鹿鳴館外交から日英通商航海条約へ―条約改正はなぜ長期化したのか
一言でいうと
幕末に結ばれた不平等条約の改正は、岩倉使節団の交渉が実現しなかった後も明治政府の重要課題として続きました。1880年代、井上馨は鹿鳴館などを用いて日本が欧米型の「文明国」であることを示しつつ、外国人への内地開放と引き換えに領事裁判権を撤廃する交渉を進めました。しかし外国人判事任用案への反対や欧化政策への批判で交渉は中断します。1886年のノルマントン号事件は、領事裁判権の問題を世論に強く意識させました。大隈重信も改正案を進め、1888年にはメキシコと対等条約を結びましたが、外国人判事問題への反発と大隈遭難で交渉は再び挫折します。最終的に陸奥宗光外相のもとで1894年に日英通商航海条約が結ばれ、1899年の施行によって領事裁判権が撤廃されました。ただし関税自主権の完全回復は1911年まで残り、条約改正は段階的に進んだ長期過程でした。
なぜ不平等条約の改正はすぐ実現しなかったのか
幕末の安政五カ国条約では、日本は外国人に領事裁判権を認め、関税率を自由に決める関税自主権も十分に持ちませんでした。明治政府はこれを主権上の重要課題として改正しようとしました。
しかし、相手国は日本の法制度・裁判制度が自国民を公平に保護できるかを問題にし、既得権を簡単には手放しませんでした。日本側も民法・刑法・裁判制度・憲法など近代的な法制度を整える途上にありました。
そのため条約改正は外交交渉だけの問題ではなく、国内の法制度整備と国際的な信用形成を伴う長期課題となりました。岩倉使節団の段階で実現しなかったのも、この構造を背景に理解する必要があります。
鹿鳴館外交は何を狙い、なぜ批判されたのか
1883年、東京に鹿鳴館が開館しました。外相井上馨は外国使節を招く舞踏会や晩餐会などを通じ、日本が欧米と同じ外交儀礼・生活文化を理解する近代国家であることを示そうとしました。
ただし、条約改正が鹿鳴館の舞踏会によって進められたと単純化するのは適切ではありません。実際の交渉では、外国人の内地居住を認める代わりに領事裁判権を撤廃すること、裁判制度をどう整えるかなど具体的な法的条件が議論されていました。
井上案では日本の裁判所に外国人判事を任用する構想が含まれ、その内容が知られると「主権回復のための改正なのに外国人判事を置くのは不十分だ」という反対論が強まりました。欧化政策への批判も重なり、井上は1887年に交渉を中止して外相を辞任しました。
ノルマントン号事件はなぜ条約改正世論を強めたのか
1886年、イギリス船ノルマントン号が紀州沖で沈没し、日本人乗客が多数死亡する一方、船長ら外国人乗組員は生還しました。領事裁判のもとで船長の責任を十分に問えないと受け止められたことから、日本国内で強い批判が起こりました。
事件は「外国人が何をしても処罰されない」ことをそのまま証明するものではありません。実際には領事裁判所で審理が行われています。しかし、日本の裁判所が外国人を直接裁けないという制度上の制約が広く知られ、領事裁判権撤廃を求める世論を強めた点が重要です。
条約改正は政府内の外交課題だけでなく、新聞・議会・世論が関わる国内政治問題にもなっていきました。
大隈重信・青木周蔵の交渉はなぜ中断したのか
井上馨の後、大隈重信が外相となって改正交渉を進めました。1888年には日本とメキシコの間で日墨修好通商条約が結ばれます。これは日本が近代に外国と結んだ本格的な相互対等条約として、他国との改正交渉に向けた重要な先例となりました。
一方、大隈の対欧米改正案にも外国人判事任用の規定が含まれ、反対運動が強まりました。1889年、大隈は爆弾襲撃を受けて重傷を負い、交渉は中断します。
その後の青木周蔵外相は外国人判事任用を取り下げてイギリスとの交渉を進めましたが、1891年の大津事件を受けて辞任しました。大津事件では政府がロシア皇太子襲撃犯への厳罰を求めるなか、大審院が法に基づいて死刑を適用しなかったことが司法権の独立をめぐる重要な出来事となりました。
条約改正の過程では、外国に認められる法制度を整えることと、政府自身が司法の独立を尊重することの両方が問われたのです。
日英通商航海条約で何が改正されたのか
1892年に外相となった陸奥宗光は交渉方針を整理し、まずイギリスとの合意を目指しました。1894年7月、駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバリーが日英通商航海条約に調印しました。
この条約では領事裁判権を撤廃し、外国人居留地を廃止して外国人の内地居住・旅行・商業を認めることなどが定められました。日本はその後、他の欧米諸国とも同様の改正条約を結びます。
ただし、1894年の調印時点で領事裁判権が直ちに消えたわけではありません。日英条約は5年後の1899年に施行され、同年に改正条約が実施されて領事裁判権撤廃が実現しました。
1894年=条約調印、1899年=改正条約施行と領事裁判権撤廃、1911年=関税自主権の完全回復、と段階を分けて覚えます。
1899年で条約改正は完全に終わったのか
1899年の領事裁判権撤廃は、幕末以来の不平等条約改正における大きな成果でした。外国人も日本国内では日本の裁判権に服することになり、外国人居留地制度も廃止されました。
しかし、関税自主権はまだ完全には回復していませんでした。1894年の条約改正では税権の一部が改善されたものの、日本が自由に関税率を定める権利の全面回復は1911年まで待つ必要があります。
したがって条約改正を「陸奥宗光が1894年に完成させた」と覚えるのは不正確です。岩倉使節団、寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、陸奥宗光、小村寿太郎らの交渉と、国内法制度の整備を通じて段階的に進んだ長期過程として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 条約改正の主要課題は領事裁判権撤廃と関税自主権回復
- 井上馨の条約改正交渉は外国人判事任用案や欧化政策への批判で1887年に中断
- 1886年のノルマントン号事件は領事裁判権撤廃を求める世論を強めた
- 1888年の日墨修好通商条約は日本が結んだ相互対等の条約として重要な先例
- 1894年の日英通商航海条約は陸奥宗光外相のもとで調印され、1899年施行によって領事裁判権が撤廃された
- 関税自主権の完全回復は1911年であり、1894年・1899年に条約改正がすべて完了したわけではない
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- 問1
不平等条約の改正は外交交渉だけの問題で、日本国内の法制度や裁判制度の整備とは無関係だった。
列強は日本の法制度・裁判制度も問題にしており、条約改正は国内制度整備と国際的信用形成を伴う長期課題でした。
本文の該当箇所を確認する - 問2
鹿鳴館外交の条約改正交渉では、舞踏会だけでなく内地開放や裁判制度、外国人判事任用など具体的な法的条件も争点となった。
鹿鳴館は文明国を示す象徴でしたが、実際の交渉では領事裁判権撤廃の条件となる司法制度などが重要でした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
ノルマントン号事件では船長が一切裁判を受けなかったため、領事裁判権の問題が初めて発見された。
領事裁判所で審理は行われましたが、日本の裁判所が外国人を直接裁けない制度上の制約が世論に強く意識されました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
日英通商航海条約は1894年に調印され、1899年の施行によって領事裁判権撤廃が実現した。
1894年の調印と1899年の施行を区別する必要があります。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1899年の改正条約施行によって領事裁判権と関税自主権の両方が完全に回復し、条約改正はすべて終了した。
領事裁判権は1899年に撤廃されましたが、関税自主権の完全回復は1911年です。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 近代国家 日本の登場―11.条約改正交渉国立公文書館
井上馨・大隈重信・青木周蔵期の交渉、外国人判事問題、日墨修好通商条約、大津事件までの流れを確認。
- 史料と解説―領事裁判権の撤廃外務省外交史料館
1888年の日墨修好通商条約、1894年の日英通商航海条約、1899年の領事裁判権撤廃を確認。
- 日英通商航海条約 陸奥宗光と条約改正外務省外交史料館
陸奥宗光の交渉方針、1894年条約の調印、5年後施行、内地開放などを確認。
- 明治27年(1894)7月 日英通商航海条約が調印される国立公文書館
1894年調印と1899年施行、領事裁判権撤廃・関税自主権の部分回復を確認。
- ノルマントン号事件国立公文書館 アジア歴史資料センター
1886年ノルマントン号事件と領事裁判権との関連を確認。
- 明治24年(1891)5月 大津事件国立公文書館
大津事件の発生と政府の外交的対応を確認。
