キリスト教禁制と島原・天草一揆―なぜ幕府は禁教と海外渡航統制を強めたのか
一言でいうと
江戸幕府は成立直後から海外交流を断ったわけではありませんが、17世紀前半になるとキリスト教への統制を強め、日本人の海外渡航やポルトガル人との関係も段階的に制限していきました。1637〜1638年の島原・天草一揆は、こうした禁教政策のもとで起きましたが、単なる「キリスト教徒の反乱」ではありません。重い年貢、領主の苛政、凶作・飢饉、キリシタンへの迫害などが重なって大規模な武装蜂起へ発展しました。一揆鎮圧後、幕府はキリシタン統制をさらに強め、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。
なぜ幕府はキリスト教を禁止するようになったのか
前のページで見たように、徳川家康は朱印船貿易を進め、オランダなどとの貿易も認めていました。つまり、外国との交流そのものを直ちに断とうとしていたわけではありません。
一方でキリスト教については次第に警戒を強めます。キリスト教は宣教師による布教を通じて広がり、国内に多くの信徒を持つようになっていました。また宣教師は、ポルトガルやスペインなど海外のカトリック勢力と結びついていました。
幕府が全国支配を確立していく中で、幕府や大名の統制とは別の宗教的な結びつきを持つ信徒集団と、海外から活動する宣教師の存在は政治秩序上の問題として意識されるようになります。
ただし、「日本がヨーロッパの植民地になることを恐れたから」という一つの理由だけで禁教を説明するのは単純化しすぎです。幕府が国内の宗教と海外との関係を自らの統制下に置こうとする中で、キリスト教と宣教師の活動を警戒したことが重要です。
禁教はどのように全国へ広がったのか
1612年、幕府は直轄領を中心にキリスト教への規制を強め、1614年には全国的な禁教と宣教師の国外追放を進めました。
しかし法令を出しただけでキリスト教信仰がなくなったわけではありません。長崎、島原半島、天草、平戸、生月、五島など、キリスト教が深く根づいていた地域では信仰を続ける人びとがいました。
そのため幕府や各地の領主は、キリシタンを発見し、信仰を放棄させるための取締りを強めていきます。禁教体制の中では、宗門改めや寺請制度など、人びとの宗教的帰属を把握する仕組みも整えられていきました。
海外渡航の統制は、禁教とどう結びついていたのか
幕府はキリスト教だけでなく、海外との人の移動や貿易についても統制を強めました。1630年代には日本船の海外渡航に対する規制が段階的に厳しくなります。
1635年には日本人の海外渡航と、海外に住む日本人の帰国が禁止されました。それまで東南アジアへ渡っていた朱印船貿易は、ここで大きな転換点を迎えます。
1636年には長崎に築かれた出島へポルトガル人が移されました。これは外国人をすべて国外へ追放したことを意味せず、ポルトガル人の居住や活動を特定の場所へ集め、幕府が管理しやすくする政策でした。
幕府は外国との交易を一律になくすのではなく、布教・海外渡航・外国人居住・貿易をそれぞれ管理できる範囲へ限定していったのです。
島原・天草一揆はなぜ起きたのか
1637年、島原半島と天草で大規模な一揆が起こりました。これが島原・天草一揆です。
島原半島南部や天草は、戦国時代以来キリスト教が広く受け入れられてきた地域でした。江戸時代になると領主によるキリシタン取締りが強まり、信徒への迫害が行われました。
それだけではありません。島原や天草では領民に重い年貢負担が課され、厳しい取り立てが行われました。さらに1630年代には凶作や飢饉も重なりました。
こうした状況の中で、領主の苛政、重い年貢、凶作・飢饉、キリシタンへの迫害など複数の要因が重なり、武装蜂起へ発展しました。したがって、島原・天草一揆を「キリスト教を守るためだけに起きた宗教戦争」とも、「重税だけが原因の百姓一揆」とも理解しないことが重要です。
天草四郎と原城では何が起きたのか
一揆勢は島原半島と天草で蜂起し、やがて天草四郎を象徴的な指導者として掲げました。
一揆勢は、すでに廃城となっていた原城に集まり籠城します。原城には多数の領民が立てこもり、女性や子どもも含まれていました。
幕府は周辺諸藩の大軍を動員して原城を包囲しました。一揆勢は長期間抵抗しましたが、1638年に幕府軍の総攻撃を受けて原城は陥落し、一揆は鎮圧されました。
一揆勢の多くが死亡し、天草四郎も命を落としました。島原・天草一揆は、幕府成立後の国内で起きた極めて大規模な武力衝突でした。
一揆は「キリシタンの反乱」だったのか
一揆勢がキリスト教の旗印や信仰を共有していたことは重要です。原城跡からも十字架やメダイなど、キリスト教信仰を示す遺物が見つかっています。
しかし、一揆に参加した人びとの動機をすべて同じに考えることはできません。領主の支配や年貢負担に耐えられず参加した人びともいれば、キリスト教信仰を背景に結束した人びともいました。
幕府は一揆をキリシタンによる重大な反乱として強く認識しましたが、その幕府側の認識を一揆の原因すべてとみなさず、社会・経済的な不満と宗教的迫害が重なった出来事として理解します。
一揆の後、なぜポルトガル船まで禁止されたのか
島原・天草一揆は幕府に大きな衝撃を与えました。一揆の鎮圧後、幕府は国内のキリシタンへの監視をさらに強めます。
同時に幕府は、宣教師が再び日本へ入りキリスト教を広める経路となることを警戒し、ポルトガルとの関係をさらに制限しました。1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止します。
ただし、ここで外国との交流がすべてなくなったわけではありません。オランダや中国との貿易は続き、朝鮮王朝との外交・貿易、琉球王国を介した関係、松前を通じたアイヌ社会との交易も続きました。
1639年は、幕府がキリスト教布教と結びつくポルトガルとの関係を断ち、対外関係をさらに選別した重要な節目です。この後、1641年には平戸のオランダ商館が長崎の出島へ移されます。
島原・天草一揆を禁教だけで説明せず、重い年貢・領主支配・凶作や飢饉・キリシタン迫害が重なった出来事として理解します。また、1639年のポルトガル船来航禁止を日本の対外交流そのものの停止とはしません。
このページで覚えたい流れ
1601年以後 朱印船貿易が広がる → 1612〜1614年 幕府がキリスト教禁制を強化 → 宣教師追放・キリシタン取締り → 1635年 日本人の海外渡航・帰国を禁止 → 1636年 ポルトガル人を出島へ集住 → 重い年貢・苛政・凶作や飢饉・キリシタン迫害が重なる → 1637〜1638年 島原・天草一揆 → 1639年 ポルトガル船来航禁止 → 対外関係を限定された窓口へ再編
Review
入試で押さえるポイント
- 1612〜1614年に徳川幕府のキリスト教禁制が本格化
- 禁教の理由をヨーロッパによる植民地化への恐怖だけで説明しない
- 1635年に日本人の海外渡航と海外在住日本人の帰国を禁止
- 1636年にポルトガル人を長崎の出島へ集住
- 島原・天草一揆は重い年貢・苛政・凶作や飢饉・キリシタン迫害などが重なって発生
- 島原・天草一揆を単なる宗教戦争とも、重税だけの百姓一揆とも理解しない
- 一揆勢は天草四郎を掲げ原城へ籠城し、1638年に鎮圧された
- 1639年にポルトガル船来航を禁止したが、日本の対外交流そのものが停止したわけではない
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- 問1
幕府がキリスト教を禁じた理由は、日本がヨーロッパの植民地になることへの恐怖だけで説明できる。
禁教は、幕府が国内の宗教的結びつきや海外から活動する宣教師を政治秩序の中で統制しようとした過程として捉える必要があります。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1635年には、日本人の海外渡航と海外に住む日本人の帰国が禁止された。
この規制は朱印船貿易の大きな転換点となり、海外との人の移動を幕府がより厳しく制限する段階へ進みました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
島原・天草一揆は、キリスト教信仰を守ることだけを目的に起きた宗教戦争だった。
キリシタン迫害に加え、重い年貢、領主の苛政、凶作・飢饉など複数の要因が重なって武装蜂起へ発展しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1639年のポルトガル船来航禁止によって、日本と外国との貿易・外交はすべて停止した。
オランダ・中国との貿易、朝鮮との外交・貿易、琉球やアイヌ社会を介する関係はその後も続きました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
厳しい禁教政策のもとでも、長崎・天草地方などでは宣教師なしに信仰を密かに継承した人びとがいた。
禁教下で信仰を継承した人びとは、学習上『潜伏キリシタン』として理解されます。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 原城跡文化庁 国指定文化財等データベース
島原・天草一揆、原城籠城と一揆鎮圧、キリスト教関係遺物について参照。
- 﨑津集落の歴史天草市
天草におけるキリスト教受容、禁教、島原・天草一揆とその後の潜伏信仰について参照。
- 江戸時代 通史年表 補助ガイドhistory.yayao.site編集部
禁教・海外渡航統制と1639年のポルトガル船来航禁止を、対外交流の完全停止としない編集方針を参照。
