五箇条の御誓文と政体書―新政府はどのような国家をつくろうとしたのか
一言でいうと
鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が続く1868年、新政府は旧幕府を倒す軍事勢力であるだけでなく、全国を統治する政府としての理念と仕組みを示す必要がありました。3月の五箇条の御誓文では「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」など、新政府の基本方針が天皇の誓いという形で示されます。しかし翌日の五榜の掲示にはキリスト教禁制など旧来の統制も残り、政治・社会が一度に近代化したわけではありません。さらに閏4月の政体書では、五箇条の御誓文を政体の基本に置き、太政官を中心とする政府機構を定め、立法・行政・司法を分ける考え方も取り入れました。新政府は公論や能力登用など新しい理念と、西洋制度を参照した政府組織を掲げながら、天皇を中心に権力を集中させる国家を段階的につくろうとしていたのです。
新政府はなぜ戦争中に政治方針を示す必要があったのか
1868年初め、新政府は鳥羽・伏見の戦いに勝利し、江戸へ東征軍を進めていました。しかし、この時点では戊辰戦争は続いており、新政府の支配が全国で確立していたわけではありませんでした。
王政復古で幕府を廃止しただけでは、その後にどのような政治を行うのかは決まりません。朝廷、公家、薩摩・長州などの諸藩出身者が参加する新政府は、諸藩や人々に対して自らが目指す政治の原則を示し、同時に実際に行政を行える政府機構を整える必要がありました。
そのため1868年春には、政治理念を示す五箇条の御誓文、民衆へ統制方針を示す五榜の掲示、さらに政府組織を定める政体書が相次いで出されます。三つを並べて見ると、新政府の理念と現実の統治の両面が分かります。
五箇条の御誓文は何を新政府の基本方針としたのか
1868年3月、明治天皇は京都御所で神々に誓う形式によって五箇条の御誓文を示しました。国立公文書館は、これを明治新政府の基本方針を示したものと位置づけています。
第一条の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」は、政治を広く議論によって決めることを掲げました。ほかにも上下の身分を越えて心を合わせること、旧来の悪習を改めること、世界から知識を求めることなどが示され、新政府が旧幕府の制度をそのまま維持するのではないことを明確にしました。
ただし、五箇条の御誓文を現代的な民主主義憲法や国民の権利宣言と同じものとして理解するのは適切ではありません。誓文は天皇が公卿・諸侯らとともに神々へ誓う形式をとった政治方針であり、誰がどのように議員を選ぶか、国民がどのような権利を持つかまで定めた憲法ではありませんでした。
五箇条の御誓文は新政府の基本方針を示した重要文書ですが、近代的な議会制度や国民の権利を具体的に定めた憲法ではありません。
五榜の掲示はなぜ御誓文とは違う印象を与えるのか
五箇条の御誓文の翌日、新政府は民衆に向けて五榜の掲示を出しました。第一札では五倫などの道徳秩序を重んじることを求め、第三札ではキリスト教を禁じ、第五札では人々が勝手に本国を離れることを禁じています。
一方、第四札は国際法や条約を守り、外国人へ乱暴を働くことを禁じました。攘夷の実行から開国後の国際関係へ転換した状況を、新政府も引き継いでいたことが分かります。
このように五榜の掲示には、旧幕府期から続く社会統制と、開国後の新しい対外秩序への対応が同居していました。御誓文で新しい理念が掲げられたからといって、旧来の禁止や社会秩序が翌日から全面的に撤廃されたわけではありません。
政体書は新政府の仕組みをどのように定めたのか
新政府は閏4月に政体書を発し、五箇条の御誓文を政体の基本として政府機構を組み直しました。ここでは政府全体を太政官とし、その内部に議政官・行政官などの官を置いて政治事務を分担させました。
政体書には「太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行政司法ノ三権トス」という考え方が示され、西洋の三権分立思想が取り入れられました。官吏を一定期間ごとに改選する考え方なども盛り込まれており、旧幕府の役職を単純に看板だけ掛け替えた制度ではありませんでした。
しかし、これは現代の三権分立と同じ仕組みでもありません。国立公文書館や国立国会図書館の解説が示すように、政体書は同時に「一切の権力は太政官に属する」という強い中央集権的な構造を持っていました。新政府は西洋の政治思想を参照しつつ、天皇を中心とする政府へ権力を集める仕組みをつくろうとしていたのです。
1868年の制度づくりをどう捉えればよいのか
五箇条の御誓文と政体書は、明治政府が最初から完成した近代国家の制度を持っていたことを示すものではありません。新政府の官制は1868年だけでも何度も改められ、その後も太政官制は改革を重ねます。
また新政府が理念と組織を整えていた同じ時期にも、戊辰戦争は続いていました。政府の命令が全国へ一様に届く状態ではなく、諸藩はなお土地・人民・軍事力を持つ政治単位として存在していました。
したがって明治維新は、1868年の一つの文書によって突然完成した出来事ではありません。政治理念の提示、政府機構の形成、戊辰戦争による旧勢力の制圧、そしてのちの版籍奉還・廃藩置県などを通じて、中央集権国家が段階的につくられていく過程として理解することが重要です。
Review
入試で押さえるポイント
- 1868年3月の五箇条の御誓文は、明治天皇が神々に誓う形式で新政府の基本方針を示した
- 五箇条の御誓文は「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」を掲げたが、近代的な憲法や国民の権利宣言そのものではない
- 五榜の掲示ではキリスト教禁制など旧来の統制が残る一方、条約遵守と外国人への暴行禁止も示された
- 1868年閏4月の政体書は五箇条の御誓文を基本に太政官中心の政府機構を定め、立法・行政・司法の三権分立思想を取り入れた
- 政体書は三権分立を掲げながら一切の権力を太政官に属させており、現代の三権分立制度と同一ではない
- 1868年の新政府形成は戊辰戦争中に進められたもので、明治維新を単一年で完成した近代国家の成立として扱わない
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五箇条の御誓文は、国民の権利や議員選出方法まで具体的に定めた近代憲法だった。
五箇条の御誓文は新政府の基本方針を示した文書ですが、国民の権利や議会制度を具体的に規定する憲法ではありませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問2
五榜の掲示にはキリスト教禁制など旧来の統制と、条約遵守・外国人への暴行禁止という開国後の対外秩序への対応が併存していた。
五榜の掲示は新政府が旧来の社会統制を一部残しながら、条約を守る対外方針も示していたことを表します。
本文の該当箇所を確認する - 問3
政体書は立法・行政・司法の三権分立思想を取り入れたため、現代と同じ独立した三権が成立した。
政体書は三権分立思想を取り入れましたが、一切の権力を太政官に属させる中央集権的な構造も持っており、現代の三権分立と同一ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
五箇条の御誓文や政体書による制度づくりは、戊辰戦争が続く中で進められた。
1868年春の新政府はまだ全国支配を確立しておらず、戦争を続けながら政治理念と行政機構を整えていました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1868年に五箇条の御誓文と政体書が出されたことで、中央集権的な近代国家の形成はその年のうちに完成した。
諸藩はなお土地・人民・軍事力を持ち、政府制度も改編が続きました。中央集権化は版籍奉還や廃藩置県などを通じて段階的に進みます。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 明治元年(1868)3月|五箇条の御誓文が発せられる国立公文書館
五箇条の御誓文が新政府の基本方針として神前で誓われたことを確認。
- 五榜の掲示 第三札国立国会図書館サーチ
五榜の掲示がキリスト教禁制を継続していたことを確認。
- 五榜の掲示 第四札国立国会図書館サーチ
条約履行と外国人への暴行禁止が掲げられていたことを確認。
- 五榜の掲示 第五札国立国会図書館サーチ
士民の無断離郷を禁じる内容を確認。
- 太政官制国立国会図書館 史料にみる日本の近代
政体書に基づく1868年の官制改革と太政官制成立を確認。
- 太政官アジア歴史資料センター
政体書で一切の権力が太政官に属すると定められた中央政府構造を確認。
- 関西館企画展示資料解説国立国会図書館
五箇条の御誓文を基本に、政体書が三権分立や官吏公選の考え方を取り入れたことを確認。
