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明治時代1875〜1885年政治・外交重要度 A

江華島事件から天津条約へ―朝鮮をめぐる日本と清の競合はなぜ深まったのかこうかとうじけんからてんしんじょうやくへ ちょうせんをめぐるにほんとしんのきょうごうはなぜふかまったのか

一言でいうと

1875年の江華島事件をきっかけに、日本は翌1876年に朝鮮と日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させました。条約は朝鮮を「自主ノ邦」としましたが、日本側に領事裁判権や沿岸測量権などの特権を認める不平等な内容を含みました。その後の朝鮮では、開化政策をめぐる政治対立や軍制改革への不満が重なり、1882年に壬午軍乱が起こります。清は軍を派遣して介入し、朝鮮への影響力を強めました。1884年には金玉均ら急進開化派が日本公使館側の支援を得て甲申事変を起こしましたが、清軍の介入で短期間に失敗します。翌1885年、日本と清は天津条約を結び、両国軍の撤兵と、将来朝鮮へ出兵する場合の事前通告を約束しました。朝鮮の政治変動を背景に、日本と清が軍事・外交両面で競合する構図が強まり、のちの日清戦争へつながる前提が形成されていきます。

江華島事件はなぜ条約締結へつながったのか

1875年、日本の軍艦雲揚うんようが朝鮮西岸へ接近し、江華島付近で朝鮮側と武力衝突しました。日本軍は砲撃と上陸攻撃を行い、この江華島事件こうかとうじけんを朝鮮との国交・通商交渉を進める契機としました。

重要なのは、これを単なる偶発的な海上衝突として扱わないことです。明治政府は朝鮮に新政府成立を伝える外交文書の受理をめぐって対立しており、1873年には政府内で征韓論をめぐる政変も起きていました。江華島事件は、そうした対朝鮮外交の緊張の延長上で起こりました。

日本は事件後、黒田清隆・井上馨らを派遣し、軍事力を背景に朝鮮へ条約締結を迫りました。西欧列強が東アジアで用いた砲艦外交に近い方法を、日本が朝鮮に対して用いた点を押さえる必要があります。

日朝修好条規はなぜ不平等条約とされるのか

1876年、朝鮮と日本は日朝修好条規にっちょうしゅうこうじょうきを結びました。第1款では朝鮮を「自主ノ邦」とし、日本と平等の権利を持つとしました。これは朝鮮に対する清の宗主権を否定する意味を持つ条文でもありました。

しかし、条約全体を対等とみなすことはできません。朝鮮は釜山のほか二港を開くこと、日本人による沿岸測量を認めること、開港場で日本人が罪を犯した場合は日本側の官員が裁くことなどを受け入れました。特に領事裁判権は朝鮮の司法主権を制限するものでした。

さらに付属する通商規則では、日本商人に有利な無関税貿易などが認められました。そのため日朝修好条規と関連規則は、朝鮮を開国させると同時に、日本に一方的な特権を与えた不平等な条約体系として理解されます。

第1款の「朝鮮は自主国」という文言だけで条約を対等と判断せず、領事裁判権・沿岸測量権など具体的な権利関係を見ることが重要です。

壬午軍乱で清の影響力はなぜ強まったのか

開国後の朝鮮では、政府が日本式の軍制を取り入れた新式軍隊を整備する一方、従来の軍人への待遇悪化や給与米の支給問題などから不満が高まりました。1882年、その不満が爆発して壬午軍乱じんごぐんらんが起こり、日本公使館も襲撃されました。

この軍乱には、兵士の待遇問題だけでなく、開化政策への反発、政権内部の対立、興宣大院君と閔氏勢力をめぐる政治対立など複数の要因が重なっていました。単純に「反日暴動」とだけ整理すると、朝鮮国内の政治・社会的背景が見えなくなります。

清は軍を派遣して軍乱を鎮圧し、興宣大院君を清へ連行しました。その後、清軍の駐留や清側人物による助言・関与が強まり、朝鮮政府への清の影響力は拡大します。これに対し、日本も朝鮮での権益と政治的影響を維持しようとし、清との競合がより明確になりました。

甲申事変はなぜ短期間で失敗したのか

1884年、金玉均きんぎょくきん・朴泳孝ら急進開化派は、清の影響を排し短期間で政治改革を進めようとして甲申事変こうしんじへんを起こしました。日本公使竹添進一郎と公使館護衛兵の協力を得て政権掌握を図りました。

しかし、朝鮮国内で十分な軍事的・政治的基盤を持たないまま行動したうえ、宮中に出動した清軍と日本側兵力が衝突し、急進開化派の政権は数日で崩壊しました。主導者の一部は日本へ亡命します。

甲申事変を「日本対清の代理戦争」とだけ見るのも不十分です。朝鮮内部には急進開化派、より漸進的な改革を志向する勢力、閔氏政権、興宣大院君系勢力、儒学者など複数の政治勢力が存在していました。国際関係と国内政治が重なっていたことが重要です。

天津条約は日清の対立を解決したのか

甲申事変後、日本と朝鮮は漢城条約を結びました。さらに1885年、日本の伊藤博文と清の李鴻章が交渉し、天津条約てんしんじょうやくを締結しました。

天津条約では、日本と清が朝鮮から軍隊を撤退させ、今後朝鮮で重大な事件が起きて出兵する場合には互いに事前通告することなどを定めました。これにより、当面は両国軍が朝鮮で直接衝突する危険を減らそうとしました。

しかし、日本と清のどちらが朝鮮に大きな影響力を持つかという競合そのものが解消したわけではありません。1894年、朝鮮で甲午農民戦争が起きて清と日本が再び出兵すると、天津条約の事前通告規定が現実に作動し、日清戦争へ進む局面の一つとなります。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1875年の江華島事件を受け、1876年に日朝修好条規が結ばれた
  • 日朝修好条規は朝鮮を自主国と規定した一方、日本に領事裁判権や沿岸測量権などを認めた不平等条約
  • 1882年の壬午軍乱後、清軍が朝鮮に駐留し清の政治的影響力が強まった
  • 1884年の甲申事変は金玉均ら急進開化派が起こし、日本側の支援を受けたが清軍の介入で短期間に失敗した
  • 1885年の天津条約で日清両軍の撤兵と将来の出兵時の相互事前通告を定めた
  • 朝鮮国内の政治対立を、日本と清の勢力争いだけに還元しない

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  1. 問1

    1875年の江華島事件は、それ以前の日朝外交上の緊張とは無関係な偶発的海難事故だった。

  2. 問2

    日朝修好条規は朝鮮を『自主ノ邦』としたが、日本に領事裁判権や沿岸測量権などを認める不平等な内容も含んでいた。

  3. 問3

    壬午軍乱は日本への反感だけを原因として起こり、朝鮮国内の軍人待遇や政権対立は関係しなかった。

  4. 問4

    甲申事変は朝鮮国内の急進開化派の改革構想と、日本・清の競合が重なった事件である。

  5. 問5

    1885年の天津条約によって朝鮮をめぐる日本と清の勢力競合は完全に解消され、その後両国が朝鮮へ出兵することもなくなった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 江華島事件が起こる
  2. 日朝修好条規が結ばれる
  3. 壬午軍乱が起こる
  4. 甲申事変が起こる
  5. 天津条約で日本と清が朝鮮から撤兵する
  6. 征韓論をめぐる明治六年の政変が起こる

Sources

参考資料

  1. 近代国家 日本の登場―6.明治初期の近隣外交国立公文書館

    日清修好条規、江華島事件、日朝修好条規の位置づけを確認。

  2. 明治9年(1876)3月 日朝修好条規が結ばれる国立公文書館

    日朝修好条規の第1款、開港、領事裁判権などを確認。

  3. 日本外交文書デジタルアーカイブ 第15巻(明治15年/1882年)外務省外交史料館

    壬午軍乱と日清両国の交渉に関する外交記録の所在を確認。

  4. 강화도 조약―조일 수호 조규韓国 国史編纂委員会・우리역사넷

    朝鮮側からみた日朝修好条規の成立過程、沿岸測量権・領事裁判権など不平等性を確認。

  5. 한성 조약과 톈진 조약韓国 国史編纂委員会・우리역사넷

    甲申事変後の漢城条約と天津条約、撤兵・将来出兵時の相互通告を確認。