できない状況がありました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
秩父事件は自由党本部が計画した政党反乱で、農民の負債や松方デフレは事件の背景ではなかった。
秩父事件の中心には負債に苦しむ農民の生活要求があり、松方デフレ下の農村不況が重要な背景でした。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 黎明期の政党を担った人々国立国会図書館『近代日本人の肖像』
自由党・立憲改進党の結成時期、指導者、支持層・政治構想の違い、自由党解党までの流れを確認。
- 福島事件が起こる国立公文書館『日本のあゆみ』
三島通庸の会津三方道路建設、農民・県会側の反対、喜多方での衝突と多数の検挙を確認。
- 加波山事件関係資料(所蔵)国立国会図書館 リサーチ・ナビ
1884年の加波山事件が自由党急進派の一部による政府高官襲撃計画と挙兵であったことを確認。
- 秩父事件が起こる国立公文書館『日本のあゆみ』
1884年の秩父事件で農民らが負債減免などを求めて蜂起し、政府が鎮台兵・憲兵を出動させたことを確認。
- 秩父市の歴史秩父市
デフレによる生糸価格の暴落、借金問題、秩父困民党の結成という地域側の社会経済的背景を確認。
- 日本貨幣史 本文日本銀行金融研究所 貨幣博物館
1881年の松方正義大蔵卿就任、不換紙幣整理と緊縮財政、日本銀行設立へ至る松方財政の基本的な流れを確認。
