松前藩とアイヌ交易―商場知行制はアイヌ社会との関係をどう変えたのか
一言でいうと
近世初頭のアイヌ社会は、和人だけでなく樺太や千島など北東アジアにもつながる広い交易圏を持っていました。1604年、徳川家康が松前慶広に黒印状を与え、松前氏が和人側の対アイヌ交易を統制する立場を強めます。1630年代ごろには家臣へ特定地域での交易権を与える商場知行制が成立し、交易は松前藩側が場所・相手・交換条件を強く統制する関係へ変化しました。その緊張は1669年のシャクシャインの戦いにもつながり、戦後には松前藩の政治的・経済的統制がさらに強まりました。
松前藩が成立する前、アイヌはどのように交易していたのか
アイヌ社会と和人との交易は江戸時代になって突然始まったものではありません。中世以来、北海道ではアイヌの人びとと本州から来る和人との間で活発な交易が行われ、鮭・昆布・毛皮などと、米・酒・鉄製品・漆器などが交換されました。
しかし交易相手は和人だけではありません。アイヌの人びとは樺太・千島などにも活動範囲を広げ、北東アジアの人びととの交易を通じて中国などに由来する絹織物を含むさまざまな品々を入手していました。
つまりアイヌ社会は、本州から物を受け取るだけの辺境社会ではなく、日本列島と北東アジアを結ぶ交易ネットワークの担い手でもありました。
1604年の黒印状は何を変えたのか
道南では中世以来の和人勢力の中から蠣崎氏が勢力を伸ばし、のちに松前氏を名乗りました。1604年、徳川家康は松前慶広に黒印状を与えます。
これによって松前氏は、和人側の対アイヌ交易を統制する政治的立場を幕府から認められました。
ただし、黒印状を「徳川幕府が北海道全域を征服し、アイヌ社会を松前藩の領民にした」と理解してはいけません。アイヌの人びとは独自の社会と政治的まとまりを持ち続けていました。
重要なのは、アイヌ社会そのものが幕府の普通の村として編成されたのではなく、和人がアイヌと交易する窓口を松前氏が統制する仕組みが強まったことです。
なぜ松前藩にとって交易がそれほど重要だったのか
本州の多くの大名は、領地の石高を基礎として年貢米を集め、それを藩の財政基盤としました。しかし松前藩では、同じ仕組みをそのまま当てはめることができませんでした。
道南では本州の主要な藩のような米作中心の経済を築くことが難しく、松前藩の財政では蝦夷地の産物とアイヌとの交易が特に重要な位置を占めました。
そのため、交易を誰が行い、そこから得られる利益を誰が受け取るのかは、松前藩の政治構造そのものにかかわる問題でした。
商場知行制とはどのような仕組みだったのか
1630年代ごろ、松前藩では商場知行制が成立していきます。
本州の藩では家臣に土地や米などを知行として与えることが一般的でした。一方、松前藩では家臣に対し、蝦夷地の特定地域でアイヌと交易する権利を知行として与えました。この交易区域が商場です。
家臣は自分に割り当てられた商場へ船を送り、そこでアイヌの人びとと交易して利益を得ました。土地から米を取る権利の代わりに、特定地域で交易する権利を配分する仕組みだったと考えると分かりやすくなります。
商場知行制によって交易はどう変わったのか
商場知行制の成立は、アイヌと和人との関係を大きく変えました。松前藩が交易を独占的に統制し、家臣ごとの商場を設定すると、アイヌ側が交易する相手や場所は制約されるようになります。
交換比率も和人側が主導する傾向が強まり、アイヌ側に不利な条件での交易が広がっていきました。さらに17世紀には砂金採取などを目的とする和人が蝦夷地内部へ入り、アイヌの生活圏や生業にも影響を与えるようになります。
つまり商場知行制は、交易を組織する制度であると同時に、アイヌが持っていた交易活動の自由を狭め、松前藩が交易を通じてアイヌ社会への影響力を強める仕組みでもありました。
それでもアイヌ社会は松前藩に完全支配されていたのか
商場知行制が成立したからといって、北海道全域が松前藩の普通の領地になったわけではありません。アイヌ社会には河川流域などを基盤とする複数の地域的なまとまりがあり、それぞれに有力な首長がいました。
またアイヌの人びとは、和人との交易だけでなく、樺太・千島など北方との交易関係も持ち続けました。
17世紀の蝦夷地は、松前藩がすべてを直接統治していた地域でも、松前藩とは無関係なアイヌ社会がそのまま存続していた地域でもありません。松前藩の交易統制が拡大する一方、独自の政治社会と交易圏を持つアイヌ社会が存在し、両者の関係が次第に不均衡になっていったと理解します。
シャクシャインの戦いはなぜ起きたのか
1669年、アイヌ勢力と松前藩の間で大規模な戦いが起こりました。これがシャクシャインの戦いです。
ただし、最初から全アイヌ対松前藩という形で始まったわけではありません。日高地方ではシャクシャインを中心とするシベチャリ側とハエ側の集団との間で、生活領域などをめぐる対立が続いていました。
このアイヌ集団間の争いを背景としながら、松前藩による交易統制、不利な交換条件、和人の蝦夷地進出などへの不満が重なり、1669年には広い地域のアイヌが和人に対して蜂起しました。
したがって、シャクシャインの戦いを松前藩の圧政だけが原因で突然起きた統一アイヌ民族の反乱とも、アイヌ同士の争いに松前藩が巻き込まれただけとも説明しません。
シャクシャインの戦いの後、何が変わったのか
戦いの後、松前藩は各地のアイヌ首長に服従を求め、政治的・経済的な統制をさらに強めました。その結果、アイヌの人びとが和人と自由に交易できる範囲はさらに狭くなっていきます。
18世紀になると、商場の経営を松前藩の家臣自身ではなく商人へ請け負わせる場所請負制が広がります。場所請負制のもとでは交易だけでなく漁場経営なども商人が担い、アイヌの人びとが和人の経営する漁場で働く関係も拡大しました。
商場知行制からシャクシャインの戦いを経て場所請負制へ進む流れは、松前藩側の交易統制がしだいにアイヌ社会へのより強い経済的・政治的支配へ変化していく過程として理解できます。
近世の蝦夷地を最初から日本の一地方として描かず、独自の社会と広域交易圏を持つアイヌ社会と、交易統制を強める松前藩との関係が段階的に変化したことを押さえます。
このページで覚えたい流れ
中世以来 アイヌが和人・北東アジアと広域交易 → 1604年 家康が松前慶広へ黒印状 → 松前氏が和人側の対アイヌ交易統制を強める → 1630年代 商場知行制が成立 → 交易条件が和人側主導となりアイヌの自由な交易が制約される → 1669年 シャクシャインの戦い → 松前藩の政治的・経済的統制がさらに強まる → 18世紀 場所請負制へ展開
Review
入試で押さえるポイント
- アイヌ社会は和人だけでなく樺太・千島など北東アジアとも交易していた
- 1604年の黒印状を北海道全域の征服・直接統治と理解しない
- 松前藩ではアイヌとの交易が重要な経済基盤だった
- 商場知行制は家臣へ特定地域での対アイヌ交易権を与える仕組み
- 商場知行制によってアイヌの自由な交易が制約され、和人側主導の交易が強まった
- シャクシャインの戦いはアイヌ集団間の対立と松前藩による交易統制への不満の双方を背景に理解する
- 1669年の戦い後、松前藩によるアイヌ社会への政治的・経済的統制が強化された
- 18世紀には場所請負制が広がり、交易関係が漁場労働などを含む支配へ変化していった
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- 問1
近世初頭のアイヌ社会は、和人との交易だけでなく樺太・千島など北東アジアともつながる交易圏を持っていた。
アイヌの人びとは北東アジアとの交易を通じ、中国などに由来する品々も入手していました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1604年の黒印状によって、徳川幕府は北海道全域を征服し、アイヌ社会を松前藩の普通の領民として編成した。
黒印状は松前氏の対アイヌ交易上の立場を認めたもので、アイヌ社会全体を本州の村と同じ形で直接統治したことを意味しません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
商場知行制では、松前藩の家臣に蝦夷地の特定地域でアイヌと交易する権利が知行として与えられた。
米を生む土地の代わりに、特定の商場で交易する権利を家臣へ配分する仕組みでした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
シャクシャインの戦いは、最初から全アイヌが一つに統一され、松前藩だけを相手に起こした戦争だった。
背景には日高地方のアイヌ集団間の対立があり、そこへ松前藩の交易統制や和人進出への不満が重なって広域蜂起へ発展しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1669年の戦い後、松前藩によるアイヌ首長・交易への政治的・経済的統制はさらに強まった。
戦後は服従要求と交易統制が強化され、18世紀には場所請負制へ展開していきました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 中近世の蝦夷地北海道デジタルミュージアム
松前藩、商場知行制、シャクシャインの戦い、場所請負制とアイヌ交易の変化を参照。
- アイヌ民族:歴史と現在―未来を共に生きるために北海道教育委員会
シャクシャインの戦いの背景と経過、近世アイヌ社会と和人との関係を参照。
