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江戸時代1833〜1843年を中心に政治・外交重要度 A

天保の飢饉と天保の改革―社会危機に幕府はなぜ改革で対応しきれなかったのかてんぽうのききんとてんぽうのかいかく しゃかいききにばくふはなぜかいかくでたいおうしきれなかったのか

一言でいうと

1830年代の天保の飢饉は、冷害や凶作を背景に各地で深刻な困窮を生み、米価高騰・一揆・打ちこわしなどを引き起こしました。1837年には大坂で元与力の大塩平八郎が蜂起し、幕府の重要都市で元役人が救民を掲げて反乱を起こしたことは大きな衝撃となります。1841年から老中水野忠邦が進めた天保の改革は、倹約・物価対策・農村人口の維持・幕府領の強化などを通じて秩序を立て直そうとしました。しかし、株仲間解散は流通の仕組みを混乱させ、人返しも人口移動の現実を簡単には逆転できず、上知令は大名・旗本や関係者の強い反発を受けて撤回されました。改革の失敗は、水野個人の性格だけでなく、商品経済の発達と既存の権利関係、幕府財政の弱さ、都市と農村の変化に従来型の統制策が追いつきにくくなっていたことを示します。

天保の飢饉はどのような社会危機だったのか

天保の飢饉は、天保4年(1833)ごろから天保7・8年(1836〜1837)を中心に全国へ広がった大飢饉です。とくに冷害の影響が大きかった東北地方などでは凶作が深刻となり、多数の人びとが飢えに苦しみました。

ただし、被害の程度や原因は地域によって同じではありません。天候不順だけでなく、平時からの貧困、年貢負担、米穀流通、備蓄や救済制度の違いが、飢饉の深刻さを左右しました。

都市では米不足と米価高騰が生活を直撃しました。幕府・諸藩・町や富裕商人による施米、御救小屋、義捐などの救済も行われましたが、困窮を十分に抑えられず、一揆や打ちこわしが各地で起こりました。飢饉は自然災害であると同時に、幕藩体制の救済能力を試す政治・社会危機になりました。

なぜ大坂で米価高騰への不満が強まったのか

大坂は全国の商品と米が集まる大都市でした。そのため、飢饉のなかで米不足と価格高騰が起こると、『天下の台所』と呼ばれる都市でありながら食料を得られない人びとの不満が強く意識されました。

大坂でも富裕商人らによる施しは行われましたが、救済が需要に追いついたわけではありません。米の買い占めや流通をめぐる疑念、町奉行所の対応への批判も重なり、飢饉は行政への不信へつながりました。

この状況は、商品流通が発達した社会では『米があるかないか』だけでなく、誰が米を持ち、どの価格で、どの経路を通して供給するのかが生活を左右することを示しています。天保期の危機は、農業生産と都市市場が深く結びついた江戸後期社会の特徴を表しました。

大塩平八郎はなぜ1837年に蜂起したのか

大塩平八郎おおしおへいはちろうは元大坂東町奉行所与力で、退職後は私塾洗心洞で陽明学を教えていました。飢饉で困窮する人びとを見て、自ら蔵書を売却して救済に充てる一方、町奉行所や豪商にも救済を求めました。

1837年2月19日、大塩は救民と政治の立て直しを掲げて門人らと蜂起しました。豪商などを攻撃し大坂市中で火災が広がりましたが、乱は半日ほどで鎮圧されました。

軍事的には短時間で失敗したものの、幕府の直轄都市で、しかも奉行所の内情を知る元与力が反乱を起こしたことは重大でした。大塩の乱そのものが幕府を倒す運動だったわけではありませんが、飢饉への対応と政治秩序への不満が、幕府内部の経歴を持つ人物の蜂起にまでつながった点で、体制の動揺を象徴しました。

大塩平八郎は元大坂町奉行所与力です。『農民一揆の指導者』とだけ覚えると、幕府に与えた衝撃の意味が見えにくくなります。

なぜ水野忠邦は天保の改革を始めたのか

天保の飢饉、大塩平八郎の乱、一揆・打ちこわしの増加は、幕府に社会秩序と財政を立て直す必要を強く意識させました。さらに19世紀前半には外国船への対応も課題となり、幕府は国内統治と海防の双方で負担を抱えていました。

老中水野忠邦みずのただくには1841年から天保の改革を本格化させました。倹約と風俗統制、物価引き下げ、農村人口の確保、幕府の支配基盤強化など、多方面から社会を引き締めようとします。

享保・寛政・天保の改革は『三大改革』としてまとめて学びますが、同じ政策の繰り返しではありません。天保期には、18世紀よりさらに発達した商品経済と巨大都市、複雑な流通網を統制しながら幕府財政と農村を立て直すという、より難しい条件がありました。

株仲間を解散すれば物価は下がると考えたのはなぜか

幕府は1841年、株仲間の解散を命じました。水野政権は、特定の商人が営業や流通を独占し、中間で利益を得ることが物価高の一因になっていると考え、仲間を解散させて取引を自由にすれば商品が安くなると期待しました。

しかし株仲間は、独占的な利益を守るだけの組織ではありませんでした。商品の仕入れ・販売、取引上の信用、代金回収、業者間の調整など、流通秩序を支える機能も持っていました。

そのため、制度を解体しても物価が思惑どおりに下がるとは限らず、むしろ従来の取引関係が混乱する面がありました。商品経済を行政命令だけで単純に組み替えることの難しさが表れた政策です。

人返しの法はなぜ都市人口を農村へ戻そうとしたのか

江戸後期には、農村から江戸などの都市へ働きに出たり移住したりする人が増えていました。幕府にとって農村人口の減少は、耕作を担う人びとと年貢収入の基盤が弱まる問題として捉えられました。

1843年の人返しの法ひとがえしのほうは、江戸へ流入した人びとを農村へ戻し、新たな流入も抑えようとする政策でした。都市の人口と治安を統制すると同時に、農村を再建しようとする狙いがありました。

しかし、人びとが都市へ移動した背景には仕事・所得・家族事情など具体的な生活上の理由がありました。命令によって人口移動を逆転させようとしても、商品経済と労働移動が広がった社会の現実を簡単には変えられませんでした。

上知令はなぜ改革を失速させたのか

上知令あげちれいは1843年、江戸・大坂周辺の大名領・旗本領などを幕府直轄領へ組み替えようとした政策です。幕府は政治・軍事・経済上重要な二大都市の周辺を直接支配し、領地を整理して支配力を高めようとしました。

ところが、対象となる大名・旗本にとっては領地と収入の問題であり、領民や現地の利害関係にも大きく影響します。幕府内部を含む強い反対が起こり、将軍徳川家慶は最終的に上知令を撤回しました。

上知令の挫折は、幕府が全国の大名・旗本を統制する最高権力であっても、既存の領有権や利害を一方的に組み替えられるほど自由ではなかったことを示します。水野忠邦は失脚し、天保の改革は急速に失速しました。

天保の改革が対応しきれなかった問題は何だったのか

天保の改革を『水野忠邦が厳しい政策を行ったので失敗した』だけで説明すると、江戸後期社会の変化が見えません。幕府が直面していたのは、飢饉への救済、財政難、農村人口の流出、物価と流通、都市統制、既存の領地権、さらに外国船への備えが絡み合う複合的な危機でした。

株仲間解散では市場を行政命令で再編する難しさ、人返しでは人口移動を旧来の村へ戻す難しさ、上知令では大名・旗本を含む既存の権利関係を変更する難しさが表れました。どれも、幕府の命令だけで社会の構造を元に戻せないことを示しています。

1840〜1842年には中国でアヘン戦争も起こっていました。国内危機と対外危機が重なるなか、天保の改革の挫折は幕府の政策遂行力に打撃を与えます。続く幕末政治では、従来より多くの大名や有力者の意見を取り込みながら対外問題に対応する必要が強まっていきます。

Review

入試で押さえるポイント

  • 天保の飢饉は1833年ごろから1836〜1837年を中心に深刻化し、とくに東北地方などで冷害・凶作による大きな被害が出ました。
  • 1837年の大塩平八郎の乱は大坂で発生しました。大塩は元大坂東町奉行所与力で、飢饉下の救民と政治批判を掲げて蜂起しました。
  • 天保の改革は老中水野忠邦が1841年から進めた幕政改革で、倹約・物価対策・農村再建・幕府支配強化などを目指しました。
  • 1841年の株仲間解散は物価引き下げを狙いましたが、株仲間が担っていた流通・信用の機能まで崩し、十分な効果を上げませんでした。
  • 1843年の人返しの法は、江戸への人口流入を抑え農村へ人を戻すことで、農業・年貢基盤と都市秩序を立て直そうとした政策です。
  • 1843年の上知令は江戸・大坂周辺の大名領・旗本領などを幕府直轄領へ組み替えようとしましたが、強い反対を受けて撤回されました。
  • 天保の改革の失敗は、商品経済・人口移動・既存の領地権など、江戸後期社会の構造を行政命令だけでは容易に組み替えられなかったことと結びつきます。
  • 享保・寛政・天保を『三大改革』として覚えるだけでなく、天保期には飢饉・都市社会・商品経済・対外危機が同時に重なっていた点を押さえます。

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  1. 問1

    天保の飢饉の深刻さは冷害・凶作だけで決まったのではなく、貧困、年貢、米穀流通、備蓄・救済制度など地域社会の条件にも左右された。

  2. 問2

    大塩平八郎は農民出身の百姓一揆指導者で、幕府行政とは無関係な人物だった。

  3. 問3

    株仲間を解散すれば流通の独占がなくなるため、物価は幕府の期待どおり直ちに下がり、取引の混乱も起こらなかった。

  4. 問4

    人返しの法は、農村の耕作者・年貢基盤を維持すると同時に、江戸への人口流入と都市秩序にも対応しようとした政策だった。

  5. 問5

    上知令が強い反対を受けて撤回されたことは、幕府でも既存の大名・旗本領や利害関係を自由に組み替えられなかったことを示す。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 天保の飢饉が続く
  2. 大塩平八郎の乱が起こる
  3. 水野忠邦による天保の改革が始まる
  4. 幕府が株仲間の解散を命じる
  5. 人返しの法が出される
  6. 上知令が撤回され天保の改革が失速する

Sources

参考資料

  1. 天下大変―飢饉―天保の飢饉国立公文書館

    天保の飢饉の時期、冷害・凶作、東北地方の被害、大塩平八郎の乱や一揆・打ちこわしとの関係を参照。

  2. 江戸時代の指名手配書大阪府公文書館

    天保の飢饉下の大坂、大塩平八郎の経歴、救済要求と1837年2月19日の蜂起について参照。

  3. 新修大阪市史 第4巻大阪市立図書館

    天保飢饉と大坂、大塩の乱、株仲間政策を含む天保の改革の研究構成を参照。

  4. 水野忠邦天保改革老中日記 第9巻国立国会図書館 NDLサーチ

    水野忠邦の天保改革期の政治を確認する基礎史料の書誌情報を参照。

  5. 株仲間の研究国立国会図書館 NDLサーチ

    株仲間の機能、天保改革による解散とその後の再興を扱う研究文献を参照。