キリスト教・南蛮貿易―宣教師はなぜ来日し、戦国大名はなぜ受け入れたのか
一言でいうと
1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島へ上陸してキリスト教布教を始め、その後、宣教師の活動とポルトガル商人による南蛮貿易は九州の港を中心に広がりました。ただし、戦国大名がキリスト教を受け入れた理由を貿易利益だけに求めるのは適切ではありません。信仰、領国政治、港湾政策、海外情報、人間関係などが大名ごとに異なる形で重なっていました。キリスト教と南蛮貿易は深く結びつきましたが、同一のものではなく、政権側も布教と貿易を別々に規制・利用できたことが重要です。
ザビエルはなぜ日本へ来たのか
1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ上陸しました。ザビエルは鹿児島出身のヤジロウらとともに来日し、島津貴久から布教の許可を得て、日本でのキリスト教布教を始めました。
ザビエルの来日は、ヨーロッパから日本だけを直接目指した孤立した出来事ではありません。ポルトガル勢力とイエズス会はインド・東南アジアへ活動範囲を広げており、日本もその海上ネットワークの先に位置していました。
前の鉄砲Topicと同じく、キリスト教伝来もヨーロッパ・東南アジア・中国海域・日本がつながる16世紀の海域世界の中で理解します。
ポルトガル商人と宣教師は同じ目的で動いていたのか
同じではありません。商人の主目的は交易による利益であり、宣教師の主目的は布教でした。
しかし、日本では両者の活動が同じ港を舞台にすることが多く、宣教師と良好な関係を持つ領主がポルトガル船の来航を期待することもありました。一方で、南蛮貿易を望みながらキリスト教布教を制限する大名もいました。
したがって、南蛮貿易とキリスト教は強く関係していましたが、同じものではありません。この区別は、戦国大名や統一政権の政策を理解するうえで重要です。
南蛮貿易では何が動いていたのか
16世紀後半の南蛮貿易では、日本とポルトガル本国の産物だけが直接交換されたわけではありません。ポルトガル商人はマカオなどを拠点として、中国産の生糸・絹織物などを日本へ運び、日本から銀などを持ち出しました。
前に学んだ石見銀山と日本銀は、ここでも重要です。日本銀は中国商品の購入に利用され、ポルトガル商人は東アジア域内交易を仲介しました。
南蛮貿易は、日本とヨーロッパの二国間貿易というより、日本・中国・東南アジア・ヨーロッパ勢力が結びつく海上交易として見る方が実態に近づきます。
なぜポルトガル船の寄港地は移動したのか
ポルトガル船の主要な寄港地は一つに固定されず、1550年の平戸から横瀬浦、福田、口之津などへ移り、1571年には長崎への入港が始まりました。
寄港地の移動には港の地理条件だけでなく、各地の領主・商人・宣教師との関係が影響しました。南蛮貿易は、日本側の地域権力との交渉によって成立する交易でもありました。
港を開き、商人を呼び込み、海外交易の利益を領国へ取り込むことは、戦国大名の経済政策の一部にもなりました。
大村純忠はなぜキリシタン大名になったのか
肥前の大村純忠は、1560年代にポルトガル船の寄港とキリスト教布教を領国政策に取り込み、自身も受洗しました。日本最初のキリシタン大名として知られます。
ただし、純忠の受洗を「貿易利益だけを狙った偽装改宗」と決めつけるのも、「政治とは無関係な信仰だけ」と見るのも適切ではありません。信仰・港湾政策・領国政治・宣教師との関係が重なっていました。
キリシタン大名を理解するときは、政治的利害と宗教的信仰のどちらか一方だけを原因にせず、複数の要因が同時に作用したと考えます。
長崎はなぜ南蛮貿易の中心になったのか
1570年、大村純忠は長崎を新しい貿易港とする協定を結び、1571年にはポルトガル船が入港して町建てが始まりました。
長崎には商人・宣教師・キリスト教徒などが集まり、国際交易都市として急速に発展します。1580年には純忠が長崎6か町と茂木をイエズス会へ寄進しました。
1571年の開港・町建てと1580年のイエズス会への寄進は別の出来事なので、年代を混同しないようにします。
天正遣欧少年使節は何を目指したのか
1582年、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名で、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの4少年がヨーロッパへ派遣されました。これが天正遣欧少年使節です。
イエズス会巡察師ヴァリニャーノの提案によるもので、ローマ教皇に日本のキリスト教徒を示すとともに、少年たちにヨーロッパのキリスト教世界を見聞させ、日本での布教に役立てる目的がありました。
この使節は、戦国時代の日本人が宣教師を通じてヨーロッパ世界と直接接触した代表的な出来事です。
南蛮文化は何を日本へもたらしたのか
南蛮交流によって入ったのはキリスト教と商品だけではありません。西洋式の絵画・音楽・印刷・医学知識・衣服や食文化なども伝わりました。
ただし、日本側がヨーロッパ文化をそのまま受け入れただけではありません。新しい技術や意匠を日本の工芸・生活文化の中で組み替える動きも進みました。
南蛮文化は、海外文化の一方的な流入ではなく、日本側の選択・加工を含む文化交流として理解します。
1587年の伴天連追放令で何が変わったのか
1587年、九州平定を終えた豊臣秀吉は伴天連追放令を出し、宣教師の活動を制限しました。長崎などイエズス会に関係する所領も統一政権の支配下へ移されていきます。
ただし、追放令が出た瞬間に日本のキリスト教徒・宣教師・ポルトガル商人がすべて排除されたわけではありません。布教への統制は強まりましたが、南蛮貿易は引き続き重視されました。
ここでも、キリスト教布教の規制と海外貿易の規制を同じものとして扱わないことが重要です。
戦国大名はなぜキリスト教を受け入れたのか
戦国大名が宣教師やキリスト教を受け入れた理由に一つの答えはありません。ポルトガル船を呼び込みたいという経済的期待、海外情報や新しい知識への関心、宣教師との人的関係、領国内の政治判断、そして宗教的信仰が、大名ごとに異なる形で重なっていました。
したがって「キリシタン大名は南蛮貿易目当てだった」と一括することも、「政治とは無関係な純粋な信仰だけだった」と一括することも避けます。
石見銀山・後期倭寇・鉄砲・キリスト教・南蛮貿易をつなげて見ると、16世紀の日本が国内の戦国争乱と同時に、急速に広がる海上交易・文化交流の中へ組み込まれていたことが分かります。
このページで覚えたい流れ
ポルトガル勢力とイエズス会がアジア海域へ進出 → 1549年 ザビエルが鹿児島へ上陸し布教開始 → 1550年 ポルトガル船が平戸へ来航 → 九州各地で宣教師と商人が活動 → 大村純忠らがキリスト教と南蛮貿易を領国政策に取り込む → ポルトガル船の寄港地が移動 → 1570年 長崎開港協定 → 1571年 長崎へポルトガル船入港・町建て → 日本銀と中国産生糸などを結ぶ南蛮貿易が発展 → 1580年 長崎6か町と茂木がイエズス会へ寄進 → 1582年 天正遣欧少年使節出発 → 1587年 秀吉が伴天連追放令 → 布教への統制は強まるが南蛮貿易は継続
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入試で押さえるポイント
- 1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ上陸し日本でキリスト教布教を開始
- 南蛮貿易では日本銀と中国産生糸などを結ぶ東アジア域内交易が重要
- 戦国大名がキリスト教を受け入れた理由を貿易利益だけに単純化しない
- 1571年に長崎でポルトガル船入港・町建てが始まり、1580年に長崎6か町と茂木がイエズス会へ寄進
- 1582年、大友義鎮・大村純忠・有馬晴信の名で天正遣欧少年使節が派遣
- 1587年に秀吉が伴天連追放令を出したが、布教規制と南蛮貿易を同一視しない
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- 問1
ポルトガル商人とイエズス会宣教師は同じ目的で活動しており、南蛮貿易とキリスト教布教は区別できない。
商人の主目的は交易利益、宣教師の主目的は布教でした。両者は深く関係しましたが、同一の活動ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
南蛮貿易は、日本の商品とポルトガル本国の商品を直接交換する二国間貿易が中心だった。
ポルトガル商人はマカオなどを拠点に、中国産生糸などと日本銀を結ぶ東アジア域内交易を仲介しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
ポルトガル船の寄港地が平戸・横瀬浦・福田・口之津・長崎などへ移った背景には、港の条件だけでなく領主・商人・宣教師との関係もあった。
南蛮貿易は日本側の地域権力との交渉によって成立し、寄港地の移動にも政治・人的関係が影響しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
キリシタン大名がキリスト教を受け入れた理由は、南蛮貿易の利益だけで説明できる。
信仰、港湾政策、領国政治、海外情報、宣教師との人的関係など複数の要因が大名ごとに重なっていました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1587年の伴天連追放令後も、布教への統制と南蛮貿易の扱いは区別され、貿易は引き続き重視された。
追放令で宣教師の活動は制限されましたが、キリスト教徒・宣教師・ポルトガル商人が即時にすべて排除されたわけではなく、南蛮貿易は継続しました。
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Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- キリスト教の伝来鹿児島県
1549年のザビエル鹿児島上陸、島津貴久による布教許可を確認
- 長崎港開港の碑長崎税関
平戸から長崎へ至るポルトガル船寄港地の変化と1571年の長崎入港を確認
- 歴史年表 室町時代・安土桃山時代・江戸時代長崎市
1570年長崎開港協定、1571年町建て、1580年イエズス会寄進、1582年天正遣欧少年使節、1587年伴天連追放令の年代を確認
- 天正遣欧使節記国立文化財機構 e国宝
1582年の使節派遣者、少年使節4名、ヴァリニャーノの目的を確認
- 西洋は長崎から―洋楽・長崎とキリシタン音楽長崎市
1587年伴天連追放令後も南蛮貿易が重視され、布教規制と貿易継続を区別するために参照
- 秀吉の伴天連追放令と戦国時代の奴隷売買国立国会図書館サーチ
1587年伴天連追放令を単純な即時全面禁教として扱わないための研究参照
