第一次護憲運動と大正政変―二個師団増設問題はなぜ桂内閣打倒へつながったのか
一言でいうと
1912年、第2次西園寺公望内閣では財源をめぐって陸軍の二個師団増設要求と行政整理などが対立しました。11月30日、増設案が閣議で認められないと上原勇作陸相が単独辞職し、陸軍が後任陸相を推薦しなかったため、西園寺内閣は12月5日に総辞職します。後を継いだ第3次桂太郎内閣に対しては、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが「憲政擁護・閥族打破」を掲げ、新聞や各地の集会を通じて第一次護憲運動が広がりました。桂が内大臣兼侍従長という宮中の職から首相へ復帰したことも、「宮中と政治を分けるべきだ」という批判を強めます。桂は新党結成で議会基盤をつくろうとしましたが、1913年2月、議会内外の圧力のなかで内閣は総辞職し、大正政変と呼ばれました。ただし、これで政党内閣が確立したわけではありません。続く山本権兵衛内閣では軍部大臣現役武官制の現役限定が撤廃され、桂の新党構想は立憲同志会へつながります。大正政変は、元老・軍部・宮中・政党・議会・世論がせめぎ合うなかで、政党と民衆の政治的圧力が無視できなくなった転換点でした。
なぜ二個師団増設が内閣の存立問題になったのか
第2次西園寺公望内閣は、日露戦争後の財政負担を抱えるなかで行政整理などを進めようとしていました。一方、陸軍は二個師団の増設を重要課題として要求し、海軍拡張も含めて限られた財源をどう配分するかが閣内の大きな対立点になりました。
国立国会図書館の解説では、陸軍内部でも増師要求への姿勢は一様ではなく、山県有朋や寺内正毅は政友会との妥協を模索する一方、桂太郎はこの問題を政界復帰へ結びつけようとしていました。したがって、二個師団増設問題を「陸軍全体が一枚岩となって内閣を倒した」と説明するのは単純化しすぎです。
争点は軍備の要否だけではありませんでした。予算編成、政党との協調、元老や軍首脳の判断、桂の政界復帰などが重なり、一つの軍事予算問題が政権の存立に直結していきました。
上原陸相の辞任はなぜ西園寺内閣の総辞職につながったのか
1912年11月30日の閣議で、上原勇作陸相は二個師団増設を要求しましたが、案は採用されませんでした。上原は陸相を単独で辞職します。
当時は軍部大臣現役武官制により、陸海軍大臣を現役の大将・中将に限る仕組みがとられていました。上原の辞職後、陸軍が後任の陸相を推薦しなかったため、新しい陸相を得ることができず、内閣を維持することが困難になります。12月5日、西園寺内閣は総辞職しました。
ここで重要なのは、制度の条文だけで内閣が自動的に倒れたわけではないことです。現役武官に就任資格を限定した制度と、陸軍が後任を出さないという組織上の判断が組み合わさったことで、軍部が内閣の存続に強い影響を与えました。
西園寺内閣総辞職は「二個師団増設を拒否したから即座に倒れた」のではありません。上原陸相の単独辞職、軍部大臣現役武官制、陸軍が後任を推薦しなかったことが連動した結果です。
第3次桂内閣に対する護憲運動はなぜ全国へ広がったのか
西園寺内閣の後を受けて、桂太郎が1912年12月に第3次内閣を組織しました。桂はそれまで内大臣兼侍従長という宮中の職にあり、そこから再び首相となったため、宮中の立場を政治に利用したのではないかという批判を受けました。
立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らは「憲政擁護・閥族打破」を掲げて桂内閣を批判しました。運動は国会議員だけにとどまらず、新聞・雑誌による論陣や各地の憲政擁護大会を通じて全国へ広がり、第一次護憲運動と呼ばれます。
背景には、西園寺内閣が軍部の圧力で退陣したという受け止め、長州系の軍・元老勢力への反発、政党を基礎としない首相選定への不満などが重なっていました。護憲運動は単なる「桂個人への人気投票」ではなく、誰がどのような根拠で政権を担うべきかをめぐる政治運動でした。
大正政変で桂内閣はなぜ総辞職したのか
桂は議会での基盤を確保するため新党の組織を進め、1913年2月には立憲同志会の宣言を発表しました。しかし、護憲運動は収まらず、東京では多数の民衆が国会議事堂周辺に集まるなど、議会外からの圧力も強まりました。
政友会などの議会内の反対と全国的な世論の高まりが重なるなか、桂内閣は議会運営を続けることが難しくなり、2月に総辞職しました。第3次桂内閣は成立から約53日で退陣し、この一連の政変が大正政変と呼ばれます。
大正政変は、元老や軍部だけで政権を安定させることが難しくなり、政党・議会・新聞・民衆の動向が内閣の存立に現実の影響を与えたことを示しました。一方で、首相任命の制度そのものが政党第一党の党首を自動的に首相とする仕組みに変わったわけではなく、元老の影響もその後まで残ります。
1913年の制度改正と立憲同志会は何を示すのか
桂内閣の後には第1次山本権兵衛内閣が成立しました。1913年6月、陸軍省官制・海軍省官制が改正され、軍部大臣を現役武官に限定していた規定が削除されます。これにより軍部大臣現役武官制は撤廃されました。国立公文書館は、その後も実際に任命された軍部大臣は現役の陸海軍大中将だったと説明しており、制度改正と実際の人事は区別して理解する必要があります。
一方、桂が進めた新党構想は、桂の死去後も引き継がれ、1913年12月に立憲同志会として正式に発足しました。後には憲政会へつながり、政友会と競う政党勢力へ成長していきます。
したがって大正政変の意味は、「民衆が桂を倒して民主政治が完成した」ということではありません。軍部が内閣形成へ影響できる制度の一部が見直される一方、政党の再編も進み、政党政治と政治参加の拡大へ向かう大正デモクラシーの出発点の一つになったことが重要です。
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入試で押さえるポイント
- 1912年、二個師団増設要求が認められず上原勇作陸相が辞職し、陸軍が後任を推薦しなかったため第2次西園寺内閣が総辞職した
- 軍部大臣現役武官制と陸軍の後任推薦拒否が組み合わさり、軍部が内閣存続へ強い影響を与えた
- 第3次桂内閣に対し、尾崎行雄・犬養毅らが「憲政擁護・閥族打破」を掲げ、第一次護憲運動が全国へ広がった
- 1913年2月、第3次桂内閣は約53日で総辞職し、この一連の政変を大正政変と呼ぶ
- 1913年6月、軍部大臣を現役武官に限定する規定が削除され、軍部大臣現役武官制が撤廃された
- 桂の新党構想は1913年12月の立憲同志会結成へつながり、大正政変後も政党再編が進んだ
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第2次西園寺内閣は、二個師団増設案を閣議で退けた瞬間に制度上自動的に総辞職した。
総辞職には、上原陸相の単独辞職、軍部大臣現役武官制、陸軍が後任陸相を推薦しなかったことが連動しました。
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西園寺内閣の存続が困難になった背景には、軍部大臣現役武官制と陸軍による後任陸相の推薦拒否が組み合わさっていた。
現役武官に就任資格を限る制度だけでなく、陸軍が後任を出さないという組織上の判断が内閣の存続に強く作用しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
第一次護憲運動は国会議員だけの運動ではなく、新聞・雑誌や各地の憲政擁護大会を通じて全国へ広がった。
尾崎行雄・犬養毅らの議会活動に加え、新聞や集会など議会外の世論・民衆運動も桂内閣への圧力となりました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1913年の大正政変によって、以後は衆議院第一党の党首が自動的に首相になる制度が確立した。
大正政変で政党や世論の影響は強まりましたが、首相任命が第一党党首へ自動的に移る制度になったわけではなく、元老の影響も残りました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1913年に軍部大臣現役武官制が撤廃されると、その直後から軍部大臣には文民が相次いで任命された。
現役武官に限定する規定は削除されましたが、その後も実際に任命された軍部大臣は現役の陸海軍大中将でした。制度改正と実際の人事は区別が必要です。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 3-1 2個師団増設問題国立国会図書館
二個師団増設をめぐる陸軍内部の動向、上原勇作陸相辞職、後任推薦が行われず第2次西園寺内閣が総辞職した経緯を確認
- 第1章 風刺漫画から見る大正デモクラシー国立国会図書館
第3次桂内閣への反発、第一次護憲運動の全国的展開、議会周辺の民衆運動と大正政変の流れを確認
- 大正2年(1913)6月|軍部大臣現役武官制が撤廃される国立公文書館
1913年6月13日の陸軍省官制・海軍省官制改正と、現役限定規定の削除、その後の実際の軍部大臣任命を確認
- 3-2 立憲同志会国立国会図書館
桂太郎の新党構想、1913年2月の宣言・綱領、同年12月の立憲同志会結党とその後の政党再編を確認