四つの口と近世の対外関係―「鎖国」の日本は外国とどのようにつながっていたのか
一言でいうと
17世紀前半、幕府はキリスト教を禁止し、日本人の海外渡航を制限し、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。しかし、日本が外国との交流をすべて断ったわけではありません。その後も長崎・対馬・薩摩・松前という性格の異なる窓口を通じて、オランダ・中国・朝鮮王朝・琉球王国・アイヌ社会などとの交易や外交が続きました。これらを学習上「四つの口」と呼びます。「鎖国」は完全な孤立ではなく、幕府が海外との接触先・場所・方法を限定し、管理した対外秩序として理解することが重要です。
「鎖国」なら外国との交流はなかったのか
前のページまでに見たように、幕府は17世紀前半にキリスト教禁制と海外渡航統制を強めました。1639年にはポルトガル船の来航が禁止され、1641年にはオランダ商館が平戸から長崎の出島へ移されます。
しかし、その後も海外との交易・外交・情報交換は続きました。重要なのは、外国と交流するかしないかという二択ではなく、誰と、どこで、どのような形なら交流を認めるのかを幕府が限定したことです。
その結果、長崎・対馬・薩摩・松前という性格の異なる対外窓口が並立しました。これらを学習上四つの口と呼びます。
なお「四つの口」は、江戸幕府が一度に公布した一つの制度名ではありません。近世日本の対外関係を理解するための歴史学上・学習上の整理です。
長崎口―オランダ・中国とはどうつながっていたのか
最もよく知られている対外窓口が長崎口です。1641年、平戸にあったオランダ商館が長崎の出島へ移され、その後もオランダ船は長崎へ来航して貿易を続けました。中国船との交易も長崎で行われました。
日本からは銀や銅などが輸出され、中国やオランダを通じて生糸・絹織物、砂糖、薬種、書籍などさまざまな商品が入ってきました。
ただし、オランダや中国との関係を同じ意味での正式な国交と考える必要はありません。オランダとの関係は主として貿易であり、明・清王朝と江戸幕府の間にも正式な外交関係が結ばれていたわけではありません。
それでも長崎を通じて商品だけでなく海外の情報や学問も入り、後の蘭学の発達にもつながりました。
対馬口―なぜ朝鮮との外交を対馬藩が担ったのか
朝鮮王朝との外交・貿易の窓口となったのが対馬口です。豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶した日朝関係は、徳川政権成立後に対馬の宗氏を仲介として修復されました。
1607年には朝鮮から回答兼刷還使が来日し、1609年には己酉約条が結ばれます。その後も朝鮮からの使節が来日し、朝鮮通信使として交流が続きました。
幕府が江戸から外交実務をすべて直接行ったわけではありません。対馬藩は朝鮮との長い交流経験と地理的位置を持っており、幕府は宗氏による対朝鮮関係を認めながら徳川政権の外交秩序へ組み込みました。
対馬口では、朝鮮王朝との外交と貿易がともに重要だったことを押さえます。
薩摩口―琉球王国はなぜ中国との関係を続けたのか
南西諸島では、薩摩口を通じた対外関係が形成されました。1609年に薩摩藩は琉球王国へ侵攻しましたが、琉球王国が消滅して薩摩藩の普通の領地になったわけではありません。
琉球王国はその後も王国として存続し、中国の明・清王朝との冊封・朝貢関係を維持しました。薩摩藩は琉球を支配下に置きながら、この中国との関係を存続させました。
また琉球からは、将軍の代替わりなどに際して使節が江戸へ赴く江戸上りも行われました。琉球は薩摩藩の支配を受ける一方、中国との外交関係を持つ王国として存続するという重層的な位置にありました。
したがって、琉球が1609年に日本へ完全併合されたと説明しないことが重要です。具体的な仕組みは後続Topicで詳しく扱います。
松前口―アイヌ社会との交易はどのような関係だったのか
北方では、松前藩を介してアイヌ社会との交易が行われました。これを松前口と呼びます。1604年、徳川家康は松前慶広に黒印状を与え、松前氏側の対アイヌ交易上の立場を認めました。
17世紀には松前藩が交易を組織し、和人側から米・酒・鉄製品などを送り、アイヌ側から鮭・昆布・毛皮などを受け取る交易が広がりました。
しかしアイヌの人びとは松前藩の普通の農民ではありません。独自の社会・文化・交易圏を持ち、北海道だけでなく樺太や千島など北東アジアの人びとともつながっていました。
松前口は現代の国境貿易と単純に同一視せず、近世日本の政治秩序とアイヌ社会・北東アジアとの接点として理解します。具体的な関係は次のTopicで詳しく扱います。
四つの口は全部同じ仕組みだったのか
四つの口は、四つとも同じ制度ではありません。長崎口はオランダ・中国との貿易、対馬口は朝鮮王朝との外交・貿易、薩摩口は琉球王国を介した中国との関係、松前口はアイヌ社会との交易と北東アジアへの接続というように、相手も関係の形も異なりました。
運営主体も異なります。長崎では幕府が長崎奉行などを通じて強く管理し、対馬では宗氏、薩摩では島津氏、松前では松前氏という大名が、それぞれ地域固有の関係を担いました。
これは幕藩体制ともつながっています。幕府は全国の対外関係をすべて江戸の役人だけで処理するのではなく、地域ごとに特別な関係を持つ大名を利用しながら、その交流を幕府の秩序へ組み込んだのです。
四つの口の核心は、海外との交流が続いたことだけではありません。相手・地域・担い手ごとに異なる関係を、幕府が限定された窓口へ組み込んで管理したことにあります。
「鎖国」という言葉はどう理解すればよいのか
大学受験日本史では「鎖国」という用語自体は重要ですが、「外国との交流を完全に断った状態」という意味で理解するのは適切ではありません。
また幕府がある年に一つの「鎖国令」を出して、すべてが一度に完成したわけでもありません。キリスト教禁制、海外渡航統制、ポルトガル船来航禁止、オランダ商館の出島移転などが段階的に進みました。
その一方で四つの口を通じた交流は続きました。したがって、1639年のポルトガル船来航禁止と1641年のオランダ商館出島移転を重要な節目として覚えながら、その後も対外関係が継続したことをセットで理解します。
このページで覚えたい流れ
17世紀前半 キリスト教禁制・海外渡航統制が進む → 1639年 ポルトガル船来航禁止 → 1641年 オランダ商館を出島へ移転 → 海外との交流そのものは続く → 長崎口=オランダ・中国/対馬口=朝鮮王朝/薩摩口=琉球王国・中国/松前口=アイヌ社会・北東アジア → 幕府が限定された窓口を通じて対外関係を管理する
Review
入試で押さえるポイント
- 「鎖国」を外国との交流が完全に停止した状態と理解しない
- 幕府が一つの「鎖国令」で一度に対外体制を完成させたわけではない
- 長崎口はオランダ・中国との貿易
- 対馬口は宗氏を介した朝鮮王朝との外交・貿易
- 薩摩口では1609年以後も琉球王国が存続し、中国との冊封・朝貢関係を維持
- 松前口はアイヌ社会との交易と北東アジアへの接点
- 四つの口は同一制度ではなく、相手・担い手・関係の性質が異なる
- 幕府は海外交流を一律に禁止するのではなく、場所と担い手を限定して管理した
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0 / 5 問回答
- 問1
いわゆる『鎖国』体制のもとでは、日本と外国との交易・外交・情報交換はすべて停止していた。
長崎・対馬・薩摩・松前という窓口を通じて、相手や方法を限定した対外関係が続いていました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
長崎口では、オランダ船と中国船との貿易が続き、海外の書籍や情報も流入した。
1641年にオランダ商館が出島へ移った後もオランダ・中国との交易が続き、長崎は海外情報の重要な入口でもありました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1609年の薩摩侵攻によって琉球王国は消滅し、中国との冊封・朝貢関係も終わった。
琉球王国は薩摩の支配を受けながら王国として存続し、明・清との冊封・朝貢関係も維持しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
四つの口は、相手・担い手・外交と貿易の組み合わせがそれぞれ異なる対外関係だった。
長崎・対馬・薩摩・松前は同一制度ではなく、地域ごとの大名や幕府機関を通じて異なる関係を担いました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
幕府は一つの『鎖国令』を出し、その一度の命令で対外関係を現在いう鎖国体制へ切り替えた。
禁教、海外渡航統制、1639年のポルトガル船来航禁止、1641年のオランダ商館移転などが段階的に進みました。
本文の該当箇所を確認する
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Timeline
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Sources
参考資料
- 第3展示室「近世」国立歴史民俗博物館
四つの口を通じた近世日本の国際交流の全体像を参照。
- 江戸時代の日蘭交流 年表国立国会図書館
1641年のオランダ商館出島移転など長崎口・日蘭関係の年代確認に参照。
- 中近世の蝦夷地北海道デジタルミュージアム
松前藩、商場知行制、アイヌ社会との交易を参照。
- 旅人たちが撮った沖縄沖縄県公文書館
1609年以後も存続した琉球王国と江戸上りなどの関係を参照。
