鳥羽・伏見の戦いと江戸城開城―旧幕府軍はなぜ敗れ、江戸総攻撃はなぜ回避されたのか
一言でいうと
1868年1月、王政復古後も大きな兵力を持っていた旧幕府側と、薩摩・長州などを中心とする新政府側が京都郊外で衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。旧幕府軍は兵力で優位でしたが、新政府軍との戦闘で後退し、朝廷から旧幕府側を討つ方針が示されると、諸藩の態度も新政府側へ傾いていきます。徳川慶喜は大坂から江戸へ戻り、恭順の姿勢を示しました。新政府軍は東征して江戸へ迫りましたが、旧幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛らの交渉によって江戸城への総攻撃は回避され、4月に江戸城が引き渡されます。鳥羽・伏見の敗北は軍事的な敗戦だけでなく、徳川政権が全国の諸藩を従える政治的立場を失う転換でした。一方、江戸城開城で戊辰戦争そのものが終わったわけではなく、戦争は関東・東北から箱館へ続きます。
王政復古のあと、なぜ旧幕府側と新政府側は戦争になったのか
1867年の大政奉還と王政復古によって幕府という制度は廃止されましたが、徳川家の領地・軍事力・幕臣団まで消えたわけではありませんでした。小御所会議では徳川慶喜の官位や領地をどう扱うかが争点となり、旧幕府側には薩摩藩などが徳川家を政治的に排除しようとしているという反発が強まりました。
慶喜は京都から大坂へ移り、旧幕府・会津・桑名などの兵も大坂周辺に集まりました。1868年1月、旧幕府側の軍勢が京都方面へ進むと、鳥羽・伏見で薩摩・長州など新政府側の軍勢と衝突します。これが鳥羽・伏見の戦いで、ここから戊辰戦争が始まりました。
したがって鳥羽・伏見の戦いは、単に旧幕府が幕府復活を目指して起こした戦争とだけ捉えると不十分です。大政奉還後も残っていた徳川家の政治的・軍事的な位置を、新政府の中でどう処理するかという対立が武力衝突へ変わった事件でした。
旧幕府軍はなぜ兵力があっても戦局を立て直せなかったのか
旧幕府側は多数の兵を動員していましたが、部隊ごとに装備・訓練・指揮系統が異なり、一体の軍として戦うことには難しさがありました。これに対して新政府側では薩摩・長州の洋式装備を持つ部隊などが戦闘を進め、旧幕府軍は鳥羽・伏見から後退しました。
ただし、勝敗を武器の新旧だけで説明することはできません。戦闘の途中で新政府軍側に朝廷の軍であることを示す錦旗が掲げられ、朝廷も旧幕府側を討つ立場を明確にしました。これによって戦いは薩摩・長州と旧幕府の私的な争いではなく、朝廷に従う新政府軍とその敵という政治的な意味を持つようになります。
この変化は周辺諸藩の判断にも大きく影響しました。旧幕府側について朝廷に敵対する危険を負うより、新政府側へ従う方を選ぶ藩が増え、旧幕府軍は戦場だけでなく政治的にも孤立していきました。
鳥羽・伏見の勝敗は「新政府軍の武器が新しかったから」だけでは説明できません。戦場での後退に加え、新政府側が朝廷の軍として正当性を確保し、諸藩の態度を変えたことが重要です。
慶喜が江戸へ戻ったことは何を変えたのか
鳥羽・伏見で旧幕府軍が後退する中、徳川慶喜は会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らとともに大坂を離れ、海路で江戸へ戻りました。最高指導者である慶喜が大坂城を離れたことで、旧幕府側が畿内で戦争を続けることは一層難しくなりました。
江戸へ戻った慶喜は、新政府に対して恭順する方向へ進みます。2月には江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎し、旧幕府側でも新政府軍との全面戦争を避けようとする動きが強まりました。
新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督として軍を東へ進めました。ここで争点は、徳川家を軍事的に完全壊滅させるかどうかだけでなく、巨大都市江戸と多数の住民、旧幕臣をどのように新しい政治秩序へ移すかへ移っていきます。
江戸総攻撃はどのように回避されたのか
旧幕府側では勝海舟が軍事取扱として新政府軍との交渉を担いました。勝の使者となった山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会い、その後、江戸で勝と西郷らの会談が行われます。
交渉では徳川慶喜の処遇、江戸城の引渡し、武器・軍艦の扱いなどが問題となりました。双方の条件には調整が必要でしたが、慶喜が恭順の姿勢を示していたことや、江戸で大規模な市街戦を起こすことの被害を避ける必要があったことから、総攻撃を行わずに城を引き渡す方向で合意が進みました。
このため江戸城開城は、勝と西郷の個人的な友情だけで実現したものではありません。徳川家の恭順、新政府側の政治目的、江戸を戦場にする軍事・社会的コスト、交渉を担った複数の人物の働きが重なった結果として理解する必要があります。
江戸城開城によって何が終わったのか
1868年4月、江戸城は新政府へ引き渡されました。徳川慶喜も処分を受け、徳川宗家は新たな領地へ移される方向となります。江戸城という徳川政権の中心が新政府の管理下に入ったことで、江戸幕府の政治的・軍事的な中枢は実質的に新政府へ引き継がれました。
本サイトでは1603年の徳川家康の将軍就任から、この江戸城開城までを江戸時代の学習範囲としています。ただし、1868年4月に日本全体が新政府へ完全に統合されたわけではありません。
旧幕臣の一部や東北諸藩などはなお新政府に抵抗し、上野・北越・東北で戦闘が続きました。さらに榎本武揚らは旧幕府艦隊を率いて蝦夷地へ移り、戦争は1869年の箱館まで続きます。江戸城開城は徳川政権の中心の移行を示す節目ですが、戊辰戦争の終結とは区別して覚えることが重要です。
Review
入試で押さえるポイント
- 1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まり、新政府軍が旧幕府軍を破った
- 鳥羽・伏見では軍事的な敗北だけでなく、新政府側が朝廷の軍として正当性を確保し、諸藩の態度が旧幕府側から離れたことが重要
- 徳川慶喜は鳥羽・伏見の敗戦後に大坂から江戸へ戻り、のち上野寛永寺で謹慎して恭順した
- 勝海舟・山岡鉄舟と西郷隆盛らの交渉を経て江戸総攻撃が回避され、1868年4月に江戸城が新政府へ引き渡された
- 江戸城開城は徳川政権の中枢が新政府へ移る節目だが、戊辰戦争の終結ではない
- 戊辰戦争は江戸城開城後も関東・東北・蝦夷地へ続き、1869年の箱館戦争終結まで続いた
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- 問1
鳥羽・伏見の戦いは、大政奉還と王政復古の後にも徳川家の領地・軍事力が残り、新政府内での徳川家の位置をめぐる対立が続いた中で起きた。
幕府という制度が廃止されても徳川家の実力は残っており、その政治的・軍事的な位置をどう処理するかという対立が武力衝突へ変わりました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
鳥羽・伏見で旧幕府軍が敗れた理由は、新政府軍の武器が新しかったことだけで説明できる。
装備や指揮の差だけでなく、新政府側が朝廷の軍として正当性を確保し、周辺諸藩が旧幕府側から離れた政治的変化も重要でした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
鳥羽・伏見の敗戦後、徳川慶喜は大坂から江戸へ戻り、のちに寛永寺で謹慎して新政府へ恭順する方向へ進んだ。
慶喜の江戸帰還と恭順は、旧幕府側が畿内で戦争を継続することを難しくし、江戸での全面戦争回避へつながる条件の一つになりました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
江戸総攻撃が回避されたのは、勝海舟と西郷隆盛の個人的な友情だけが理由だった。
慶喜の恭順、新政府側の政治目的、巨大都市江戸を戦場にする被害、山岡鉄舟らを含む複数の交渉などが重なった結果です。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1868年4月の江戸城開城によって戊辰戦争は終結し、その後は旧幕府勢力との戦闘は起こらなかった。
江戸城開城後も関東・東北・蝦夷地で戦闘が続き、戊辰戦争は1869年の箱館戦争終結まで続きました。
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Sources
参考資料
- 明治元年(1868)1月|鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争が始まる)国立公文書館
鳥羽・伏見の戦いを戊辰戦争の開始とし、江戸城開城から箱館まで続く戦争の流れを確認。
- 近代国家 日本の登場―戊辰戦争国立公文書館
錦旗、新政府軍の東征、奥羽越列藩同盟、会津・箱館までの戊辰戦争全体の位置づけを確認。
- 勝海舟国立国会図書館 近代日本人の肖像
戊辰戦争で西郷隆盛との交渉を担い、江戸城開城に至った勝海舟の役割を確認。
- 勝海舟―慶応4年1月11日の日記より国立国会図書館 憲政資料室
鳥羽・伏見敗戦後に徳川慶喜が松平容保・松平定敬らと江戸へ帰還したことを確認。
- 旧幕臣と福沢諭吉―幕末の三舟国立国会図書館
山岡鉄舟が勝海舟の使者として西郷隆盛と会い、勝・西郷会談を実現した経緯を確認。
