アヘン戦争と対外政策転換―幕府はなぜ異国船打払令を薪水給与令へ改めたのか
一言でいうと
1825年、幕府は日本沿岸へ接近する外国船を原則として打ち払う異国船打払令を出しました。ところが1837年のモリソン号事件では、日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカ船まで砲撃され、この強硬策をめぐって蘭学者から批判が出ます。さらに1840〜1842年のアヘン戦争で清がイギリスの軍事力に敗れた情報は、幕府に従来の打払いを続ければ大規模な武力衝突を招きかねないと認識させました。1842年の薪水給与令は、来航船に食料・水・薪などを与えて退去させる方針への転換でした。ただし、これは外国との自由な通商や国交を認める『開国』ではありません。幕府は海禁体制を維持しながら、衝突を避けるため対外対応を現実に合わせて修正したのです。
外国船への対応は1825年まで一貫して強硬だったのか
江戸幕府の外国船政策は、最初から最後まで同じ強硬方針だったわけではありません。18世紀末からロシア船などの来航が増えると、幕府は漂着船や来航船を監視しつつ、状況に応じて退去させる対応を重ねました。
1804年にロシア使節レザノフが長崎へ来航した後、幕府は1806年、外国船についてできるだけ穏便に帰帆させ、漂流船には薪や水を与える方針を示しました。しかし、その後レザノフの部下らによる樺太・択捉島などへの襲撃や、1808年のフェートン号事件が起こります。
さらに1824年にはイギリス捕鯨船員が常陸国大津浜などへ上陸しました。こうした事件の積み重ねによって、幕府内では沿岸へ近づく外国船を早く排除すべきだという警戒論が強まりました。1825年の打払令は、長く不変だった『鎖国政策』の単純な延長ではなく、外国船への対応が強硬化した一局面として理解する必要があります。
異国船打払令は何を命じたのか
1825年、幕府は異国船打払令(無二念打払令)を出しました。日本沿岸へ近づく外国船について、事情を詳しく確かめる前に砲撃などで退去させる強硬な方針です。
この法令は、長崎で管理されたオランダ・中国との通商まで全面的に停止する命令ではありません。既存の対外窓口を維持しながら、それ以外の外国船が沿岸へ接近することを排除しようとした点に特徴があります。
幕府が恐れたのは通商要求だけではありません。外国船員の無断上陸、沿岸測量、物資要求、軍事的威圧など、来航の目的を現地で短時間に判断しなければならないこと自体が海防上の問題でした。打払令は、複雑な判断を『まず排除する』という明確な原則に置き換えた政策でもありました。
モリソン号事件は打払令のどんな問題を示したのか
1837年、アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民を送り届け、通商の可能性も探るため日本へ来航しました。幕府側はその目的を十分に把握しないまま、異国船打払令にもとづいて浦賀や薩摩で砲撃し、退去させました。
翌1838年、オランダ商館長からの情報などによって、幕府や蘭学者はモリソン号が日本人漂流民を乗せていたことを知ります。相手の目的を確認せず打ち払う方針が、漂流民送還のような場合にも適用されることが明らかになりました。
この事件は、外国船をすべて同じ脅威として扱うことの難しさを示しました。同時に、外国船の国籍・目的・軍事力などを判断するため、海外情報を集める重要性も増しました。
海防をめぐる議論と蘭学はなぜ政治問題になったのか
モリソン号事件を知った蘭学者の渡辺崋山や高野長英らは、西洋諸国の情勢を踏まえて打払い政策を批判しました。崋山は『慎機論』、長英は『戊戌夢物語』などで海防と対外政策を論じます。
1839年の蛮社の獄では崋山・長英らが処罰され、モリソン号事件を受けた海防政策批判の著述も問題視されました。幕府が海外知識そのものを全面禁止したわけではありませんが、対外政策への批判が幕政批判へ結びつくことには強い警戒が向けられました。
一方で幕府自身も西洋軍事技術の必要性を無視できませんでした。長崎町年寄の高島秋帆に西洋砲術を実演させるなど、批判的な言論を抑えながらも海外知識や技術を政策へ取り込むという、複雑な対応を進めていきます。
なぜアヘン戦争は日本の幕府にも大きな衝撃だったのか
1840年、清とイギリスの間でアヘン戦争が始まりました。イギリスは蒸気船や艦砲を含む軍事力を用いて清を圧倒し、1842年に清は南京条約を結びました。香港の割譲や複数港の開港、賠償金などを受け入れる結果となります。
日本にとって清は、長崎貿易を通じて深い関係を持つ東アジアの大国でした。その清が西洋列強に軍事的に敗れた事実は、『外国船は沿岸砲台から打ち払えばよい』という想定の危険性を具体的に示しました。
重要なのは、幕府が戦争終結後に突然この事実を知ったわけではないことです。長崎のオランダ商館から提出される風説書に加え、1840年以降はアヘン戦争などを詳しく伝える別段風説書が提出され、幕府は戦況や西洋諸国の動きを継続的に把握しようとしていました。
なぜ幕府は1842年に打払いをやめたのか
アヘン戦争で明らかになったイギリスの軍事力を前に、外国船へ無条件に砲撃することは、むしろ日本側が準備できていない戦争を引き起こす危険を持つように見えました。
モリソン号事件ですでに打払い方針の硬直性が現れ、海防論では西洋の軍事力を踏まえた対応が論じられていました。そこへ清の敗北という具体的な事例が加わったことで、幕府は衝突を避けながら外国船を退去させる方が現実的だと判断します。
1842年、幕府は異国船打払令を改め、薪水給与令を出しました。来航した外国船に薪・水・食料など必要な物資を与え、穏便に帰帆させる方針です。これは弱腰への単純な転換ではなく、軍事力の差と外交上の危険を踏まえて不要な衝突を避ける政策調整でした。
1825年の異国船打払令=原則として打払い、1842年の薪水給与令=必要物資を与えて退去させる。両者の違いと、変更の背景にアヘン戦争があることを押さえます。
薪水給与令は『開国』を意味したのか
薪水給与令を出したからといって、幕府が欧米諸国との自由な貿易や正式な外交関係を認めたわけではありません。目的は外国船を日本に滞在させることではなく、必要な物資を与えて穏便に退去させることでした。
既存の長崎貿易などの枠組みも維持されました。1844年にオランダ国王ウィレム2世が開国・通商を勧告した際にも、幕府はこれを拒否しています。つまり1842年の転換は海禁体制の放棄ではなく、その体制を大規模な武力衝突を避けながら維持するための修正でした。
ここを『打払いをやめた=鎖国をやめた』と結びつけないことが重要です。幕府は対外環境の変化を認識して政策を修正できましたが、通商・外交関係そのものを再設計するところまでは進んでいませんでした。
1842年の政策転換でも、なぜペリー来航問題は解決しなかったのか
薪水給与令は、補給を求める外国船との偶発的な衝突を減らすには意味がありました。しかし欧米諸国が求めるものが、単なる薪水ではなく港の利用、漂流民保護、正式な通商や外交交渉へ広がれば、外国船を帰らせるだけでは対応できません。
幕府は海防の強化、西洋砲術の導入、海外情報の収集を進めながらも、どの範囲まで対外関係を変えるかについて決定的な解答を出せないまま1850年代を迎えました。
1853年にペリー艦隊が来航すると、幕府は国書を受け取るか、港を開くか、諸大名に意見を求めるかという新たな政治判断を迫られます。1825年から1842年までの政策転換は、幕府が外圧にまったく反応しなかったのではなく、段階的に対応を変えながらも、最終的にはより大きな外交交渉に直面した過程を示しています。
Review
入試で押さえるポイント
- 1825年の異国船打払令(無二念打払令)は、日本沿岸へ近づく外国船を原則として打ち払う強硬策でした。
- 異国船打払令の背景には、ロシア船襲撃・フェートン号事件・1824年大津浜事件など、外国船への警戒が積み重なっていたことがあります。
- 1837年のモリソン号事件では、日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカ船が打払令にもとづいて砲撃されました。
- 1839年の蛮社の獄では渡辺崋山・高野長英らが処罰され、モリソン号事件を受けた海防・対外政策批判の著述も問題視されました。
- 1840〜1842年のアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことは、西洋列強との軍事力の差を幕府に強く意識させました。
- 幕府はオランダ商館からの風説書・別段風説書などを通じてアヘン戦争を含む海外情勢を収集していました。
- 1842年の薪水給与令では、外国船に薪・水・食料を与えて穏便に退去させる方針へ改めました。異国船打払令との違いを押さえます。
- 薪水給与令は開国・自由貿易の開始ではありません。海禁体制を維持しながら武力衝突を避けるための政策修正であり、開国問題は1853年のペリー来航以後に本格化します。
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- 問1
1825年の異国船打払令は、長崎で続いていたオランダ・中国との貿易まで全面停止する命令だった。
既存の対外窓口は維持しつつ、それ以外の外国船が沿岸へ接近することを原則として排除する政策でした。
本文の該当箇所を確認する - 問2
モリソン号事件では、幕府側が漂流民送還という目的を十分に把握しないまま打払令にもとづいて砲撃した。
翌年になって漂流民を乗せていたことが知られ、相手の目的を確認せず一律に打ち払う方針の問題が明らかになりました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
蛮社の獄によって幕府は西洋知識を全面禁止し、西洋砲術の導入も中止した。
対外政策批判には警戒しましたが、幕府自身も高島秋帆の西洋砲術を取り入れるなど、海外知識・技術を政策へ利用していました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
幕府は風説書・別段風説書などを通じ、アヘン戦争の戦況や西洋諸国の動きを継続的に把握しようとしていた。
幕府は清の敗北を戦争終了後に突然知ったのではなく、オランダ経由の海外情報を収集していました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1842年の薪水給与令は、欧米諸国との自由貿易と正式な国交を認める開国政策だった。
必要物資を与えて穏便に退去させる政策で、海禁体制を維持しながら不要な軍事衝突を避けるための修正でした。
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Sources
参考資料
- 漂流ものがたり―幕府による漂流船処遇・異国船打払令国立公文書館
1806年の穏便な外国船対応、ロシア船襲撃・フェートン号事件、1825年の異国船打払令成立の経緯を参照。
- 激動幕末―Ⅱ.アヘン戦争の戦慄国立公文書館
モリソン号事件、蛮社の獄、アヘン戦争の衝撃、1842年の薪水給与令への転換を参照。
- 日本の開国と日蘭関係国立国会図書館
別段風説書によるアヘン戦争情報、1842年の打払令緩和、1844年のオランダ国王による開国勧告と幕府の拒否を参照。
- 蘭学者の活躍―崋山・長英の著作国立国会図書館
モリソン号の目的が後に知られた経緯、渡辺崋山・高野長英の海防論と蛮社の獄を参照。
- 幕末の海防戦略―異国船を隔離せよ国立国会図書館 NDLサーチ
ロシア接近から異国船打払令、薪水給与令へ至る幕府海防政策の研究文献として参照。
