版籍奉還と廃藩置県―新政府はなぜ藩を残さず中央集権化を進めたのか
一言でいうと
戊辰戦争が終結した1869年、新政府には、戦争で旧幕府勢力を破るだけでなく、全国の土地・人民・軍事・財政を中央政府の方針で統治できる仕組みをつくる課題が残っていました。そこで薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が土地と人民を朝廷へ返す版籍奉還を願い出ると、政府は各藩にもこれを進め、旧藩主を知藩事に任命しました。しかし知藩事は旧藩の統治を引き続き担ったため、藩という政治単位そのものは残りました。1871年、新政府は薩摩・長州・土佐から集めた御親兵を軍事的な支えとして廃藩置県を実施し、藩を廃して中央政府が任命する地方官を置きます。版籍奉還から廃藩置県への二段階の改革によって、旧大名の世襲的支配を地方行政から切り離し、全国を中央政府のもとへ統合する基盤がつくられました。
戊辰戦争に勝っても、なぜ全国を直接統治できなかったのか
1869年5月に箱館戦争が終わり、新政府に対する大規模な軍事抵抗は終結しました。しかし、これで中央政府が全国の行政を直接動かせるようになったわけではありません。各地にはなお藩があり、旧大名を中心とする領国ごとの財政・軍事・行政組織が残っていました。
新政府は府や県として直接支配する地域を持つ一方、多くの地域では藩が住民から税を集め、家臣団を抱え、行政を行っていました。つまり、幕府が消滅しても全国の統治機構が一つの政府へ自動的に統合されたわけではなかったのです。
近代国家として外交・軍事・財政を一元的に運営するには、中央政府の命令が地方へ直接及ぶ制度をつくる必要がありました。その最初の大きな段階が版籍奉還です。
版籍奉還で何が変わり、何が残ったのか
1869年初め、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主は、藩が支配してきた土地と人民を朝廷へ返す版籍奉還を願い出ました。他の藩主もこれにならい、政府は同年6月に各藩の申出を認めるとともに、未提出の藩にも版籍奉還を命じました。
版籍奉還によって、旧藩主は土地と人民を私的・世襲的に支配する大名ではなく、中央政府から任命される知藩事と位置づけ直されました。知藩事は非世襲の地方行政官とされ、政府直轄地と同様の政策を進めることを求められました。
ただし、旧藩主の多くがそのまま旧藩の知藩事となり、旧藩の組織や地域的なまとまりも残りました。したがって、版籍奉還を『藩が廃止された出来事』と覚えるのは誤りです。藩主と土地・人民の関係を中央政府の任命制へ組み替えたものの、藩という行政単位自体はまだ存続していました。
版籍奉還では旧藩主が知藩事となり、藩は残りました。藩そのものを廃止したのは1871年の廃藩置県です。
なぜ版籍奉還だけでは中央集権化が不十分だったのか
知藩事が政府の地方官と位置づけられても、実際の地域行政は旧藩の人的組織や財政基盤に大きく依存していました。政府の命令と各藩の事情が並存する状態では、全国で統一した軍制・租税・行政制度を進めるには限界がありました。
また、新政府は成立当初から独自の大規模な全国軍を持っていたわけではなく、薩摩・長州・土佐など有力藩の軍事力に依存する部分が残っていました。藩を廃止するには、もし反対が起きても政府自身が秩序を維持できる軍事的基盤が必要でした。
1871年、新政府は薩摩・長州・土佐の3藩から兵を集めて御親兵を編成し、中央政府が直接指揮できる軍事力を確保します。これが、より徹底した地方制度改革を実施する条件の一つとなりました。
廃藩置県は地方支配をどう変えたのか
1871年7月、新政府は廃藩置県を実施しました。廃藩置県の詔は、版籍奉還後も政治の命令系統が一つにまとまりきらない問題を挙げ、藩を廃して県とする方針を示しています。
これによって知藩事はすべて職を解かれ、東京に居住することを命じられました。藩に代わって府県が置かれ、中央政府が任命する府知事・県知事、のちの県令などが地方行政を担う仕組みへ移ります。旧大名の家が地域を世襲的に統治する構造は、制度上ここで切り離されました。
廃藩直後は旧藩をほぼそのまま県へ置き換えたため、全国は3府302県となり、飛び地も多く残りました。その後、政府は急速に統合を進め、同年11月には3府72県へ再編しました。廃藩置県は一度で現在の都道府県制度を完成させた改革ではなく、中央政府の地方支配をつくる再編の出発点でした。
版籍奉還と廃藩置県は近代国家形成に何をもたらしたのか
版籍奉還と廃藩置県によって、新政府は旧大名の領国支配を解体し、地方行政を中央政府の任命制へ組み込むことができました。これにより、中央政府が全国へ共通の制度を広げるための政治的な土台が整いました。
ただし、中央集権国家がこの二つの改革だけで完成したわけではありません。政府が人々を直接把握する戸籍、全国共通の徴兵・教育・租税制度、旧武士の家禄処理など、旧藩体制から引き継いだ制度や身分をさらに組み替える必要がありました。
その意味で廃藩置県は、明治維新の『完成』というより、新政府が藩を介さず人々と地域を統治する国家へ移る大きな転換点です。次の身分再編や戸籍制度、徴兵令・地租改正などは、この中央集権化を社会の側へ広げる改革として理解できます。
Review
入試で押さえるポイント
- 1869年の版籍奉還では藩主が土地・人民を朝廷へ返し、旧藩主の多くが知藩事に任命された
- 版籍奉還では藩そのものは存続しており、藩の廃止とは区別する
- 1871年に薩摩・長州・土佐から御親兵を集め、中央政府の軍事力を確保したことが廃藩置県の背景の一つとなった
- 1871年7月の廃藩置県で藩を廃止し、知藩事に代えて中央政府が任命する地方官を置く体制へ移った
- 廃藩直後は3府302県となり、同年11月には3府72県へ統合された
- 版籍奉還・廃藩置県は中央集権化の重要な段階だが、近代国家制度全体がここで完成したわけではない
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- 問1
1869年の版籍奉還によって、藩そのものが廃止され、旧藩主は地方統治から直ちに完全に離れた。
版籍奉還後も藩は存続し、旧藩主の多くが知藩事として旧藩の統治を続けました。藩の廃止は1871年の廃藩置県です。
本文の該当箇所を確認する - 問2
版籍奉還では旧藩主が土地・人民を世襲的に支配する大名から、中央政府に任命される知藩事へ位置づけ直された。
旧藩主は知藩事という政府任命の地方行政官とされ、領主と土地・人民の関係が組み替えられました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
廃藩置県に先立つ御親兵の編成は、中央政府が直接指揮できる軍事力を確保する意味を持った。
藩を廃止するには反対が起きた場合にも政府が秩序を維持できる軍事基盤が必要で、御親兵はその条件の一つでした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1871年の廃藩置県によって、現在とほぼ同じ都道府県区分が一度で完成した。
廃藩直後は3府302県で、その後も統廃合が続きました。廃藩置県は現在の都道府県制度完成ではなく、中央政府による地方支配再編の出発点です。
本文の該当箇所を確認する - 問5
廃藩置県後も戸籍・徴兵・教育・租税など全国共通制度の整備が必要であり、中央集権国家形成はさらに続いた。
地方行政の統合は大きく進みましたが、人々を国家が直接把握し統治する制度はその後も整備されていきました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 近代国家 日本の登場―3.版籍奉還と廃藩置県国立公文書館
版籍奉還後の知藩事任命、御親兵を背景とする廃藩置県、府県再編の流れを確認。
- 明治2年(1869)6月|薩長土肥の4藩主が版籍奉還を願い出る国立公文書館
1869年正月の上表、同年6月の政府による許可と知藩事任命を確認。
- 明治4年(1871)7月|廃藩置県が断行される国立公文書館
知藩事の罷免、東京居住命令、3府302県への移行を確認。
- 詔シテ藩ヲ廃シ県ヲ置キ政令多岐ノ憂ナカラシムアジア歴史資料センター
1871年7月14日の廃藩置県の詔と、政令を一元化する趣旨を確認。
- 変貌―9.全国を3府73県に国立公文書館
廃藩直後の3府302県と、1871年中に3府72県へ統廃合されたことを確認。
