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明治時代1911〜1912年政治・外交重要度 A

関税自主権回復と明治の終わり―条約改正の完成は近代日本の何を示し、何を残したのかかんぜいじしゅけんかいふくとめいじのおわり じょうやくかいせいのかんせいはきんだいにほんのなにをしめしなにをのこしたのか

一言でいうと

幕末に結ばれた通商条約では、日本は外国人に領事裁判権を認め、自国だけで関税率を決めることもできませんでした。明治政府はこの不平等条約の改正を重要な外交課題とし、岩倉使節団以来、法制度整備と外交交渉を重ねます。1894年、陸奥宗光外相のもとで日英通商航海条約が締結され、他国とも改正条約が結ばれました。これらが1899年に施行されると領事裁判権は撤廃され、関税自主権も一部回復しましたが、関税率にはなお条約上の制約が残りました。1911年、小村寿太郎外相のもとで日米通商航海条約をはじめ欧米各国との新しい通商条約が結ばれ、日本は関税率を自ら定める関税自主権を完全に回復します。ここに幕末以来の条約改正交渉は大きな区切りを迎えました。しかし、条約上の対等化が国内社会の平等や政治参加の完成を意味したわけではありません。日本は台湾・韓国への植民地支配や満州での権益拡大を進め、国内では労働問題、足尾鉱毒問題、社会主義運動への弾圧、制限選挙などの課題を抱えていました。1912年7月30日、明治天皇が死去し大正へ改元されます。明治時代の終わりは『近代化の完成』ではなく、立憲国家・産業社会・帝国を形成した明治の制度と矛盾が、そのまま大正時代へ引き継がれる転換点でした。

条約改正はなぜ半世紀近い課題になったのか

幕末に欧米諸国と結ばれた通商条約では、外国人が日本の裁判権に服さない領事裁判権りょうじさいばんけんと、日本が輸入品などの関税率を自由に決められない協定関税制度が大きな問題となりました。

明治政府は条約改正を目指しましたが、1871年に出発した岩倉使節団の交渉では準備不足もあり、本格的な改正には至りませんでした。その後、日本側は裁判制度・法典・行政制度を整備しながら、井上馨、大隈重信、青木周蔵、陸奥宗光らが異なる方法で交渉を続けます。

条約改正は一人の外相や一度の交渉によって実現したのではありません。国内の法制度整備、国際情勢、列強間の利害、日本の外交的地位の変化が重なって、段階的に進みました。

1894年と1899年には何が変わったのか

1894年7月、陸奥宗光外相のもとで日英通商航海条約にちえいつうしょうこうかいじょうやくが結ばれました。日本はその後、他の欧米諸国とも同様の改正条約を締結します。

これらの改正条約は1899年に施行され、外国人に認められていた領事裁判権が撤廃されました。外国人も原則として日本の法令と裁判所に服することになり、法権の面では大きな転換でした。

一方、関税については自主権の一部が回復したものの、日本が税率を完全に自由設定できる状態にはまだ至りませんでした。したがって『1894年の条約改正で不平等条約がすべて解消した』とするのは不正確です。

条約改正は段階的です。1894年に改正条約を締結し、1899年に領事裁判権を撤廃、1911年に関税自主権を完全回復しました。

1911年の関税自主権回復は何を意味したのか

1908年に再び外相となった小村寿太郎こむらじゅたろうは、1890年代に結ばれた改正通商条約の期限を前に、各国との新たな条約交渉を進めました。

1911年2月21日、日本とアメリカは新しい日米通商航海条約に調印しました。続いてイギリスなど欧州諸国とも新条約が結ばれ、条約によって固定されていた関税率の制約が取り除かれます。日本は自国の法律によって関税率を決める関税自主権かんぜいじしゅけんを完全に回復しました。

関税自主権は、輸入品にどの程度の税を課すかを自国の産業・財政政策に応じて決められる権限です。これにより日本政府は、通商政策上の重要な手段を自ら運用できるようになりました。

この結果、幕末の開国以来続いた条約改正は外交課題として大きな区切りを迎えました。ただし『国際的に完全な対等国になった』という言葉だけで終えると、同じ時期に日本自身が朝鮮・台湾・満州などで帝国的な支配・権益を拡大していた事実が見えなくなります。

条約上の対等化は国内社会の平等を意味したのか

条約改正の完成は、日本国家が欧米列強との外交関係で主権上の制約を取り除いたことを示します。しかし、国家間の条約上の対等と、国内に暮らす人々の政治的・社会的平等は別の問題です。

衆議院選挙権は納税額などによって制限され、多くの男性とすべての女性は選挙権を持ちませんでした。工場労働者の保護制度は整備され始めたばかりで、農村の小作問題や都市労働問題、公害問題も残りました。

さらに、日本は台湾を植民地として統治し、1910年には韓国を併合しました。南満州鉄道や関東州など清領域内の権益も拡大していました。欧米諸国から受けた不平等条約を改正する過程と、日本が他地域へ支配を拡大する帝国化が同じ明治期に進んだことを併せて見る必要があります。

1912年7月30日に明治時代はどう終わったのか

1912年7月30日、明治天皇めいじてんのうが死去し、皇太子嘉仁親王が践祚しました。同日、元号は明治から大正たいしょうへ改められました。本サイトではこの日を明治時代と大正時代の境界としています。

元号が変わっても、政治・経済・社会の仕組みが一日で入れ替わったわけではありません。大日本帝国憲法、帝国議会、官僚制、軍隊、財閥・産業構造、植民地統治など明治期に形成された制度は大正期へ引き継がれます。

一方、都市民衆の政治参加、労働運動、普通選挙要求、女性の社会参加なども拡大しつつありました。明治末に抑え込まれた社会運動も、大正期には新しい形で再び広がっていきます。

明治を『近代化の完成』で締めてよいのか

明治期には中央集権的な国家制度、学校教育、徴兵制、近代的な法体系、鉄道・工場・銀行、議会政治などが整えられました。欧米列強との条約上の不平等も1911年までに解消され、日本の国際的地位は大きく変化しました。

しかし、その過程は全国の人々に同じ利益をもたらしたわけではありません。地租負担や松方デフレ、工場労働、公害、アイヌ民族への同化・土地政策、沖縄の制度統合、植民地支配など、近代国家形成は新しい格差や抑圧も伴いました。

したがって明治の終わりは『西洋に追いつき近代化を完成した』というゴールではなく、近代国家・産業社会・帝国を形成した約44年間の成果と矛盾が、大正デモクラシーや社会運動、第一次世界大戦後の国際秩序へ持ち越される接続点として捉えるのが適切です。

Review

入試で押さえるポイント

  • 条約改正は一度に完成せず、1894年の改正条約締結、1899年の領事裁判権撤廃、1911年の関税自主権完全回復という段階を経た
  • 1911年、小村寿太郎外相のもとで日米通商航海条約などを改定し、日本は関税率を自ら決める権限を回復した
  • 欧米諸国との条約上の対等化と、国内の政治的・社会的平等や植民地支配の問題は別に考える必要がある
  • 1912年7月30日の明治天皇死去と大正改元を本サイトの明治時代の終点とする
  • 明治の終わりを『近代化の完成』とはせず、帝国拡大・社会問題・制限された政治参加などが大正期へ継続したことを押さえる

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  1. 問1

    不平等条約の改正は、1894年の改正条約締結、1899年の領事裁判権撤廃、1911年の関税自主権完全回復という段階を経て進んだ。

  2. 問2

    1894年の日英通商航海条約が調印された時点で、領事裁判権も関税自主権も直ちに完全回復した。

  3. 問3

    1911年の関税自主権回復によって、日本政府は自国の法律と政策に応じて関税率を決められるようになった。

  4. 問4

    欧米との条約上の対等化が実現した1911年には、国内でも男女普通選挙や労働・社会問題の解決が完成していた。

  5. 問5

    1912年7月30日の大正改元によって、明治期の憲法・議会・官僚制・産業構造・植民地統治はその日にすべて廃止された。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 新通商航海条約によって関税自主権が回復する
  2. 明治天皇が死去し大正へ改元される

Sources

参考資料

  1. 近代国家 日本の登場―17. 条約改正交渉の達成国立公文書館

    1894年改正条約、1899年領事裁判権撤廃、1911年関税自主権完全回復の段階を確認

  2. 明治150年記念展示 条約書にみる明治の日本外交外務省 外交史料館

    1911年2月21日の日米通商航海条約と関税自主権回復を確認

  3. 外交史料 Q&A その他―小村寿太郎関係史料外務省 外交史料館

    小村寿太郎外相期の1911年条約改正完成を確認

  4. 日本外交文書デジタルアーカイブ 第44巻第1冊(明治44年/1911年)外務省 外交史料館

    1911年の対米・対英ほか通商条約改正交渉の史料構成を確認

  5. MEIJI_TIMELINE_WRITING_GUIDE.mdhistory.yayao.site 編集部

    本サイトの明治時代終点を1912年7月30日の大正改元とする編集ルールを確認