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明治時代1877〜1880年を中心に政治・外交重要度 A

自由民権運動の全国化と国会期成同盟―地域の政治運動はなぜ全国的な国会開設要求へまとまったのかじゆうみんけんうんどうのぜんこくかとこっかいきせいどうめい ちいきのせいじうんどうはなぜぜんこくてきなこっかいかいせつようきゅうへまとまったのか

一言でいうと

1874年の民撰議院設立建白書は自由民権運動の出発点の一つでしたが、それだけで全国に統一された運動が生まれたわけではありません。1877年の西南戦争後、大規模な士族武力反乱が一区切りを迎える一方、結社・演説・新聞・建白・請願などを通じて政府に政治参加を求める動きが各地で活発になりました。一時活動が停滞していた愛国社も立志社などによって再興され、地域の政社や有志を結ぶ場になります。1880年3月の愛国社第4回大会では国会期成同盟が結成され、河野広中・片岡健吉が国会開設を求める上願書を政府へ提出しようとしました。政府はこれを受理しませんでしたが、国会開設は一部の旧士族だけの要求ではなく、各地の政治運動を結びつける全国的な争点へ成長していきました。

西南戦争後、反政府運動はどう変わったのか

1874年の民撰議院設立建白書は、政府の「有司専制」を批判し、議会を通じて政治へ意見を反映させるべきだと主張しました。ただし、この時点では旧士族や知識人を中心とする動きで、全国の人々が同じ組織・同じ要求のもとにまとまっていたわけではありません。

1877年の西南戦争の最中、高知の立志社りっししゃでも進むべき方向は一つではありませんでした。武力蜂起を考える一派がいた一方、植木枝盛らは武力蜂起に反対し、地租の軽減や民撰議院の設立などを求める建白書を作成しました。片岡健吉がこの建白書を提出しましたが、政府に退けられました。

西南戦争の終結によって政府に対する大規模な士族武力反乱は一区切りを迎えます。その後、政治結社をつくり、演説や新聞で意見を広げ、建白・請願によって政府へ要求を示す活動がより重要になりました。ただし、反政府活動のすべてが一度に言論運動へ変わったと考えるのではなく、政治運動の中心が次第に別の形へ移っていったと捉えることが大切です。

自由民権運動を支えたのは誰だったのか

自由民権運動は板垣退助一人が全国へ広げた運動ではありません。各地で政治を学び、意見を交換する政社せいしゃがつくられ、旧士族に加えて豪農ごうのう・地主層、地域の名望家、都市の知識人や言論人など、異なる背景を持つ人々が参加しました。

地域の運動には、国会や憲法といった全国政治の問題だけでなく、地租負担、地方行政、地域社会で誰が政治の決定に参加するのかといった身近な問題も関わっていました。こうした地域ごとの課題が、政府の政治を一部の官僚だけで決めるべきではないという批判と結びついていきます。

そのため、自由民権運動を「全国民が同じ民主主義を求めた運動」と単純化することはできません。参加者の社会的立場や要求には違いがあり、選挙権を誰に認めるか、どのような憲法や議会をつくるかについても考え方は一様ではありませんでした。

愛国社はなぜ全国化の拠点になったのか

各地の運動を結びつけるうえで重要だったのが愛国社あいこくしゃです。愛国社は一時活動が停滞していましたが、立志社などの働きによって1878年に再興されました。その後、各地の政社代表や有志が大会へ集まり、地域を越えて政治課題を共有する場になっていきます。

愛国社の大会が重要なのは、地方の運動が中央からの命令で一つに統合されたのではなく、それぞれの地域で活動していた人々が会合を重ね、共通の要求を探っていった点です。士族中心の運動、農村の豪農・名望家を中心とする運動、都市の知識人らの言論活動などが接点を持つことで、国会開設を全国的な目標として掲げる条件が整っていきました。

自由民権運動の全国化とは、同じ考えを持つ一つの組織が全国へ拡大したことではなく、地域ごとに異なる運動が国会開設という共通目標で結びついていく過程でした。

国会期成同盟は何を実現しようとしたのか

1880年3月、各地の政社代表や有志が参加した愛国社第4回大会で、国会期成同盟こっかいきせいどうめいが結成されました。国会開設を求める各地の運動を結び、その実現を継続的に進める全国的な組織です。

国会期成同盟は「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スル書」を作成し、河野広中こうのひろなかと片岡健吉かたおかけんきちを提出委員としました。1880年4月、二人は太政官と元老院へ上願書を提出しようとしましたが、受理されませんでした。

しかし、国会開設要求そのものが消えたわけではありません。1880年には全国各地から国会開設を求める多数の建白書が提出されました。国会期成同盟は、1874年以来の議会要求を各地の運動と結びつけ、国会開設を全国政治の大きな争点へ押し上げた点で重要です。

全国化した運動に政府はどう対応したのか

自由民権運動が結社や演説会を通じて広がると、政府もこれをそのまま放置したわけではありません。1880年4月には集会条例しゅうかいじょうれいが公布され、政治集会や政治結社への規制が強められました。運動の全国化と政府による統制は並行して進んでいたのです。

それでも国会開設要求は政治課題として残り続けました。こうした運動の高まりは、翌1881年に政府が1890年の国会開設を約束する勅諭を出す段階へつながっていきます。

ここで注意したいのは、1880年前後の国会開設要求を現在の普通選挙制や民主主義制度がそのまま求められていたと理解しないことです。誰を政治参加の主体とするのか、どのような憲法・議会を構想するのかは、この後さらに議論され、自由党・立憲改進党などの政党結成へつながっていきます。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1874年の民撰議院設立建白書は自由民権運動の出発点の一つだが、直ちに全国統一運動が成立したわけではない
  • 西南戦争後、大規模な士族武力反乱が一区切りを迎える一方、結社・演説・新聞・建白・請願を通じる政治運動が活発化した
  • 愛国社は立志社などによって1878年に再興され、各地の政社・有志を結びつける場となった
  • 1880年3月に国会期成同盟が結成され、河野広中・片岡健吉が国会開設の上願書を提出しようとしたが政府は受理しなかった
  • 1880年の集会条例は政治集会・政治結社を規制した。自由民権運動の全国化と政府による統制が並行して進んだ

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  1. 問1

    西南戦争後、政府への反対運動では結社・演説・新聞・建白・請願を通じた政治参加要求が次第に重要になった。

  2. 問2

    自由民権運動は板垣退助一人の指示で全国へ拡大し、参加者の要求も地域を問わず同一だった。

  3. 問3

    1878年に再興された愛国社は、各地の政社代表や有志が地域を越えて政治課題を共有する場となった。

  4. 問4

    1880年、河野広中・片岡健吉が提出しようとした国会開設の上願書は政府に正式受理され、ただちに国会開設が決まった。

  5. 問5

    1880年の集会条例は政治集会や政治結社を保護・奨励し、自由民権運動の活動を広げるために制定された。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 自由民権運動が全国へ広がる
  2. 国会期成同盟が結成される
  3. 民撰議院設立建白書が提出される
  4. 西南戦争が起こる
  5. 集会条例が制定される
  6. 国会開設の勅諭が出される

Sources

参考資料

  1. 立志社の国会開設請願国立国会図書館『史料にみる日本の近代』

    1877年の立志社建白、立志社内部での武力蜂起をめぐる分岐、建白書の要求と却下を確認。

  2. 国会期成同盟の請願国立国会図書館『史料にみる日本の近代』

    西南戦争後の自由民権運動、愛国社再興、1880年の国会期成同盟結成、河野広中・片岡健吉による上願書提出と不受理を確認。

  3. 国会開設前夜国立公文書館『近代国家 日本の登場』

    結社・演説会・ジャーナリズムによる自由民権運動の拡大と、1880年に各地から多数の国会開設建白書が提出されたことを確認。

  4. 集会条例が制定される国立公文書館『日本のあゆみ』

    1880年4月5日の集会条例公布と、政治集会・政治結社を取り締まる規定を確認。

  5. 愛国社第4回大会・国会期成同盟法政大学大原社会問題研究所『大原クロニカ』

    1880年3月の大会に各地の政社・有志が参加し、国会開設運動の全国組織として国会期成同盟が成立したことを確認。