文明開化と『学問のすゝめ』・明六社―欧米の制度・思想は社会をどう変えたのか
一言でいうと
明治初期には、政治制度や産業技術だけでなく、人々の生活時間、学問、言論、宗教をめぐる考え方にも大きな変化が起こりました。こうした欧米の制度・知識・生活文化を取り入れながら社会が変わっていく動きを、一般に文明開化と呼びます。1872年には太陽暦の採用が決まり、福沢諭吉らの『学問のすゝめ』初編が刊行されました。1873年には森有礼らが明六社を結成し、翌年から『明六雑誌』を通じて政治・教育・宗教・言語などを論じました。同じ1873年にはキリスト教禁制の高札も撤去されます。ただし、文明開化は一つの法令によって全国の人々が一斉に西洋化した出来事ではありません。政府が制度を変更する動きと、民間の知識人が欧米の思想を翻訳・紹介し議論する動きが並行し、都市と農村、地域や階層によって変化の速さにも差がありました。
文明開化とは何が変わることだったのか
明治政府は、学校・軍隊・税制・交通・産業などの制度を改める一方、欧米から新しい知識や生活習慣も取り入れました。洋服、洋風建築、ガス灯、鉄道などは文明開化を象徴するものとして知られていますが、変化は目に見える風俗だけではありませんでした。
暦や時間の制度、学校で学ぶ内容、出版物で使われる新しい概念、宗教をめぐる政策なども変化しました。国立歴史民俗博物館が近代展示で示すように、文明開化は近代国家形成の中で人々の意識や生活様式が変わっていく過程として捉える必要があります。
また、欧米の制度や思想がそのまま日本社会へ移されたわけではありません。外国語の概念を日本語へ訳し、既存の社会や価値観と照らし合わせながら意味を考え直す作業が必要でした。文明開化は、外来文化の受容だけでなく、それを日本でどう理解し使うかをめぐる試行錯誤でもありました。
太陽暦の採用は人々の生活時間をどう変えたのか
1872年11月、政府は従来の太陰太陽暦を改め、太陽暦を採用することを決めました。旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とし、1年を365日、1日を24時間とする制度が定められました。
暦は単なる日付の数え方ではありません。官庁の事務、学校、交通、商取引、年中行事など、人々が同じ時間の基準で活動するための基盤です。政府が全国共通の暦を定めたことは、近代国家が人々の生活時間にも共通の基準を及ぼしていく一例でした。
ただし、布告と同時に人々の生活習慣がすべて新暦へ切り替わったわけではありません。旧暦にもとづく季節感や年中行事はその後も社会に残りました。制度の変更と生活習慣の変化には時間差があったことも押さえる必要があります。
文明開化は洋服や建築の変化だけでなく、暦のような社会共通の時間制度にも及びました。
『学問のすゝめ』は何を人々に問いかけたのか
1872年、福沢諭吉と小幡篤次郎による『学問のすゝめ』初編が刊行されました。好評を受けて続編が書かれ、1876年までに全17編が刊行されました。
初編冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は非常に有名ですが、この一節だけで内容を単純な平等論とするのは不十分です。福沢は、生まれながらの身分差を当然視せず、その一方で人々の間に生じる違いを学問の有無と結びつけ、日常生活や社会に役立つ実学を学ぶことを重視しました。
さらに福沢は、他人に依存せず自ら考え生活を支える『一身の独立』を重視し、それを国家の独立とも結びつけて論じました。学問は知識を覚えるだけでなく、自立した個人として社会を生きるための基礎だと考えたのです。
ただし、福沢の主張は明治政府が発した公式政策ではありません。政府が学制を公布して学校制度を整える一方で、民間の教育者・知識人も出版や教育活動を通じて、新しい社会で何を学ぶべきかを論じていました。
明六社ではなぜ知識人が議論を交わしたのか
1873年、森有礼を中心に明六社が結成されました。西周、津田真道、中村正直、加藤弘之、福沢諭吉ら、海外経験や洋学の知識を持つ知識人が参加しました。
明六社は政府の法令を決める機関ではなく、知識人が意見を交換する結社です。1874年から『明六雑誌』を刊行し、政治制度、教育、宗教、言語、社会習慣など幅広い問題を論じました。欧米の概念を紹介するだけでなく、日本社会へどう取り入れるべきかを議論する場でもありました。
重要なのは、社員の意見が一枚岩ではなかったことです。同じ欧米の知識を学んだ人々でも、宗教や政治、社会制度について立場は異なりました。文明開化期には『西洋の考え方』が一つの完成した答えとして輸入されたのではなく、翻訳と論争を通じて新しい概念の意味が形づくられていったのです。
『明六雑誌』は1875年まで刊行されました。新聞紙条例の改正や讒謗律によって言論への規制が強まる中、福沢の提案を受けて刊行停止が決められました。新しい言論空間が広がる一方、それを国家がどこまで認めるかという問題も同時に存在していました。
キリスト教禁制の高札撤去は何を意味したのか
1873年2月、政府はキリスト教禁制の高札を撤去しました。江戸時代初期以来続いてきたキリスト教を公に禁止する政策が転換された重要な出来事です。
この転換の背景の一つには、開国後に欧米諸国との外交関係が深まり、宗教政策も国際社会との関係の中で見直す必要が生じたことがありました。文明開化は物質文化だけでなく、国家が宗教をどのように扱うかという問題にも及んでいたのです。
ただし、高札が撤去された1873年に宗教をめぐる問題がすべて解決し、現在と同じ宗教の自由の制度が完成したわけではありません。明治政府はその後も神社制度や宗教行政を再編しており、宗教と国家の関係は引き続き変化していきました。
文明開化で日本社会は一斉に西洋化したのか
文明開化を、すべての日本人が短期間で洋服を着て西洋式の生活へ変わった出来事として捉えることはできません。鉄道、ガス灯、洋風建築、新聞・雑誌など新しい制度や文化は、まず東京・横浜などの都市や政府機関、学校、商業の場で目立ちました。
一方、農村や地域社会では従来の生活習慣も長く続きました。同じ地域でも、職業・身分・経済力・教育機会によって新しい知識や制度への接し方は異なります。新暦と旧暦が生活の中で併存したように、古い慣習と新しい制度は重なりながら変化していきました。
したがって文明開化の歴史的意味は、外見を西洋風に変えたことだけではありません。政府による制度改革、出版や学校を通じた知識の普及、知識人による翻訳と議論が重なり、人々が社会・個人・国家について考える枠組みそのものが変化していった点にあります。
Review
入試で押さえるポイント
- 文明開化は一つの法令ではなく、1870年代を中心に欧米の制度・知識・生活文化が導入され社会が変化した長期的な動き
- 1872年に太陽暦採用が決まり、旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とした
- 『学問のすゝめ』は1872年に初編が刊行され、1876年までに17編となり、学問と個人の独立を重視した
- 『学問のすゝめ』の有名な冒頭だけで福沢諭吉を単純な平等論者とせず、実学・一身の独立・一国の独立との関係まで理解する
- 1873年結成の明六社には森有礼・西周・津田真道・中村正直・福沢諭吉らが参加し、1874〜1875年の『明六雑誌』で多様な議論を行った
- 1873年にキリスト教禁制の高札が撤去されたが、それだけで現代と同じ宗教の自由制度が完成したわけではない
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
文明開化は一つの法令によって全国の人々が同じ時期に一斉に西洋式生活へ切り替わった出来事である。
文明開化は制度・知識・生活文化が長期的に変化した過程で、都市と農村、地域や階層によって進み方も異なりました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
太陽暦の採用は日付の表示変更だけでなく、官庁・学校・交通・商取引などに共通の時間基準を及ぼす意味を持った。
暦は社会活動を共通の時間に合わせる制度で、近代国家が生活時間にも統一的な基準を設ける一例でした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
『学問のすゝめ』は明治政府が公布した公式政策文書で、学制の法令本文として使われた。
『学問のすゝめ』は福沢諭吉らによる民間の著作であり、政府の公式政策文書ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
明六社は政府の法令決定機関ではなく、知識人が政治・教育・宗教などについて意見を交換する結社だった。
明六社は『明六雑誌』を通じて多様な議論を行い、社員の意見も一枚岩ではありませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1873年にキリスト教禁制の高札が撤去されたことで、現在と同じ宗教の自由制度がその年に完成した。
高札撤去は禁教政策の転換でしたが、その後も神社制度や宗教行政の再編が続き、現代と同じ制度が直ちに完成したわけではありません。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 総合展示第5室「近代」2026年3月17日リニューアルオープン!国立歴史民俗博物館
文明開化を近代国家形成の中で人々の意識や生活様式が変わる過程として位置づける際に参照。
- 明治5年(1872)11月|太陽暦が採用される国立公文書館
太陽暦採用、旧暦明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日としたこと、365日・24時間制を確認。
- 學問のすゝめ. 初編国立国会図書館サーチ
福沢諭吉・小幡篤次郎による初編の1872年刊行を確認。
- ガクモンノススメ慶應義塾
『学問のすゝめ』が1872〜1876年に17編として刊行された経緯を確認。
- 21世紀のモラル・バックボーン―福澤における「自由」「幸福」「蛆虫の本分」慶應義塾
初編冒頭を単純な平等論に還元せず、学問の有無や自由・独立との関係で読む点を確認。
- 明六雑誌国立国会図書館サーチ
明六社が『明六雑誌』を1874〜1875年に刊行したこと、43号まで刊行されたことを確認。
- 箕作麟祥と自由民権運動の関係について国立国会図書館 レファレンス協同データベース
1873年の明六社結成、主要社員、『明六雑誌』が演説・討論を記録して頒布したこと、1875年の刊行停止経緯を確認。
- 明治6年(1873)2月|キリスト教禁止の高札が撤廃される国立公文書館
1873年2月24日のキリスト教禁制高札撤去と禁教政策の転換を確認。
