大日本帝国憲法と最初の総選挙・帝国議会―立憲政治はどこまで政治参加を認めたのか
一言でいうと
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、翌1890年11月29日に施行されました。憲法は天皇が国の元首として統治権を総攬する立憲君主制を定める一方、法律・予算について帝国議会の協賛を必要とし、臣民にも法律の範囲内で言論・集会・信教・財産などの権利を認めました。同日に公布された衆議院議員選挙法は、選挙権を25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者に限定しました。1890年7月の第1回衆議院議員総選挙で有権者は総人口の約1.1%にすぎませんでしたが、同年11月には貴族院と衆議院からなる第1回帝国議会が開かれ、政府が法律や予算を議会と調整しなければならない政治が始まります。立憲政治の成立は政治参加を制度化した一方、その参加範囲には大きな制限がありました。
大日本帝国憲法はどのような形で制定されたのか
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。政府内部で起草され、枢密院で審議された憲法を天皇が臣民に与える欽定憲法という形式でした。
憲法は発布された1889年に直ちに全面施行されたのではなく、帝国議会開設に合わせて1890年11月29日に施行されます。その間に選挙や貴族院議員の選任など、議会を実際に動かす準備が進められました。
天皇の権限と帝国議会はどのように両立したのか
大日本帝国憲法では、天皇は国の元首として統治権を総攬すると定められ、行政・軍の統帥・外交・議会の召集や解散などに広い権限を持ちました。国務大臣は天皇を輔弼する立場とされます。
一方で、法律の制定や予算には帝国議会の協賛が必要でした。帝国議会は貴族院と衆議院の二院からなり、政府は議会を無視して通常の法律や新たな予算を自由に成立させられるわけではありませんでした。
したがって、『天皇主権だから議会には意味がなかった』と考えるのも、『議会ができたので現在と同じ民主政治になった』と考えるのも適切ではありません。強い君主権を持つ憲法体制の中に、議会による法律・予算審議が組み込まれたと捉える必要があります。
大日本帝国憲法下では強い天皇大権と帝国議会の制度的権限が併存しました。どちらか一方だけで立憲体制を説明しないことが重要です。
『臣民の権利』はどこまで認められたのか
憲法は日本人を『臣民』と位置づけ、居住・移転、信教、言論・出版・集会・結社、信書の秘密、私有財産などについて権利を定めました。国家の基本法に権利規定が置かれたことは、近代国家制度の重要な一部です。
ただし、多くの権利には『法律ノ範囲内』や『法律ニ定メタル場合』などの条件が付けられていました。集会条例や後の治安立法のように、法律によって政治活動を規制する余地も大きく残されていました。
このため、明治憲法下の権利を現在の日本国憲法上の基本的人権とそのまま同じものとして理解しないことが必要です。
最初の衆議院選挙には誰が参加できたのか
憲法と同じ1889年2月11日に衆議院議員選挙法が公布されました。最初の選挙権は、25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者に限られました。女性には選挙権がなく、男性でも多くの人が納税資格を満たしませんでした。
1890年7月1日の第1回衆議院議員総選挙では、議員定数300に対し、有権者は総人口の約1.1%でした。政治参加が選挙という制度に組み込まれた一方、その入口は財産・納税額・性別・年齢によって非常に狭く限定されていたのです。
したがって、この選挙を『普通選挙の開始』とは呼べません。納税資格を撤廃した男子普通選挙が成立するのは1925年、女性参政権が認められるのは第二次世界大戦後です。
帝国議会の開設で政治は何が変わったのか
衆議院議員の選挙と貴族院議員の選任を経て、1890年11月に第1回帝国議会が開かれました。これによって、政府の政策や予算が全国から選ばれた衆議院議員を含む議会で公開に審議される仕組みが実際に動き始めました。
衆議院では自由民権運動の流れをくむ民党勢力が大きな議席を占め、政府と予算をめぐって対立します。政府は政党から距離を置く姿勢を示していましたが、議会の同意を必要とする制度のもとでは、議員との交渉や妥協を避け続けることはできませんでした。
ここから先は、民党が掲げた『民力休養・政費節減』、政府の超然主義、第2回総選挙での選挙干渉など、初期議会特有の政治対立が展開します。その具体的な攻防は次の学習段階で扱います。
Review
入試で押さえるポイント
- 大日本帝国憲法は1889年2月11日に発布され、1890年11月29日に施行された
- 天皇が統治権を総攬する一方、法律・予算には帝国議会の協賛が必要とされ、強い天皇大権と議会制度が併存した
- 臣民の権利は憲法に規定されたが、法律による制限を受ける形で保障された
- 1889年の衆議院議員選挙法では25歳以上・直接国税15円以上を納める男子に選挙権が限られた
- 1890年の第1回総選挙の有権者は総人口の約1.1%で、同年11月に第1回帝国議会が開かれた
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大日本帝国憲法は1889年2月11日に発布され、その日から帝国議会を含む全制度が全面施行された。
憲法は1889年に発布されましたが、施行は帝国議会開設に合わせた1890年11月29日です。
本文の該当箇所を確認する - 問2
大日本帝国憲法下では天皇に広い権限が認められる一方、通常の法律や予算には帝国議会の協賛が必要だった。
強い天皇大権と、法律・予算を審議する帝国議会の制度的権限が同じ憲法体制の中に併存しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
明治憲法で認められた臣民の権利は、法律による制限を受けない現在と同じ絶対的な基本的人権として保障された。
多くの権利には『法律ノ範囲内』などの条件があり、法律による制限の余地が大きく残されていました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1890年の第1回衆議院議員総選挙では、25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者に選挙権が限られた。
有権者は総人口の約1.1%で、最初の総選挙は普通選挙ではなく強く制限された選挙でした。
本文の該当箇所を確認する - 問5
帝国議会は象徴的な機関にすぎず、政府は議会の同意なしに通常の法律や新たな予算を自由に成立させることができた。
法律・予算には議会の協賛が必要で、政府は民党勢力との交渉や妥協を迫られるようになりました。
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Sources
参考資料
- 大日本帝国憲法が発布される国立公文書館『日本のあゆみ』
1889年2月11日の憲法発布、天皇の統治権、臣民の権利、帝国議会の法律・予算審議権を確認。
- 明治国家の展開:大日本帝国憲法の制定・帝国議会の開設国立国会図書館『史料にみる日本の近代』
憲法制定から帝国議会開設までの制度形成全体と、華族令・内閣制度との接続を確認。
- 衆議院議員・貴族院議員の選出へ国立国会図書館『史料にみる日本の近代』
1890年7月1日の第1回衆議院議員選挙、議員定数300、有権者が総人口の約1%であったこと、貴族院の構成を確認。
- 第1回衆議院議員選挙で当選した人々国立国会図書館『近代日本人の肖像』
選挙権が直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限られ、有権者が人口の約1.1%であったことを確認。
- 帝国議会の開幕国立国会図書館『史料にみる日本の近代』
第1回帝国議会で民党と政府・吏党の対立が始まり、予算審議で議会との調整が必要になったことを確認。
