内閣制度と憲法制定準備―国会開設を前に政府はなぜ統治制度を組み替えたのか
一言でいうと
1881年の国会開設の勅諭によって1890年の国会開設が約束されると、政府には憲法・議会だけでなく、それらを支える行政・宮中・上院などの制度を整える課題が生まれました。伊藤博文は1882年からヨーロッパ各国の立憲制度を調査し、帰国後は憲法制定準備を主導します。1884年の華族令は将来の貴族院を支える身分制度の再編につながり、1885年には太政官制に代わって内閣制度が創設され、伊藤が初代内閣総理大臣となりました。1886年ごろから井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らと憲法草案の作成が進み、1888年には枢密院が設置されて草案審議が行われます。これは議会の要求をそのまま制度化したのではなく、政府側が天皇を中心とする立憲国家の仕組みを段階的に設計した過程でした。
国会開設の約束だけでは何が足りなかったのか
1881年の国会開設の勅諭は、1890年に国会を開くことを約束しました。しかし、国会を開くには、議会の権限、天皇と政府の関係、行政を担う組織、上院・下院の構成、司法や地方制度など、国家全体の仕組みを定める必要がありました。
明治政府にとって課題は『国会を開くかどうか』から、『どのような立憲国家をつくるのか』へ移ったのです。自由民権派が私擬憲法などを通じて構想を示す一方、政府も独自に制度設計を進めました。
伊藤博文はヨーロッパで何を調べたのか
1882年3月、伊藤博文は立憲制度調査のためヨーロッパへ出発しました。調査対象は憲法だけではなく、皇室、上下両院、内閣、司法、地方制度など広い範囲に及びました。
伊藤はドイツ・オーストリアを中心にグナイスト、モッセ、シュタインらから学びましたが、イギリスやベルギーなども訪れています。したがって『ドイツ憲法をそのまま日本へ移した』と捉えるのは不正確です。複数の制度を比較しながら、日本の君主制と政府組織に合う仕組みを選択・再構成していきました。
華族令はなぜ憲法制定準備と関係するのか
1884年の華族令では、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵制が定められました。旧公家・旧大名だけでなく、維新の功労者なども新たに爵位を与えられます。
この再編は単なる称号制度ではなく、のちの帝国議会で上院となる貴族院の構成と結びつきました。ただし、貴族院議員すべてが華族だったわけではなく、勅選議員や多額納税者議員なども置かれます。華族令を『貴族院そのものの設置』と同一視しないことが重要です。
なぜ太政官制から内閣制度へ変えたのか
1885年12月22日、明治政府は太政官制を廃止し、内閣制度を創設しました。内閣総理大臣と各省大臣によって行政を処理する仕組みが整えられ、伊藤博文が初代内閣総理大臣となります。
内閣制度は、太政大臣・左右大臣・参議などが並ぶ従来の仕組みを改め、各省を担当する大臣とその首班である内閣総理大臣を明確にするものでした。憲法施行後の国家運営を見据えた行政組織の再編でもあります。
ただし、これは現在の議院内閣制と同じではありません。内閣総理大臣は衆議院の多数派によって選ばれる仕組みではなく、内閣も帝国議会に対して政治的責任を負う制度として出発したわけではありませんでした。
『内閣制度ができた=現在と同じ議院内閣制が始まった』ではありません。行政組織としての内閣制度と、議会多数派を基礎とする政党内閣は区別して理解する必要があります。
憲法草案はどのように作られ、審議されたのか
政府内部では1886年ごろから憲法草案の作成が本格化しました。井上毅やドイツ人法律顧問ロエスレルらの草案も参照し、伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ねます。1887年には神奈川県夏島で審議された草案がまとめられ、さらに修正が続きました。
1888年には枢密院が設置され、伊藤が初代議長として憲法草案の審議を主導しました。枢密院は帝国議会とは別の天皇の諮詢機関であり、国民の選挙で議員が選ばれる機関ではありません。
こうして政府側の制度設計は1889年の大日本帝国憲法発布へ到達します。次のTopicでは、憲法が天皇・臣民・帝国議会の関係をどのように定め、実際の選挙と議会開設へどうつながったのかを詳しく見ます。
Review
入試で押さえるポイント
- 1881年の国会開設の勅諭後、政府は憲法・議会だけでなく行政や上院など立憲国家全体の制度設計を進めた
- 伊藤博文は1882〜1883年にヨーロッパ各国の憲法・議会・内閣などを調査し、ドイツだけを参照したわけではない
- 1884年の華族令は五爵制を定め、後の貴族院を支える制度形成と関係した
- 1885年に太政官制が廃止され内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった
- 1888年に枢密院が設置され、大日本帝国憲法草案の審議が行われた
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- 問1
1890年の国会開設を実現するには、議会だけでなく行政・上院・司法など立憲国家全体の制度設計も必要だった。
国会開設の約束後、政府は憲法・議会とあわせて内閣、華族、枢密院など国家全体の制度を段階的に整えました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
伊藤博文はドイツ憲法だけを調査し、その制度をほぼそのまま日本へ移植した。
ドイツ・オーストリアを重視しましたが、イギリスやベルギーなども調査し、複数の制度を比較して日本向けに再構成しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1884年の華族令そのものが貴族院を設置し、貴族院議員を華族だけに限定した。
華族令は五爵制を整え、後の貴族院と関係しましたが、貴族院自体の設置ではなく、勅選議員や多額納税者議員など華族以外の議員も置かれました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1885年、太政官制に代えて内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。
内閣総理大臣と各省大臣による行政組織へ再編され、憲法施行後の国家運営を見据えた体制が整えられました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1885年の内閣制度は、衆議院多数派が首相を選び、内閣が議会に政治責任を負う現在と同じ議院内閣制として始まった。
当初の内閣総理大臣は衆議院多数派によって選ばれる制度ではなく、内閣も帝国議会に対して政治的責任を負う仕組みではありませんでした。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 伊藤博文のヨーロッパ憲法調査国立国会図書館『史料にみる日本の近代』
1882年の伊藤博文渡欧、各国の憲法・議会・内閣など31項目の調査とドイツ・オーストリア・イギリス・ベルギー等での調査を確認。
- 内閣制度の概要首相官邸
1885年12月22日の内閣制度創設、太政官制廃止、内閣総理大臣・各省大臣の設置と初代首相伊藤博文を確認。
- 憲法制定へ国立国会図書館『史料にみる日本の近代』
1886年ごろからの憲法起草、夏島草案、1888年の枢密院での憲法審議へ至る過程を確認。
- 太政官制度に代わり、内閣制度が創始される国立公文書館『日本のあゆみ』
太政官制廃止、内閣制度創設、伊藤博文の初代内閣総理大臣任命を確認。
