ペリー来航と和親条約―幕府はなぜ開国を選び、何をまだ認めなかったのか
一言でいうと
1853年、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、大統領の国書を提出して港の利用や漂流民保護などを求めました。幕府は国書を受け取り、老中阿部正弘は従来より広く諸大名などに意見を求めます。翌1854年、幕府は日米和親条約を結び、下田・箱館を外国船の補給などに利用できる港として開きました。これは従来の海禁体制を大きく変える「開国」でしたが、外国商人との自由貿易を認めた条約ではありません。同じ時期にはロシアのプチャーチンも来航し、1855年の日露和親条約へ進みます。幕府は軍事衝突を避けつつ、港の利用・漂流民保護・外交関係を段階的に認めましたが、通商そのものはなお次の交渉課題として残したのです。
ペリーは1853年に何を求めたのか
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーが蒸気軍艦を含む艦隊を率いて浦賀沖に来航しました。アメリカは太平洋を横断する航路や捕鯨船の活動を広げており、日本近海で船舶が補給できる港と、漂流・難破したアメリカ人の保護を必要としていました。
ペリーが携えたアメリカ大統領の国書は、友好関係を結ぶこと、遭難者を保護すること、船へ石炭・食料・水などを供給できるようにすることなどを求め、将来の通商にも道を開こうとする内容でした。幕府にとって重要だったのは、外国船をその場で退去させるだけでは済まず、国家間の正式な回答を迫られたことです。
幕府はペリーとの即時の全面交渉を避けつつ国書を受け取り、回答を翌年まで延期しました。ペリーも再来航を予告していったん日本を離れます。ここで幕府は、1842年の薪水給与令のように補給して帰帆させるだけでは処理できない外交課題に直面しました。
阿部正弘が諸大名に意見を求めたことは何を変えたのか
老中首座の阿部正弘は、ペリーの国書を諸大名などに示して外交方針への意見を求めました。幕府が重要政策について大名の意見を聞くこと自体は前例のない行為ではありませんが、対外政策のような重大問題を広く諮問したことは、幕府だけで決定してきた政治運営に変化を生みました。
諸大名の意見は開国・拒絶・海防強化などに分かれ、統一した解決策が得られたわけではありません。それでも、外交政策が諸藩の政治参加や海防論と結びつき、幕府の決定が国内の広い政治問題として論じられる契機になりました。
この変化は、後の条約勅許問題や将軍継嗣問題で朝廷・雄藩が幕政へ関与していく流れにつながります。ペリー来航は対外関係だけでなく、幕末政治の意思決定のあり方にも影響したのです。
なぜロシアのプチャーチン来航も同時に重要なのか
ペリー来航と同じ1853年、ロシア使節プチャーチンも長崎に来航し、国境問題の処理と通商を求めました。幕府が対応しなければならない相手はアメリカだけではなく、複数の欧米諸国へ広がっていました。
ロシアとの交渉では、千島列島・樺太を含む北方の境界も重要な課題でした。幕府は18世紀末以来、ロシア船の接近を受けて蝦夷地調査や直轄化を進めてきたため、対露交渉は長く続いてきた北方政策の延長でもありました。
ペリーへの回答だけを先送りしても、他国から同様の要求が続けば従来の対外秩序を維持することは難しくなります。幕府は、一国との一回限りの交渉ではなく、欧米諸国との関係を制度として組み直す必要に迫られていきました。
1854年の日米和親条約で何を認めたのか
1854年、再来航したペリーと幕府全権の林復斎らが交渉し、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれました。条約によって日本とアメリカは友好関係を結び、アメリカ船に対する漂流民保護や補給の仕組みを定めました。
とくに重要なのが、下田と箱館をアメリカ船の利用に開いたことです。下田は条約締結後すぐに、箱館は翌年から、石炭・水・食料その他の必要品を供給できる港とされました。また、下田には一定期間後にアメリカの領事を置くことが認められました。
さらに日本が他国に有利な条件を与えた場合、それをアメリカにも及ぼす片務的最恵国待遇が定められました。こうして幕府は、外国船を限定された港へ受け入れ、国家間の継続的な関係を認めるところまで対外政策を変更しました。
1854年の日米和親条約で開いた下田・箱館は、外国船の補給・漂流民保護・外交関係のための港です。ここを1859年の自由貿易開始と混同しないことが重要です。
和親条約で自由貿易は始まったのか
日米和親条約は「開国」の重要な節目ですが、外国商人が日本人と自由に輸出入を行う通商条約ではありません。条約では、外国人との取引は日本側の役人を介して行うことが前提とされ、民間人同士の自由な商取引を認めていませんでした。
つまり、1854年に認められたのは、外国船が限定された港を利用し、必要品を得て、遭難者の保護を受け、外交上の窓口を持つことです。外国商人との本格的な貿易は、1858年の日米修好通商条約などを経て1859年に始まります。
「ペリーの黒船に屈して日本が直ちに全面的な自由貿易へ移った」と理解すると、幕府が何を譲り、何をなお交渉課題として残したのかが見えなくなります。開国は、一度の決定で完成したのではなく、和親から通商へ段階的に進みました。
ペリー来琉と琉米修好条約はどのようにつながるのか
ペリーは浦賀へ向かう前の1853年に琉球王国へ来航し、那覇を東アジアでの活動拠点として利用しました。当時の琉球王国は薩摩藩の支配を受けながら清との冊封・朝貢関係を維持しており、日本本土とは異なる政治的立場にありました。
1854年には琉球王国とアメリカの間で琉米修好条約が結ばれ、アメリカ船への薪水・食料供給、遭難者の保護などが定められました。ペリーの交渉は江戸幕府だけを対象にしたものではなく、琉球を含む東アジアの海上交通・外交秩序にも影響を与えていたことが分かります。
ただし、琉米修好条約を日米和親条約の単なる付属事項として扱うのは適切ではありません。琉球王国が条約の当事者となった点と、薩摩・清との重層的な関係を維持していた点を分けて理解する必要があります。
1855年の日露和親条約で開国はどう広がったのか
1855年、幕府はロシアとの間で日露和親条約(下田条約)を結びました。条約は下田・箱館・長崎の港の利用を認めるとともに、日露間の国境を択捉島と得撫島の間に定め、樺太については国境を定めず従来どおりとしました。
これにより、日米和親条約で始まった対米関係の変更は、ロシアなど他国との条約関係へ広がりました。幕府は欧米諸国を全面的に排除する政策から、条約によって利用港や外交条件を個別に定める政策へ移っていきます。
しかし、この段階でも通商の全面的な受け入れは決まっていません。次に焦点となるのは、1856年に下田へ着任したアメリカ総領事ハリスが要求する自由貿易と、その条約を誰の権限で決めるのかという国内政治の問題でした。
Review
入試で押さえるポイント
- 1853年、ペリーが浦賀に来航し、アメリカ大統領の国書を提出した
- 阿部正弘が諸大名などに外交方針への意見を求めたことが、外交問題を広い国内政治の争点へ開く契機になった
- 1853年にはロシアのプチャーチンも長崎に来航し、通商と北方の国境問題をめぐる交渉が進んだ
- 1854年の日米和親条約は下田・箱館を開き、漂流民保護・補給・領事設置などを定めた
- 日米和親条約には片務的最恵国待遇が含まれた
- 1854年の開港は自由貿易開始ではなく、本格的な貿易は1858年の通商条約を経て1859年に始まる
- 1854年に琉球王国とアメリカが琉米修好条約を結んだ
- 1855年の日露和親条約は択捉島と得撫島の間を国境とし、樺太の国境は定めなかった
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- 問1
1853年のペリーの要求は、外国商人との自由貿易をただちに開始することだけを求めたものだった。
国書は友好関係、遭難者保護、石炭・食料・水などの補給を求め、将来の通商にも道を開こうとする内容でした。
本文の該当箇所を確認する - 問2
阿部正弘が諸大名などへ広く意見を求めたことは、外交問題を幕府だけの問題ではなく、諸藩も関わる国内政治の争点へ広げる契機になった。
意見は一致しませんでしたが、外交政策への諸藩の関与が強まり、後の条約勅許問題や将軍継嗣問題にもつながりました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1854年の日米和親条約によって下田・箱館で外国商人との自由貿易が始まった。
和親条約は補給・漂流民保護・外交関係のために港を開いたもので、本格的な自由貿易は1858年の通商条約を経て1859年に始まりました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
日米和親条約には、日本が他国へ有利な条件を与えた場合にそれをアメリカにも及ぼす片務的最恵国待遇が含まれていた。
条約は下田・箱館の利用や領事設置とともに、アメリカへの片務的最恵国待遇を定めました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1854年の琉米修好条約は日米和親条約の付属文書にすぎず、琉球王国が条約当事者になったわけではない。
琉球王国はアメリカとの条約当事者となっており、薩摩・清との重層的な関係を保ちながら独自に条約を結びました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 1-1 開国―近代の幕開け国立国会図書館
1853年ペリー来航、国書の内容、阿部正弘による諸大名への諮問、1854年の日米和親条約締結までの経緯を参照。
- 日米和親条約(複製)外務省外交史料館
1854年3月31日の条約締結、下田・箱館開港、補給・漂流民保護・領事・最恵国待遇などを参照。
- 日米和親条約国立国会図書館 史料にみる日本の近代
条約本文から下田・箱館の利用条件、漂流民保護、取引方法、最恵国待遇、下田への領事設置条項を確認。
- 幕末期―日露関係外務省
1853年プチャーチン来航と1855年日露和親条約、日露国境の取り決めを参照。
- 資料年表沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫
1853年ペリー来琉、1854年琉米修好条約など琉球王国側の年代を確認。
- 外交史料 Q&A 幕末期 第1回外務省
ペリーの琉球来航と琉米修好条約を含む琉球での交渉を参照。
