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明治時代1881年政治・外交重要度 A

開拓使官有物払下げ事件と明治十四年の政変・国会開設の勅諭―政治危機はなぜ国会開設の約束へつながったのかかいたくしかんゆうぶつはらいさげじけんとめいじじゅうよねんのせいへん こっかいかいせつのちょくゆ せいじききはなぜこっかいかいせつのやくそくへつながったのか

一言でいうと

1881年、政府は憲法をいつ、どのような形で制定するかをめぐって内部対立を深めていました。大隈重信はイギリス型の議会政治を念頭に早期の憲法制定を主張し、伊藤博文らの漸進的な構想と隔たりがありました。そこへ、開拓使が官有の施設・土地などを関係の深い民間側へ有利な条件で払い下げようとした問題が重なり、藩閥政治への批判と国会開設要求が高まります。政府は10月に払下げを中止し、大隈を政府から退けました。同時に国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開設すると約束します。明治十四年の政変は、払下げ事件だけで起きたのではなく、政府内の憲法構想・財政や政策をめぐる対立、自由民権運動による世論の高まりが重なった政治危機でした。

政府内では憲法と国会をめぐって何が争われていたのか

国会期成同盟などが国会開設を要求する一方、政府内部でも立憲政治へ移ること自体は重要な課題になっていました。ただし、いつ憲法を制定し、どのような議会制度をつくるかについて意見は一致していませんでした。

1881年、大隈重信おおくましげのぶは意見書で、イギリス型の議会政治を念頭に置き、1883年初頭の憲法制定を主張しました。これに対し、伊藤博文いとうひろぶみらはより時間をかけて制度を整える立場でした。

対立は憲法論だけではありません。財政政策や政府内の主導権をめぐる軋轢も重なっていました。そのため、明治十四年の政変を『大隈と伊藤の憲法論争だけ』で説明することも適切ではありません。

開拓使官有物払下げ事件はなぜ大きな政治問題になったのか

1881年、北海道開拓を担当してきた開拓使の廃止を前に、開拓長官の黒田清隆くろだきよたかは開拓使の官有物を民間へ払い下げる計画を進めました。払い下げ先には薩摩出身者と関係の深い関西貿易社が含まれ、条件も有利だとして強い批判を受けます。

問題は単なる財産処分ではありませんでした。政府中枢の人間関係を利用して公有財産を特定の勢力へ安く譲るのではないかという疑念が、『藩閥政治』への批判と結びついたからです。新聞などを通じて反対世論が広がり、自由民権派の国会開設要求とも結びついていきました。

ただし、払下げ事件を明治十四年の政変の唯一の原因とみなすのは単純化しすぎです。政府内ではすでに憲法制定の時期や政治制度、財政政策をめぐる対立が進んでおり、払下げ問題はそれらを一気に政治危機として表面化させる契機になりました。

開拓使官有物払下げ事件は政変の単一原因ではなく、政府内対立と藩閥政治への世論の批判を結びつけ、政治危機を深めた重要な契機でした。

なぜ大隈重信は政府を去ったのか

払下げ反対運動が高まるなか、政府内では大隈や福沢諭吉らが反対世論の背後にいるのではないかという疑いも広がりました。大隈に近い人物が運動に関わっていたことも、政府中枢の警戒を強めました。

1881年10月、政府は払下げを中止するとともに大隈を罷免しました。これが明治十四年の政変めいじじゅうよねんのせいへんです。大隈に近い官僚も政府を去り、政府内の政治構想の対立は大きく整理されました。

大隈の失脚を『払下げ事件の責任を取らされた』とだけ理解するのは不正確です。大隈自身が払下げを主導したわけではなく、背景には憲法構想、財政・政策上の対立、政府内での政治的不信がありました。

国会開設の勅諭は何を約束したのか

政変と同じ1881年10月、政府は国会開設の勅諭こっかいかいせつのちょくゆを発しました。ここで政府は1890年を期して国会を開設すると明言しました。長く国会開設を要求してきた自由民権運動にとって、開設年が政府によって示されたことは大きな転換でした。

一方、勅諭は民権派の要求をそのまま受け入れたものではありません。憲法や国会の組織・権限は政府側が準備し、天皇の裁定を経て定めるという立場も明確にされていました。

したがって、1881年に自由民権運動が政府へ全面的に勝利したと捉えるのは適切ではありません。政府は国会開設を約束することで政治的圧力に対応すると同時に、憲法制定と立憲体制づくりの主導権を自ら握ろうとしました。

国会開設の約束で自由民権運動は終わったのか

国会開設の時期が決まると、政治参加を求める側の課題は『国会を開け』という要求だけではなくなりました。1890年の国会開設を見据え、どのような政党をつくり、どのような憲法・議会政治を目指すのかが具体的な争点になります。

1881年10月には国会期成同盟を基盤として自由党が結成され、翌1882年には大隈重信を中心に立憲改進党が結成されます。自由民権運動は国会開設の約束によって終わったのではなく、政党活動へ進む流れと、地域の社会・経済問題と結びついてより急進化する流れへ分岐していきました。

その一方で政府は憲法制定の準備を進めます。ここから明治政治は、政府による立憲国家形成と、民権派による政党・政治運動が並行して進む新しい段階へ入ります。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1881年の大隈重信はイギリス型議会政治を念頭に早期の憲法制定を主張し、伊藤博文らの漸進的構想と対立した
  • 開拓使官有物払下げ事件では黒田清隆が進めた官有物の払下げが藩閥政治への批判を招き、国会開設要求とも結びついた
  • 明治十四年の政変は払下げ事件だけでなく、憲法構想・財政政策・政府内の主導権をめぐる対立が重なって起きた
  • 1881年10月に大隈重信が政府を去り、同時期に開拓使官有物の払下げは中止された
  • 国会開設の勅諭は1890年の国会開設を約束したが、憲法制定と制度設計の主導権は政府側が握る姿勢を示した

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  1. 問1

    明治十四年の政変は、開拓使官有物払下げ事件だけを原因として起こり、憲法構想や財政政策をめぐる政府内対立とは無関係だった。

  2. 問2

    開拓使官有物払下げ計画は、政府中枢と関係の深い民間側へ有利な条件で公有財産を譲るのではないかという藩閥政治批判と結びついた。

  3. 問3

    大隈重信は開拓使官有物払下げを自ら主導した責任だけを問われて政府を去った。

  4. 問4

    1881年の国会開設の勅諭は、1890年を期して国会を開設すると約束した。

  5. 問5

    国会開設の勅諭によって自由民権運動の要求は全面的に実現し、その後の政党活動は不要になった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 開拓使官有物払下げ事件が起こる
  2. 明治十四年の政変で大隈重信が政府を去る
  3. 国会開設の勅諭が出される
  4. 国会期成同盟が結成される
  5. 自由民権運動が全国へ広がる

Sources

参考資料

  1. 明治14年の政変国立国会図書館『史料にみる日本の近代』

    大隈重信の憲法意見、財政政策を含む政府内対立、開拓使官有物払下げ問題と政変の関係を確認。

  2. 開拓使官有物払下許可及び取り消しの件(明治14年)国立公文書館『明治宰相列伝:黒田清隆』

    開拓使官有物払下げ、世論の批判、払下げ取消し・大隈免官・国会開設の勅諭への流れを確認。

  3. 国会開設の勅諭が発せられる国立公文書館『日本のあゆみ』

    1881年10月12日の勅諭、1890年の国会開設、憲法・制度設計に対する政府側の姿勢を確認。