大政奉還と王政復古―慶喜はなぜ政権を返上し、それでも徳川家は政治から排除されたのか
一言でいうと
1867年、土佐藩は朝廷へ政権を返し、そのもとで有力諸侯が議論する公議政体をつくる大政奉還を徳川慶喜に勧めました。慶喜はこれを受け入れ、10月に政権返上を朝廷へ申し出ます。しかし大政奉還は、慶喜がその場で政治から引退したことや、徳川家の領地・軍事力・行政組織が消滅したことを意味しません。幕府側には、政権返上後の新体制でも徳川家が大きな役割を担う構想がありました。そのため薩摩藩や岩倉具視ら、徳川中心の政治体制を終わらせようとする側にとって、大政奉還だけでは政局の決着になりませんでした。12月の王政復古の大号令では、幕府と摂政・関白などの旧制度を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置く新政府が構想されます。慶喜は新政府の発足時点で中枢から外され、同日の小御所会議では辞官納地が争点となりました。こうして「政権を返したのに徳川家はなお強い」という問題を、王政復古側が徳川家の政治的・経済的基盤を縮小する方向で処理しようとしたため、対立は終わらず、翌1868年の鳥羽・伏見の戦いへつながっていきました。
土佐藩はなぜ大政奉還を提案したのか
第二次長州征討の失敗後、幕府だけで全国政治を主導する体制は行き詰まりつつありました。一方で薩摩・長州と幕府が全面的に戦えば、国内が大規模な内戦になる危険も高まっていました。
こうした中、土佐藩士の後藤象二郎らは前藩主山内豊信に対し、将軍が政権を朝廷へ返し、その後は朝廷のもとで諸侯が議論して政治を行う公議政体を構想しました。土佐藩は1867年10月、この考えに基づく建白書を幕府へ提出します。
坂本龍馬もこの時期、議会や官制・外交・軍制などを含む新しい政体構想を後藤と相談していました。国立国会図書館は、いわゆる「船中八策」や後の「新政府綱領八策」をこうした公議政体構想の一つとして紹介しています。ただし、大政奉還を龍馬一人の発案だけで説明するのではなく、土佐藩の政治構想と幕末に広がった公議論の中で捉える必要があります。
慶喜はなぜ自ら政権を返上したのか
徳川慶喜は土佐藩の建白を受け、1867年10月14日に大政奉還を上奏しました。翌日、朝廷はこれを受理します。260年以上続いた将軍による政権の形を、自ら朝廷へ返すという大きな転換でした。
しかし、慶喜の行動を「幕府を維持できないと悟って全面降伏した」とだけ考えるのは適切ではありません。大政奉還によって、薩摩・長州側が掲げる「幕府を倒して政権を朝廷へ返す」という政治目標を先取りし、武力倒幕の大義を弱めることができました。
さらに徳川家は全国最大級の領地、幕臣団、軍事力、外交・行政の経験を保持していました。慶喜は政権返上後に諸侯会議的な新政体がつくられれば、徳川家がその中で大きな政治的役割を担えると考えられる立場にありました。国立国会図書館も、慶喜が大政奉還によって徳川家の復権を図ったと説明しています。
大政奉還で何が終わり、何がまだ残っていたのか
大政奉還で朝廷へ返されたのは、将軍が担ってきた全国統治の政権です。しかし10月の時点で、将軍職そのものが即日廃止されたわけではなく、幕府の役所・軍隊・領地が一斉に消滅したわけでもありませんでした。
そのため大政奉還後にも、「新しい政治制度をどうつくるか」という問題が残りました。幕府開成所教授の西周は11月、立法・行政・司法を分け、諸侯・藩士による議政院を設けながら、行政権を徳川家側が担う政体案を構想しています。
これは西周案がそのまま慶喜の確定方針だったという意味ではありません。しかし、大政奉還の直後にも徳川家を新政治体制の中心に置く案が現実の選択肢として考えられていたことを示します。したがって「大政奉還=江戸幕府と徳川家の政治力がその日に完全消滅」と覚えるのは誤りです。
大政奉還は政権を朝廷へ返した出来事です。幕府の廃止と新政府三職の設置を明確にした王政復古の大号令とは区別して覚えます。
薩摩などはなぜ大政奉還だけでは不十分と考えたのか
1867年には、薩摩藩と土佐藩も一時、大政奉還と公議政体への平和的な移行をめぐって協力しました。しかし両藩の思惑は同じではありませんでした。国立歴史民俗博物館が所蔵する薩土盟約書の解説では、土佐側が平和的な公議政体への移行を目指したのに対し、薩摩側には幕府が要求を拒否すれば武力倒幕へ進む構想があったことが示されています。
ところが慶喜が大政奉還を受け入れたため、「政権を朝廷へ返せ」という要求だけでは徳川家を新しい政治の中心から外せなくなりました。徳川家の経済力・軍事力はなお大きく、公議政体がそのまま成立すれば慶喜が中心人物となる可能性もありました。
そこで薩摩藩や岩倉具視らの側では、幕府という制度そのものを廃止し、新政府の人事と制度を一挙に組み替える必要性が強まります。大政奉還と王政復古の間の約2か月は、単なる移行期間ではなく、新政権の中心を誰が担うかをめぐる政治闘争の期間でした。
王政復古の大号令は大政奉還と何が違ったのか
1867年12月9日、朝廷で王政復古の大号令が発せられました。国立公文書館所蔵の大号令では、「神武創業ノ始」に立ち返ることを掲げ、幕府だけでなく摂政・関白など従来の朝廷制度も廃止することが示されています。
そのうえで新たに総裁・議定・参与の三職を置き、天皇を中心とする新政府をつくる方針が定められました。つまり王政復古は、徳川幕府を朝廷の下にそのまま残す改革ではなく、幕府と旧来の朝廷官制の双方をいったん廃し、新しい政府組織をつくる政変でした。
発足時の三職に慶喜は含まれませんでした。この点で王政復古は、大政奉還後にも徳川家が新政権の中心に残る可能性を大きく狭めました。大政奉還が政権の所在を変える提案だったのに対し、王政復古は新政府の制度と人事を具体的に組み替えたところに大きな違いがあります。
小御所会議でなぜ慶喜の辞官納地が争点になったのか
王政復古の大号令が出された同じ12月9日夜、京都御所の小御所で新政府の最初の重要会議が開かれました。ここでは、徳川慶喜に内大臣の官職を辞めさせ、徳川家の領地の一部を朝廷へ返させる辞官納地が大きな争点となります。
山内容堂や松平慶永ら公議政体を重視する側は、慶喜を新しい政治から一方的に排除することに反対しました。これに対し、岩倉具視や薩摩側は、慶喜が巨大な領地と政治力を保ったままでは新政府の実権を徳川家が再び握りかねないと考え、辞官納地を求めました。
会議では最終的に慶喜へ辞官納地を求める方向が決まります。ただし、徳川領がその場ですべて没収されたわけではありません。重要なのは、新政府への参加条件として徳川家の官位・領地という権力基盤そのものが政治交渉の対象になったことです。
なぜ政権返上後も武力衝突を避けられなかったのか
大政奉還によって将軍と朝廷の間の政権移譲は進みましたが、徳川家を新政権でどう扱うかについて合意はありませんでした。慶喜を公議政体の有力な参加者として迎えるのか、それとも旧幕府の権力基盤を縮小して新政府から距離を置かせるのかで対立が続きました。
王政復古と辞官納地要求によって、旧幕府側では薩摩などが徳川家を政治的に排除しようとしているという不満が強まります。慶喜自身は京都を離れて大坂へ移り、旧幕府・会津・桑名などの兵力も大坂周辺へ集まりました。
こうして1867年末の争点は、「幕府を残すか廃止するか」だけではなく、武力と領地を持つ徳川家を新しい国家の中でどの位置に置くかへ移りました。この政治交渉が破綻すると、翌1868年1月の鳥羽・伏見の戦いによって戊辰戦争が始まります。
Review
入試で押さえるポイント
- 1867年、後藤象二郎らの進言を受けた土佐藩が公議政体を前提とする大政奉還を建白し、徳川慶喜は10月14日に政権返上を上奏した
- 大政奉還は慶喜の即時引退や徳川家の政治力消滅を意味せず、返上後にも徳川家を中心に含む公議政体が構想されていた
- 1867年12月9日の王政復古の大号令は幕府と摂政・関白など旧制度を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置く新政府を定めた
- 大政奉還と王政復古は同じ出来事ではなく、前者は政権返上、後者は幕府廃止と新政府組織の形成という違いがある
- 王政復古当日の小御所会議では山内容堂らが慶喜排除に反対する一方、岩倉具視・薩摩側などが慶喜の辞官納地を求めた
- 辞官納地問題など徳川家の新政府内での位置をめぐる対立が解けず、1868年の鳥羽・伏見の戦いへつながった
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- 問1
土佐藩の大政奉還建白は、政権を朝廷へ返した後に朝廷のもとで諸侯が議論する公議政体を構想していた。
後藤象二郎らは、将軍が政権を返上し、その後は朝廷のもとで諸侯が政治に参加する構想を進言しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
大政奉還によって慶喜は即座に政治から引退し、徳川家の領地・軍事力・行政組織もその日に消滅した。
返されたのは将軍が担ってきた政権であり、徳川家の領地や軍事力などは残り、新政体で徳川家が大きな役割を担う構想もありました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
王政復古の大号令は幕府や摂政・関白など旧制度を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置く新政府を定めた。
大政奉還後の政治枠組みを具体化し、天皇を中心とする新政府の制度と人事を組み替えた点が王政復古の大きな特徴です。
本文の該当箇所を確認する - 問4
大政奉還と王政復古の大号令は同じ日に行われた同一の出来事で、内容にも制度上の違いはなかった。
大政奉還は1867年10月の政権返上、王政復古は同年12月の幕府廃止と新政府組織形成で、時期も内容も異なります。
本文の該当箇所を確認する - 問5
小御所会議で辞官納地が決まると、徳川家の全領地はその場で直ちに没収された。
辞官納地は徳川家の官位・領地を新政府への参加条件として扱う政治問題でしたが、その場で徳川領すべてが没収されたわけではありません。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 徳川慶喜国立国会図書館 近代日本人の肖像
1867年の大政奉還と、慶喜が徳川家の復権を図ったとする解説を確認。
- 坂本龍馬の政体構想国立国会図書館 史料にみる日本の近代
後藤象二郎による山内豊信への大政奉還進言、公議政体論、坂本龍馬の政体構想と土佐藩建白の関係を確認。
- 西周の政体構想国立国会図書館 史料にみる日本の近代
大政奉還後にも徳川家を中心とする議会・三権分立型の政体案が構想されていたことを確認。
- 慶応3年(1867)12月|王政復古の大号令が発せられる国立公文書館
王政復古の大号令が幕府・摂政・関白など旧制度を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置くことを定めた点を確認。
- 年表|史料にみる日本の近代国立国会図書館
1867年の後藤象二郎らによる大政奉還進言、10月14日の慶喜の上表、12月9日の王政復古の年代を確認。
- 薩土盟約書(方今皇国ノ務云々)国立歴史民俗博物館
1867年の薩土盟約が公議政体への平和的移行を掲げつつ、薩摩・土佐間には武力倒幕をめぐる思惑の違いがあったことを確認。
- 「公議政体派」と薩摩倒幕派―王政復古クーデター再考京都大学大学院文学研究科・文学部
王政復古前後の公議政体派と薩摩倒幕派の対立、小御所会議における慶喜処遇・辞官納地問題を参照。
- 変貌―大久保利通の大坂遷都論国立公文書館
1867年10月の大政奉還、12月の王政復古、新政府三職の成立という政治制度上の流れを確認。
