薩摩藩支配下の琉球王国―なぜ琉球は王国と中国外交を維持できたのか
一言でいうと
1609年、薩摩藩は琉球王国へ侵攻しましたが、琉球王国を廃止して薩摩藩の普通の領地にしたわけではありません。琉球は薩摩藩の支配を受けながらも、国王を頂点とする王国の政治組織を維持し、中国の明・清王朝との冊封・朝貢関係も続けました。近世の琉球は、薩摩藩・江戸幕府の政治秩序に組み込まれる一方、中国と外交関係を持つ王国として存続するという重層的な位置にありました。
1609年の薩摩侵攻で琉球王国は滅亡したのか
1609年、薩摩藩の島津氏は琉球王国へ軍を送りました。薩摩軍は奄美諸島から沖縄本島へ進み、琉球王国は敗北します。
国王尚寧は薩摩側の支配を受け入れることになり、その後、琉球は徳川政権の幕藩体制にも組み込まれていきました。
しかし琉球王国そのものが消滅したわけではありません。尚氏による王統は続き、首里を中心とする王国政府も存続しました。
したがって1609年を「琉球王国滅亡」と理解するのではなく、琉球王国の上に薩摩藩による政治的・経済的な支配が加わった転換点として捉えます。
薩摩藩は琉球をどのように支配したのか
侵攻後、薩摩藩は琉球王国に対する統制を制度化していきました。1611年には薩摩側から琉球へいわゆる掟十五条が示され、対外貿易をはじめ王国の行動が薩摩の統制を受けるようになります。
また、琉球王国が支配していた奄美諸島は薩摩側の直接支配に組み込まれました。
一方、琉球本体では国王、三司官、首里王府の役人など既存の王国統治組織が残されました。薩摩藩は琉球王国を解体して直接統治するのではなく、王国を存続させ、その王国を通じて支配しました。
なぜ薩摩藩は琉球王国をなくさなかったのか
琉球王国は14世紀以来、中国王朝との冊封・朝貢関係を持っていました。中国皇帝から国王として認められる冊封を受け、琉球から中国へ使節を送り、外交と貿易を行っていました。
薩摩藩が琉球を普通の領地として完全に編入してしまえば、この中国との関係を従来の形で維持することは難しくなります。王国として存続させれば、琉球は中国へ使節を送り、貿易を続けることができました。
中国から琉球へ入ってくる商品は薩摩側にも利益をもたらしました。そのため琉球王国の存続と中国との外交関係は、薩摩藩にとって管理しながら利用する価値のある仕組みでもありました。
ただし、王国存続を中国貿易だけで説明するのは単純化です。中国との外交・交易、琉球王国による地域統治、幕府・薩摩の政治秩序など複数の事情が組み合わさっていました。
中国との冊封・朝貢関係とは何だったのか
琉球国王は中国皇帝から冊封を受けました。新しい国王が即位すると中国から冊封使が琉球へ派遣され、琉球からも中国へ使節を送りました。
朝貢には外交儀礼だけでなく貿易の機会という重要な意味がありました。1609年の薩摩侵攻後も、この関係は続きます。
17世紀に中国で明から清へ王朝が交代した後も、琉球王国は清朝との冊封・朝貢関係を築き直しました。薩摩の支配下に入ったことと、中国との外交関係の継続は両立していたのです。
琉球は「日本と中国の両方に所属」していたのか
近世琉球の状態はしばしば「両属」などと説明されますが、現代の国籍や領土所属の感覚をそのまま当てはめると分かりにくくなります。
薩摩藩と琉球王国の関係と、中国皇帝と琉球国王の冊封関係は同じ種類の支配ではありません。薩摩藩は軍事的侵攻を背景に政治的・経済的統制を加え、中国との関係は冊封・朝貢という東アジアの外交秩序に基づいていました。
したがって「日本にも中国にも半分ずつ領土として所属していた」のではなく、性質の異なる二つの政治・外交関係が重なっていたと考える方が適切です。
「江戸上り」は何を示したのか
1634年、琉球の使節が初めて江戸へ向かいました。その後、将軍の代替わりには慶賀使、琉球国王の代替わりには謝恩使などが江戸へ派遣されました。これを一般に江戸上りと呼びます。
琉球使節は薩摩藩の同行のもとで江戸へ向かい、将軍に対する儀礼を行いました。これは琉球王国が薩摩藩を介して徳川政権の秩序に組み込まれていることを示しました。
一方で、琉球使節は独自の衣装や音楽を伴い、「琉球国」から来た使節として人びとの目に映りました。江戸上りには、幕府への服属を示す側面と、琉球が独自の王国として見える側面の両方がありました。
幕府も琉球を利用したのか
江戸幕府は琉球を直接の幕府領にしたのではなく、基本的には薩摩藩を通じて関係しました。
これは四つの口の構造とつながります。朝鮮との関係では対馬藩、アイヌ社会との関係では松前藩が地域的な窓口となり、琉球との関係では薩摩藩が窓口となりました。
近世の対外関係では、幕府がすべてを直接管理するのではなく、地域固有の外交・交易経験を持つ大名を利用しながら幕府の秩序へ組み込んでいました。
琉球王国の政治は残ったのか
薩摩藩の支配下に入った後も、琉球王国自身の政治は続きました。国王のもとには三司官などの官僚組織があり、首里王府が島々を統治しました。
ただし、その政治は薩摩藩から完全に自由だったわけではありません。財政、貿易、対外関係などでは薩摩側の強い影響を受けました。
18世紀には蔡温が重要な政治家として活動し、1728年に三司官となります。農業・林業・行政などの改革を進めた蔡温の存在からも、薩摩支配下で琉球王国自身の政治運営が続いていたことが分かります。
琉球の対中国貿易は薩摩にどんな意味を持ったのか
琉球は中国への進貢貿易を続けました。中国からは薬種、織物、香料などさまざまな商品が入りました。
また、日本側から入手した銅・錫や海産物などが琉球を経由して中国へ運ばれることもあり、近世琉球は日本市場と中国市場をつなぐ役割を持ち続けました。
ただし「薩摩は中国貿易だけが欲しかったので琉球王国を残した」と一つの理由だけで説明せず、王国統治・外交・交易・幕藩体制を組み合わせて理解します。
琉球は独立国だったのか、薩摩の属国だったのか
1609年以前と同じ意味で完全に自立した王国だったわけではありません。薩摩藩から政治的・経済的統制を受け、幕藩体制の影響下にありました。
しかし、薩摩藩の一郡として消滅したわけでもありません。国王・王府・官僚組織を持つ琉球王国は存続し、中国との正式な冊封・朝貢外交も続きました。
近世琉球は、王国としての制度を維持しながら薩摩藩の支配下に置かれた政治体として理解することが重要です。
近世琉球の核心は、薩摩支配・中国との冊封外交・王国自身の統治が同時に存在したことです。「1609年に日本へ完全併合された」とも、「以前と同じ独立王国だった」とも単純化しません。
このページで覚えたい流れ
1609年 薩摩藩が琉球王国へ侵攻 → 琉球王国は敗北するが王国は存続 → 1611年ごろ 薩摩が琉球支配を制度化 → 中国との冊封・朝貢関係を継続 → 明から清への王朝交代後も関係を再構築 → 1634年 最初の江戸上り → 慶賀使・謝恩使による江戸上りが続く → 1728年 蔡温が三司官となる
Review
入試で押さえるポイント
- 1609年の薩摩侵攻後も琉球王国は存続し、国王と首里王府による王国統治が続いた
- 中国との冊封・朝貢関係は1609年以後も続き、明から清へ王朝が交代した後も清との冊封関係を築いた
- 奄美諸島は薩摩側の直接支配に組み込まれ、1634年以降は慶賀使・謝恩使などによる江戸上りが行われた
- 「日本と中国に半分ずつ所属した」と単純化せず、薩摩支配・中国外交・王国自身の統治という異なる関係が重なっていたことを理解する
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
1609年の薩摩侵攻後も、琉球王国は国王・首里王府を持つ王国として存続した。
侵攻後は薩摩の政治的・経済的統制を受けましたが、尚氏の王統と王国政府そのものは存続しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
薩摩侵攻後、琉球本体と奄美諸島はまったく同じ形で琉球王国の統治下に残った。
奄美諸島は薩摩側の直接支配へ組み込まれましたが、琉球本体では国王・王府などの統治組織が残されました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
薩摩藩が琉球王国を存続させた理由は、中国貿易の利益だけで完全に説明できる。
中国との外交・交易だけでなく、琉球王国による地域統治や幕府・薩摩の政治秩序など複数の事情が重なっていました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
中国が明から清へ交代した後も、琉球王国は清朝との冊封・朝貢関係を築き直した。
薩摩の支配下に入った後も、琉球は中国王朝との外交関係を継続しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
琉球の江戸上りは、徳川政権への服属を示すと同時に、琉球が独自の王国として人びとに見える側面も持っていた。
薩摩藩同行のもとで将軍へ儀礼を行う一方、独自の衣装・音楽を伴う『琉球国』の使節として認識されました。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
