ハリスと日米修好通商条約―通商条約はなぜ外交問題から国内政治の争点へ変わったのか
一言でいうと
1856年に下田へ着任したアメリカ総領事ハリスは、日米和親条約では認められていなかった自由貿易を求めました。幕府は交渉を重ね、条約案そのものは固めていきましたが、調印に先立って朝廷の勅許を得ようとしたため、外交問題は朝廷・諸大名を巻き込む政治問題へ変わります。1858年、大老となった井伊直弼のもとで幕府は勅許を得ないまま日米修好通商条約を結び、続いて欧米4か国とも同様の条約を締結しました。条約は自由貿易を認める一方、アメリカ側の領事裁判権を認め、日本が関税を自主的に決められない仕組みを含んでいました。1859年に横浜・長崎・箱館で貿易が始まると、生糸や茶の輸出が伸び、金貨流出と物価上昇も進みます。条約は外交文書にとどまらず、幕府の政治的権威と人々の生活を揺さぶる問題になったのです。
ハリスは日米和親条約の次に何を求めたのか
1856年、アメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任しました。日米和親条約によって下田への領事駐在は認められていましたが、両国の自由貿易はまだ始まっていませんでした。ハリスの主要な任務は、アメリカ人の外交代表として常駐し、本格的な通商条約を結ぶことでした。
ハリスは幕府に対し、欧米諸国が東アジアへ進出している国際情勢や貿易の利益を説き、通商開始を要求しました。幕府側もアヘン戦争やペリー来航を通じて欧米の軍事力を認識しており、通商を永久に拒み続けることは難しいと考えるようになっていました。
したがって争点は、単純な「開国するか、しないか」から、どの条件で通商を認めるのか、その決定を誰が正当化するのかへ移っていきます。ここが1854年の日米和親条約との大きな違いです。
幕府とハリスはどのような通商条件を交渉したのか
老中首座堀田正睦のもとで、井上清直・岩瀬忠震らがハリスとの交渉を担当しました。交渉では、公使・領事の駐在、開港・開市、外国人の居住や行動、関税、裁判、貨幣交換など、実際に貿易を始めるための具体的な制度が検討されました。
条約案は交渉を通じてほぼ固まり、幕府内部には通商開始を避けられないとみる判断が広がりました。しかし、条約の内容をまとめることと、その調印を国内政治の中で正当化することは別問題でした。
ペリー来航時に阿部正弘が諸大名へ意見を求めたことで、対外政策には諸藩も関心を持つようになっていました。さらに通商条約では、朝廷の権威を利用して反対論を抑えようとする動きが生まれ、外交の決定過程そのものが政治争点になります。
なぜ幕府は条約調印に朝廷の勅許を求めたのか
幕府は従来、外交を将軍の権限として処理してきました。それにもかかわらず堀田正睦は、通商条約への反対を抑えて政策の正当性を高めるため、朝廷から勅許を得ようとしました。
しかし孝明天皇は外国との通商に強い警戒感を持ち、朝廷内でも反対が強かったため、堀田は勅許を得られませんでした。ここで「条約を結ぶか」という外交問題に、「幕府は朝廷の同意なしに重大な外交決定をしてよいのか」という政治的な問いが重なります。
一度朝廷へ判断を仰いだことで、幕府自身が朝廷を外交政策の正当化に関与させる形になりました。幕府が後に勅許なしで調印すると、その決定は条約内容への賛否だけでなく、朝廷と幕府の権威関係をめぐる批判も呼び起こします。
通商条約問題が国内政治化した重要な理由は、幕府が勅許を求めたのに得られず、その後に無勅許で調印したことです。外交の是非と朝廷・幕府の権威関係が結びつきました。
なぜ将軍継嗣問題まで条約問題と結びついたのか
同じ時期、病弱で実子のいない13代将軍徳川家定の後継者をめぐり、幕府内では将軍継嗣問題が激しくなっていました。一橋徳川家の徳川慶喜を推す一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す南紀派が対立していました。慶福はのちの14代将軍徳川家茂です。
条約問題で幕府の政策に反対する有力大名の多くが一橋派と重なったため、通商条約への対応と将軍後継者選びは別々の問題として処理しにくくなりました。1858年に大老となった井伊直弼は南紀派の立場に立ち、慶福の継嗣決定を進めます。
その結果、外交政策への反対、朝廷の勅許を重視する議論、将軍継嗣をめぐる派閥対立が一つの政争へ重なっていきました。通商条約は、単に外国と何を約束するかではなく、幕府を誰がどのように動かすのかという国内政治の問題になったのです。
1858年の日米修好通商条約は何を定めたのか
1858年7月29日、幕府は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。条約はアメリカ公使の江戸駐在、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、自由貿易などを定めました。
幕府はその後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を結びました。これらを合わせて安政の五か国条約と呼びます。日本は複数の欧米諸国を相手に、条約に基づく本格的な通商体制へ入ることになりました。
ただし、すべての港が1858年に一斉に自由貿易を始めたわけではありません。最初の本格的な貿易は1859年に横浜・長崎・箱館で始まり、新潟・兵庫や江戸・大坂は後の時期に開かれます。1854年の和親条約と1859年の貿易開始を区別することが重要です。
なぜ「不平等条約」と呼ばれるのか
日米修好通商条約は日本に自由貿易を認めさせただけでなく、外国人が関わる裁判と関税について日本側の主権を制約する条項を含んでいました。代表的なのが領事裁判権と協定関税です。
条約では、アメリカ人が日本で罪を犯した場合、原則としてアメリカ側の領事裁判に委ねられました。これが片務的領事裁判権です。また輸出入品の関税率は条約で定められ、日本政府が自国の判断だけで関税率を変更できませんでした。後世にいう「関税自主権がない」状態です。
このため、幕末に結ばれた修好通商条約は後の明治政府にとって条約改正の対象となります。「不平等」という語だけを暗記するのではなく、外国人を日本法だけで裁けないことと、日本が関税を自主決定できないことを具体的に押さえる必要があります。
1859年の貿易開始で社会と経済はどう変わったのか
1859年、横浜・長崎・箱館で外国との自由貿易が始まりました。条約上は神奈川が開港地とされましたが、幕府は東海道の宿場から離れた横浜に実際の貿易港を整備しました。横浜は急速に国際貿易港へ成長します。
輸出では生糸や茶が重要商品となり、海外需要の増加は国内の生産地や流通にも影響しました。一方、外国からは綿・毛織物などが流入し、国内の商品価格や商業活動は海外市場と強く結びつくようになります。
輸出品の価格上昇や貨幣制度の混乱は物価上昇にもつながり、人々は開港の影響を生活の中で感じるようになりました。条約への反発が広がった背景には、政治的な無勅許調印だけでなく、開港後の経済変動もありました。
なぜ金貨が海外へ流出したのか
開港当時、日本国内の金と銀の交換比率は国際市場と大きく異なり、日本では金が相対的に安く評価されていました。さらに条約上、同種の貨幣を同じ重さで交換する仕組みが採用されたため、外国銀貨を日本銀貨に替え、さらに小判へ交換して海外で銀貨に戻すと利益を得ることができました。
その結果、1859年の開港後に金貨が大量に海外へ流出しました。幕府はこれを止めるため、1860年に純金量を大幅に減らした万延小判などを発行し、国内の金銀比価を国際水準へ近づけようとしました。
金貨流出は収束へ向かいましたが、改鋳による貨幣価値の変化や貨幣供給の増加は物価上昇をさらに進める要因になりました。通商条約は外交上の取り決めであると同時に、貨幣・物価・生活へ直接作用する経済制度でもあったのです。
Review
入試で押さえるポイント
- 1856年、初代駐日総領事ハリスが下田に着任し、自由貿易を認める通商条約の締結を求めた
- 堀田正睦は条約調印の勅許を求めて上洛したが、孝明天皇の勅許を得られなかった
- 通商条約問題は将軍継嗣問題と重なり、一橋派と南紀派の政争へ結びついた
- 1858年、井伊直弼が大老となり、幕府は勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した
- 日米修好通商条約に続きオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結び、安政の五か国条約となった
- 不平等条約の具体的内容は片務的領事裁判権と、日本が関税率を自主的に決められない協定関税にある
- 1859年、横浜・長崎・箱館で自由貿易が始まり、生糸・茶などの輸出が重要になった
- 国内外の金銀比価差と貨幣交換条件により金貨が流出し、幕府は1860年の万延改鋳で対応した
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ハリスが1856年に下田へ着任した時点では、日米和親条約によってすでに自由貿易が始まっていた。
日米和親条約は補給・漂流民保護・領事駐在などを認めましたが、自由貿易はまだ始まっておらず、ハリスは通商条約の締結を求めました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
幕府が通商条約について朝廷へ勅許を求めたことで、外交問題は朝廷と幕府の権威関係を含む国内政治問題にもなった。
勅許を得られないまま幕府が調印したため、条約内容への反対に加えて、朝廷の同意なしに決定したことへの批判も強まりました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1858年の日米修好通商条約調印と同時に、条約で定めたすべての港・都市で自由貿易が一斉に始まった。
最初の本格的な貿易は1859年に横浜・長崎・箱館で始まり、新潟・兵庫や江戸・大坂は後の時期に開かれました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
修好通商条約が不平等とされる具体的な理由には、外国側の領事裁判権と、日本が関税率を自主的に決められない協定関税がある。
外国人を日本法だけで裁けないことと、関税自主権を制約されたことが、後の条約改正の主要課題になりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
開港後の金貨流出は、幕府が金貨を主要輸出品として積極的に海外へ販売したために起きた。
国内外の金銀比価の差と条約上の貨幣交換条件を利用すると利益が出たため金貨が流出し、幕府は万延改鋳で対応しました。
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Sources
参考資料
- 日米修好通商条約(重要文化財)外務省外交史料館
ハリスとの交渉、勅許を得ないままの1858年調印、開港・開市、自由貿易、領事裁判権、関税、安政の五か国条約を確認。
- 五ヶ国条約并税則国立公文書館
1854年の日米和親条約と通商条約の違い、1856年ハリス着任、1858年条約締結と条約内容を参照。
- 第2部 第1章 第1節 幕末を生きた人々―井伊直弼国立国会図書館
1858年の井伊直弼大老就任、無勅許調印、将軍継嗣問題との重なりを確認。
- みなとへGO! 横浜港の歴史(1)横浜市
1859年の神奈川・長崎・箱館開港、実際の横浜開港、主な輸出品の生糸・茶を確認。
- 日本貨幣史 本文日本銀行金融研究所 貨幣博物館
通商条約の貨幣交換条件、国内外の金銀比価差、1859年以後の金貨流出と万延改鋳を参照。
- 貨幣博物館 常設展示図録日本銀行金融研究所 貨幣博物館
開港後の金貨流出と物価上昇、金銀比価差と貨幣交換の仕組みを確認。
