海外移民と日米紳士協約―日本人移民の増加はなぜ日米摩擦を生んだのか
一言でいうと
明治期、日本人の海外移住はハワイから北米、さらに中南米へ広がりました。1885年、日本とハワイ王国の協約にもとづく官約移民が本格化し、1894年までに2万9千人余りが主にサトウキビ農園の契約労働者として渡航しました。1898年にハワイがアメリカ合衆国へ併合されると、ハワイから米本土へ移る人々を含め、カリフォルニアなどへの日本人移住が増加します。一方、1899年にはペルー、1908年にはブラジルへの集団移住も始まり、海外移民は米国だけの現象ではありませんでした。移民の背景には、国内の人口増加や農村の生活不安、賃金機会への期待、移民会社や政府の送出政策など複数の要因がありました。米国西海岸では、日本人移民の増加に対して人種的偏見、労働市場や土地をめぐる競争意識、地域政治が結びつき、排日運動が強まります。1906年にはサンフランシスコで日本人児童を隔離学校へ移そうとする措置が外交問題となりました。1907〜1908年、日本政府は米本土への新規労働移民に旅券を原則発給しない方針をとり、米国側は学校隔離問題の解決を図るという一連の了解が成立します。これが日米紳士協約と呼ばれます。協約は移民問題を一時的に緩和しましたが、米国社会の排日感情や法的差別を解消したわけではありません。
なぜ多くの日本人がハワイへ渡ったのか
海外渡航の制限が解かれた明治初年以降、日本人の海外移住は徐々に広がりました。大きな転機となったのが1885年に始まるハワイ官約移民です。日本とハワイ王国の移民協約にもとづき、日本人労働者がサトウキビ農園などへ渡航しました。
JICA海外移住資料館によれば、1885年から1894年までの10年間に2万9千人余りが官約移民としてハワイへ渡りました。多くは3年間の契約労働を予定し、農作業に従事しました。
移住の動機は一つではありません。国内より高い収入への期待、家計や農村経済の事情、移民募集の仕組みなどが重なりました。渡航後の生活も一様ではなく、契約労働の厳しさに直面する一方、契約後に商業・農業など別の仕事へ移る人や家族を形成する人もいました。
海外移民はなぜ北米・南米へ広がったのか
1894年にハワイ官約移民制度が終わった後も、日本人の海外移住は続きました。1898年にハワイがアメリカへ併合されると、ハワイからアメリカ本土へ移る人々を含め、カリフォルニアなど太平洋岸への移住が増えていきます。
移民は農業労働だけにとどまらず、鉄道建設、漁業、商店、飲食業などさまざまな仕事へ進出しました。一定の資金を得て独立経営へ移る人もいれば、不安定な低賃金労働や差別的な待遇に直面する人もいました。移民を一律の『成功物語』として描くことはできません。
また移住先は北米だけではありません。1899年にはペルーへの集団移住が始まり、1908年には笠戸丸で781名がブラジルへ向かいました。明治末には北米の排日気運が強まるなか、日本の海外移住政策と人々の移住先は中南米にも広がっていきました。
米国西海岸ではなぜ排日運動が強まったのか
20世紀初頭のアメリカ西海岸では、日本人移民の増加に対して排斥を求める運動が強まりました。その背景には白人優越主義やアジア系移民への人種的偏見があり、労働市場や土地利用をめぐる競争への不安、労働組合や地域政治の動きも結びつきました。
日本人移民が低賃金で働くことを非難する主張もありましたが、移民自身が差別的な制度や賃金条件のもとに置かれていたことを見落としてはいけません。『日本人が仕事を奪ったから排斥された』という単純な因果ではなく、人種差別と経済・社会的対立が重なった問題でした。
1906年、サンフランシスコ教育委員会は日本人・中国人などアジア系児童を隔離学校へ移す方針をとりました。日本政府は1894年の日米条約にも反するとして抗議し、移民問題は地方社会の対立から日米間の外交問題へ発展します。
日米紳士協約は何を約束したのか
1907年末から1908年にかけ、日本とアメリカは一連の外交文書と行政措置によって移民問題を調整しました。これが一般に日米紳士協約と呼ばれます。単一の条約書に両国が署名したものではありません。
日本政府は、すでに米国に居住している人やその家族など一定の例外を除き、米本土へ向かう新規労働者には旅券を発給しない方針をとりました。アメリカ政府は、日本人だけを対象とする連邦レベルの一方的な移民排斥法を避けながら、サンフランシスコの学校隔離問題の解決を働きかけました。
この仕組みは、日本側が自発的な行政措置として移民を制限する形をとったため『紳士協約』と呼ばれます。しかし、自由な移住が実質的に制限されたことに変わりはなく、その背景には米国社会の強い排日圧力がありました。
また労働移民の新規渡航が制限されても、在米者の家族などの渡航は認められました。後に『写真花嫁』と呼ばれる女性たちが渡米して日系社会の家族形成が進む背景の一つにもなります。
日米紳士協約は単一の条約ではなく、1907〜1908年の外交上の了解と行政措置の組み合わせです。日本政府が労働者への旅券発給を制限することで移民数を抑えました。
紳士協約で日米の移民問題は解決したのか
協約によって日本人労働者の新規渡航は大幅に減り、1906年の学校隔離問題をめぐる直接の外交危機はいったん緩和されました。しかし、アメリカ西海岸の排日感情や人種差別がなくなったわけではありません。
その後もカリフォルニアでは日本人の土地所有を制限する動きが強まり、1924年には連邦移民法によって日本人移民の入国が事実上全面的に排除されます。紳士協約は問題の終点ではなく、日米関係に移民・人種問題が長く残る一段階でした。
同時に、日本人の海外移住は南米など別の地域へ広がっていきます。海外移民の歴史を見ると、移民を送り出す日本社会の事情、移住先での労働と生活、現地社会との関係、国家間外交が互いに結びついていたことが分かります。
Review
入試で押さえるポイント
- 1885〜1894年のハワイ官約移民では2万9千人余りの日本人が主に契約労働者として渡航した
- 明治期の海外移民はハワイ・米本土だけでなく、1899年のペルー、1908年のブラジルなど中南米へも広がった
- 米国西海岸の排日運動は、人種的偏見と労働・土地・地域政治をめぐる対立が重なって強まった
- 日米紳士協約は単一の条約ではなく、日本政府による労働者への旅券発給制限を中心とする1907〜1908年の外交了解・行政措置
- 紳士協約は日米移民問題を終わらせず、排日的な法制度と外交摩擦はその後も続いた
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- 問1
明治期の日本人海外移民はハワイとアメリカ本土に限られ、南米への集団移住は大正時代以降に初めて始まった。
1899年にはペルー、1908年にはブラジルへの集団移住が始まり、明治期から移住先は中南米にも広がりました。
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米国西海岸の排日運動は、日本人移民が仕事を奪ったという経済問題だけで起こり、人種的偏見や地域政治は関係しなかった。
排日運動には人種差別、労働・土地をめぐる競争意識、労働組合や地域政治など複数の要因が重なりました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1906年のサンフランシスコでの日本人児童隔離問題は、日本政府の抗議を受けて日米間の外交問題へ発展した。
地方教育行政の問題が、条約上の待遇や移民問題と結びつき、国家間の交渉事項となりました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
日米紳士協約は1908年に両国代表が署名した一通の正式条約で、日本人移民を全面禁止した。
単一の条約ではなく、1907〜1908年の外交了解と日本側の旅券発給制限などの行政措置の組み合わせです。
本文の該当箇所を確認する - 問5
日米紳士協約は新規労働移民を大幅に減らしたが、米国社会の排日感情や差別的な制度を解消したわけではなかった。
協約後も土地所有制限など排日的な動きが続き、1924年には日本人移民が事実上全面排除されます。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 210 ハワイ官約移民JICA横浜 海外移住資料館
1885〜1894年のハワイ官約移民と渡航者数、契約労働の概要を確認
- 海外移住資料館についてJICA横浜 海外移住資料館
ハワイ・北米から1899年ペルー、1908年ブラジルへ広がる日本人海外移住の流れを確認
- Japanese-American Relations at the Turn of the Century, 1900–1922U.S. Department of State, Office of the Historian
1906年サンフランシスコ学校隔離問題と1907〜1908年の日米紳士協約の外交経緯を確認
- Résumé of the Gentlemen’s Agreement, 1907–1908U.S. Department of State, Office of the Historian
日本政府の旅券発給制限など、紳士協約を構成した行政措置を確認
- 外交史料 Q&A 大正期―在米日系移民の『写真結婚』外務省 外交史料館
1908年日米紳士協約と、その後の家族渡航・写真結婚との関係を確認
