徳川慶喜と幕府再建―最後の将軍はなぜ改革を進めても主導権を取り戻せなかったのか
一言でいうと
第二次長州征討の失敗と徳川家茂の死によって幕府の権威が揺らぐ中、1866年末に徳川慶喜が15代将軍となりました。慶喜は弱体化した幕府をただ維持しようとしたのではなく、先行していた洋式軍制改革を加速し、1867年にはフランス軍事教官による伝習を進め、国内・会計・外国・陸軍・海軍の各総裁を置くなど幕府の行政・軍事機構を組み直しました。兵庫開港を朝廷に認めさせるなど外交課題にも対応し、幕府そのものにはなお高い行政能力と軍事力がありました。しかし、薩摩・長州など有力諸藩が幕府の命令に従う政治秩序はすでに崩れつつあり、朝廷も国政の中心から外せなくなっていました。慶喜が幕府を近代的で集権的な政権へ変えようとするほど、諸侯の合議を求める勢力や薩長との政治的対立も深まります。改革で幕府の組織能力は強化できても、幕府だけが全国政治を主導する正当性と諸藩統率力までは回復できなかったことが、大政奉還へ向かう背景となりました。
慶喜はどのような幕府を引き継いだのか
1866年の第二次長州征討で幕府軍が苦戦する最中、14代将軍徳川家茂が大坂城で死去しました。幕府は長州を屈服させられないまま休戦し、全国の諸藩を統率する力に大きな疑問を持たれた状態で将軍の交代を迎えます。
その後、徳川慶喜が徳川宗家を継ぎ、1866年末に15代将軍となりました。慶喜は一橋家当主として文久の改革以来幕政に深く関わり、朝廷との交渉にも経験を持っていました。
したがって慶喜の課題は、単に「最後の将軍として幕府の終わりを見届ける」ことではありませんでした。軍事・財政・外交の能力を立て直し、朝廷や諸藩に対して幕府がなお全国政治を担えることを示す必要があったのです。
幕府の軍制改革は慶喜の就任後に突然始まったのか
幕府の洋式軍制改革は、慶喜が将軍となって初めて始まったものではありません。文久期から歩兵・騎兵・砲兵の三兵を整える改革が進み、1866年には横浜に三兵伝習所が設けられていました。
慶喜政権はこれを引き継ぎ、1867年にはフランスから軍事教官を招いて本格的な陸軍伝習を進めます。身分にかかわらず専門知識を持つ人材を登用し、洋式銃隊や将軍直属の軍を強化する方向が明確になりました。
ここで重要なのは、幕府が第二次長州征討に敗れたからといって、軍事的な近代化能力そのものを失っていたわけではないことです。幕府は西洋の軍事技術を導入し、直属軍を再編する力をなお持っていました。問題は、その軍事力を全国の諸藩を含む政治秩序の統率へ結びつけられるかどうかでした。
慶喜政権は幕府の行政機構をどう組み替えたのか
1867年、幕府は職制改革を進め、国内事務総裁・会計総裁・外国事務総裁・陸軍総裁・海軍総裁を置きました。また老中が月ごとに担当を交代する従来の月番制を廃止し、分野ごとの責任を明確にしようとします。
これは、老中を中心とする従来の幕府機構をそのまま保存するのではなく、外交・軍事・財政などの専門分野ごとに政策を処理する行政組織へ変えようとする試みでした。幕臣の中でも能力や専門知識を重視した登用が進められます。
つまり慶喜の改革は、江戸初期以来の幕府制度へ戻ろうとする復古策ではありません。対外関係と近代戦争に対応できる、より集権的で専門化された政権を徳川家のもとにつくる方向を持っていました。
慶喜期の幕府は、崩壊を待つだけの無力な組織ではありません。軍制・職制を近代化する改革能力を持っていましたが、それと全国政治を主導できる政治的権威は別問題でした。
フランスとの関係強化は幕府再建にどう結びついたのか
幕府は幕末にフランスとの関係を強め、軍事教官の招聘だけでなく、横須賀製鉄所などの近代的施設整備も進めました。ただし横須賀製鉄所の建設は慶喜の将軍就任以前から始まっており、これも慶喜が既存の近代化政策を継承した例です。
慶喜は弟の徳川昭武を1867年のパリ万国博覧会へ派遣し、その後フランスへ留学させる計画も進めました。幕府は外国との外交関係や技術導入を利用して、自らが日本を代表する政権であることを内外に示そうとしていました。
ただし、幕府の近代化を「フランスだけに依存した」とするのも正確ではありません。幕府陸軍はフランス式伝習以前にイギリス軍士官からも教練を受け、複数の西洋軍制を学んでいました。重要なのは、幕府が国際関係を利用しながら制度と軍事力を再編していた点です。
四侯会議はなぜ幕府と雄藩の協調を実現できなかったのか
1867年には、長州藩の処分と兵庫開港をめぐる問題を解決するため、島津久光・松平慶永・山内豊信・伊達宗城ら有力諸侯が京都に集まりました。いわゆる四侯会議です。
四侯側、とくに薩摩藩は長州への寛大な処分を先に進め、朝廷と有力諸侯が政治に関与する形を強めようとしました。一方の慶喜は、外国との約束が迫る兵庫開港を優先し、朝廷との交渉を主導します。最終的に慶喜は兵庫開港の勅許を得ましたが、四侯を核とする継続的な合議体制は成立しませんでした。
この結果は慶喜の政治力の強さと限界を同時に示します。朝廷を説得して重要な外交課題を処理する力はありましたが、有力諸藩との政治的な合意を安定した制度に変えることはできず、薩摩では幕府との平和的な協調に期待する声が弱まっていきました。
改革を進めても、なぜ幕府の主導権は戻らなかったのか
慶喜の改革によって幕府直属の軍事・行政組織は整備されました。しかし幕藩体制は、幕府自身の組織が強いだけでは成り立ちません。全国の大名が幕府の命令を政治的に受け入れ、必要なときに兵力や財力を提供する関係が必要でした。
第二次長州征討ではすでにその関係が崩れ、薩摩は出兵を拒みました。その後も薩摩と長州は連携を強め、土佐藩などからも朝廷のもとで諸侯が政治に参加する構想が出てきます。慶喜が幕府を集権化しようとする一方で、政治社会では「幕府だけが全国政治を決める」という前提そのものが失われていました。
したがって、幕府が終わった理由を「慶喜が改革に失敗して何もできなかったから」と説明することはできません。むしろ組織改革には一定の成果がありながら、その成果を支える政治的な合意と権威を回復できなかったことが問題でした。この矛盾を解こうとして、慶喜は次に政権そのものの形を変える大政奉還へ進みます。
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入試で押さえるポイント
- 第二次長州征討の失敗と徳川家茂の死後、徳川慶喜が1866年末に15代将軍となった
- 幕府の洋式軍制改革は慶喜就任以前から進んでおり、慶喜政権は三兵伝習所や1867年のフランス軍事教官による伝習などを継承・加速した
- 1867年、幕府は国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の各総裁を置き、分野別に責任を持つ職制改革を進めた
- 幕府はフランスとの関係を強めたが、軍事近代化はフランスだけに依存したものではなく、イギリスなどからも軍事知識を導入していた
- 1867年の四侯会議では長州処分と兵庫開港が争点となり、慶喜は兵庫開港の勅許を得た一方、雄藩との持続的な合議体制は成立しなかった
- 慶喜期の幕府は行政・軍事能力を近代化したが、諸藩を従わせる政治的権威と全国的合意を回復できず、大政奉還へ向かった
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- 問1
幕府の洋式軍制改革は、徳川慶喜が15代将軍になった1866年末に初めて始まった。
文久期から三兵整備などの洋式軍制改革が進んでおり、慶喜政権は既存の改革を継承・加速しました。
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慶喜政権は1867年に国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の各総裁を置き、分野別の責任を明確にする職制改革を進めた。
老中月番制も廃止し、外交・軍事・財政などを専門分野ごとに処理する行政組織へ再編しようとしました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
慶喜期の幕府軍近代化はフランスだけから学び、イギリスなど他国の軍事知識は取り入れなかった。
幕府はフランスとの関係を強めましたが、それ以前からイギリス軍士官の教練など複数の西洋軍制を学んでいました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
四侯会議は、慶喜と有力諸侯の意見を安定してまとめる恒久的な合議体制として定着した。
慶喜は兵庫開港の勅許を得ましたが、四侯を核とする継続的な合議体制は成立せず、雄藩との政治的合意を制度化できませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問5
慶喜期の幕府は行政・軍事の改革能力をなお持っていたが、それだけでは諸藩を従わせる全国政治上の権威を回復できなかった。
幕府の組織能力強化と、全国の大名が幕府の主導権を受け入れる政治的合意・権威は別問題でした。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 徳川慶喜国立国会図書館 近代日本人の肖像
徳川慶喜の将軍後見職、1866年の15代将軍就任、1867年大政奉還までの経歴を確認。
- 徳川慶喜・昭武関係年表 一松戸市 戸定歴史館
慶喜の将軍就任、兵庫開港・長州処分をめぐる朝議、1867年の国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍各総裁設置と老中月番制廃止、徳川昭武のフランス派遣を確認。
- 昇進の理由(多聞櫓文書)国立公文書館
1866年の三兵伝習所開設と、幕府が専門知識を持つ人材を登用して軍制改革を進めたことを確認。
- 騎兵の軍服を新調したい旨(多聞櫓文書)国立公文書館
1867年、フランス人軍事教官による幕府陸軍の伝習・大規模演習を確認。
- 歩兵令詞・英国歩兵操練図解国立公文書館
幕府陸軍がフランス式伝習以前にもイギリス軍士官から教練を受けるなど、複数の西洋軍制を導入していたことを確認。
- 『公議輿論』と幕末維新の政治変革国立国会図書館デジタルコレクション
1867年の四侯会議、長州処分・兵庫開港問題、慶喜と有力諸侯の政治構想の対立を参照。
- 幕末政局と徳川慶喜國學院大學
第二次長州征討後の慶応改革を、幕府の組織能力強化と政治的主導権再建の試みとして理解する際に参照。
