岩倉使節団と条約改正―なぜ使節団は欧米を巡り、条約改正を果たせなかったのか
一言でいうと
1871年、明治政府は岩倉具視を特命全権大使とする大規模な使節団を欧米へ派遣しました。目的は、条約締結国へ国書を奉呈すること、不平等条約改正に向けた予備交渉を行うこと、欧米諸国の政治・法・産業・教育などの制度や文物を調査することでした。使節団は最初の訪問国アメリカで予備交渉から本格的な改正交渉へ進もうとしましたが、当初は条約調印に必要な全権委任状を持たず、大久保利通と伊藤博文が一時帰国しました。委任状を得た後も、領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復をめぐる隔たりを埋められず、交渉は合意に至りませんでした。その後の欧州各国では具体的な改正交渉を進めず、視察・調査を続けて1873年に帰国します。使節団は欧米を見て初めて日本の近代化を始めたのではなく、すでに進んでいた改革の中で外国制度を比較し、条約改正には国内制度の整備と長期の外交交渉が必要だと認識する重要な機会になりました。
なぜ政府中枢を欧米へ派遣したのか
明治政府は幕府から、外国人に領事裁判権を認め、日本に十分な関税自主権がない条約を引き継いでいました。新政府にとって、これらの不平等な条約を改正し、欧米諸国と対等な関係を築くことは重要な外交課題でした。
そこで1871年、岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳を副使とする岩倉使節団が派遣されました。随行員や留学生を含む大規模な使節で、政府の中心人物が長期間日本を離れる異例の派遣でした。
使節団の任務は一つではありません。条約締結国の元首へ天皇の国書を奉呈する外交儀礼、不平等条約改正に向けた予備交渉、そして各国の制度・産業・文化の調査という複数の目的がありました。単なる「欧米見学旅行」と捉えると、この外交上の目的が見えなくなります。
アメリカでなぜ予備交渉から本格交渉へ進もうとしたのか
使節団は1872年、最初の訪問国アメリカで条約改正期限の延期などを打診しました。当初の方針は予備交渉でしたが、森有礼や伊藤博文らの意見を受け、使節団内ではその場で本格的な改正交渉へ移る方針が採られました。
ところが、使節団が持っていた国書だけでは新しい条約を調印する権限が十分ではなく、米国側から全権委任状が必要だと指摘されました。そこで大久保利通と伊藤博文が一時帰国し、条約改正を行う権限を明記した国書委任状を受け取って再びアメリカへ向かいました。
この経緯は、岩倉使節団が最初から十分な準備を整えて本格交渉へ出発したわけではないことを示します。現地で任務の範囲を拡大したため、外交手続きそのものを整え直す必要が生じたのです。
全権委任状を持っていなかったことは重要ですが、それだけで条約改正が実現しなかったと説明するのは不十分です。
委任状を得ても、なぜ条約改正は実現しなかったのか
大久保と伊藤が委任状を持って戻った後も、日米の主張は一致しませんでした。日本側は領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復を求めましたが、アメリカ側との交渉では妥協点を見いだせず、条約改正は合意に至りませんでした。
条約は日本だけで変更できる国内制度ではなく、相手国との合意が必要です。しかも不平等条約の改正には、日本の法制度や裁判制度を列国がどのように評価するか、各国がどの条件なら権利を手放すかといった問題も関わりました。使節団が現地で努力すれば短期間に解決できる問題ではなかったのです。
アメリカでの経験を受け、使節団はその後に訪れたイギリスやフランスなどでは具体的な条約改正交渉を進めませんでした。条約改正は1873年で終わったのではなく、寺島宗則・井上馨・大隈重信・陸奥宗光・小村寿太郎らの時代へ続く長期の外交課題となります。
欧米の制度調査では何を見ようとしたのか
条約改正交渉が行き詰まった後も、使節団は各国を巡り、政治制度、議会や選挙、司法、教育、工業、交通、軍事、都市施設などを幅広く調査しました。政府首脳が各国の制度を実際に比較したことは、日本の国家制度を考えるうえで重要な経験になりました。
ただし、使節団が欧米を視察したから明治政府の近代化が始まった、と考えるのは適切ではありません。廃藩置県は出発前に実施され、使節団外遊中にも留守政府は学制・徴兵令・太陽暦などの改革を進めていました。近代化は使節団以前から進んでいたのです。
そのため、帰国後の個々の政策をすべて「使節団で見たから導入した」と直接結びつけるのではなく、欧米の制度を比較して得た知識が、すでに進んでいた制度改革を検討する材料の一つになったと理解するのが安全です。
岩倉使節団は明治国家の形成にどのような意味を持ったのか
岩倉使節団は、条約改正という主要な外交目標を達成できませんでした。しかし、失敗したから無意味だったわけではありません。政府首脳は、欧米列強との交渉を通じて日本の外交上の立場を確認し、各国の制度や社会を比較する経験を得ました。
また、条約改正が外交交渉だけでは解決しない長期課題であることも明確になりました。日本ではその後、法典整備や立憲体制の形成を進めながら交渉が続き、1894年の日英通商航海条約、1899年の改正条約実施による領事裁判権撤廃を経て、1911年に関税自主権を回復します。
岩倉使節団を学ぶときは、「欧米を視察して近代化を始めた使節」ではなく、外交上の対等化を目指しつつ、外国制度を比較し、日本の国家形成と条約改正の長期的な課題を認識した使節として捉えることが重要です。
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入試で押さえるポイント
- 1871〜1873年の岩倉使節団は、岩倉具視を特命全権大使、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳を副使として欧米へ派遣された
- 目的は条約締結国への国書奉呈、不平等条約改正の予備交渉、欧米諸国の制度・文物の調査であり、単なる視察旅行ではない
- アメリカで予備交渉から本格交渉へ方針を変えたが、当初は全権委任状を欠き、大久保利通と伊藤博文が一時帰国して委任状を取得した
- 委任状取得後も領事裁判権撤廃・関税自主権回復をめぐる日米の隔たりを埋められず、条約改正は実現しなかった
- 使節団外遊中にも学制・徴兵令などの改革は進んでおり、日本の近代化が使節団帰国後に初めて始まったわけではない
- 条約改正は長期課題となり、1899年の領事裁判権撤廃、1911年の関税自主権回復まで続いた
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- 問1
岩倉使節団の目的は欧米の制度・文物の視察だけで、条約改正に関する外交任務は含まれていなかった。
使節団には国書奉呈、不平等条約改正の予備交渉、制度・文物調査という複数の任務がありました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
アメリカで本格的な条約改正交渉へ進もうとした際、当初の使節団には十分な全権委任状がなく、大久保利通と伊藤博文が一時帰国した。
現地で任務を予備交渉から本交渉へ拡大したため、条約調印権限を明記した委任状を取り直す必要が生じました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
条約改正が実現しなかった唯一の理由は、全権委任状を用意していなかったことだった。
委任状を取得した後も、領事裁判権撤廃や関税自主権回復をめぐる日米の隔たりを埋められず、交渉は合意に至りませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
岩倉使節団の外遊中にも留守政府は学制や徴兵令などの改革を進めており、日本の近代化が使節団帰国後に初めて始まったわけではない。
廃藩置県は出発前、学制・徴兵令などは外遊中に進められており、使節団視察はすでに進行中の改革を考える材料の一つでした。
本文の該当箇所を確認する - 問5
岩倉使節団の帰国によって条約改正問題は解決し、領事裁判権撤廃と関税自主権回復も1873年までに実現した。
条約改正は長期課題となり、領事裁判権撤廃は1899年、関税自主権回復は1911年までかかりました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 1-7 岩倉遣外使節団国立国会図書館
1871年の出発、主要人物、条約改正の準備と諸外国の制度・文物調査という目的を確認。
- 明治4年(1871)10月|岩倉具視らが欧米に派遣される(岩倉使節団)国立公文書館
岩倉使節団の構成、派遣目的、留守政府との約定を確認。
- 近代国家 日本の登場―4.岩倉使節団国立公文書館
米国での全権委任状取得、領事裁判権・関税自主権をめぐる交渉不成立、その後の具体交渉見送りを確認。
- 岩倉使節団による条約改正交渉とその過程で残した遺産アジア歴史資料センター
使節団の三つの使命、米国で予備交渉から本交渉へ転換した経緯、全権委任状と交渉決裂の過程を確認。
- 史料と解説―第一部 明治前期の外交外務省外交史料館
岩倉使節団から1911年の関税自主権回復まで条約改正が長期の外交課題であったことを確認。
- 近代国家 日本の登場―17.条約改正交渉の達成国立公文書館
1894年の日英通商航海条約、1899年の領事裁判権撤廃、1911年の関税自主権回復を確認。
