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江戸時代1863〜1864年政治・外交重要度 A

八月十八日の政変から禁門の変・第一次長州征討へ―京都政局はなぜ幕長対立へ進んだのかはちがつじゅうはちにちのせいへんからきんもんのへんだいいちじちょうしゅうせいとうへ きょうとせいきょくはなぜばくちょうたいりつへすすんだのか

一言でいうと

1863年、長州藩と尊王攘夷派の公家は京都政局で強い影響力を持っていましたが、薩摩藩・会津藩などは八月十八日の政変でこれを排除しました。京都を追われた長州側は朝廷での立場回復を目指し、1864年の池田屋事件を経て兵を京都へ進めますが、禁門の変で会津・薩摩などの軍勢に敗れ、朝敵とされました。同じ年、長州藩は四国艦隊の下関砲撃にも敗れ、内外から圧力を受けます。朝廷の命を受けた幕府が第一次長州征討を進めると、長州藩の保守派は三家老の切腹などで恭順を示し、大規模な戦闘を避けました。しかし対立は解決せず、高杉晋作らが藩内で主導権を奪い返したことで、幕府と長州の衝突は次の段階へ持ち越されます。京都での朝廷への影響力争いが、藩同士の武力衝突から幕府による征討へ拡大したことが、この時期の転換です。

八月十八日の政変でなぜ長州勢力は京都から排除されたのか

1863年の京都では、長州藩と尊王攘夷派の公家が朝廷内で影響力を強め、攘夷の実行や政治改革を求めていました。長州藩は前年に藩論を尊王攘夷へ転じ、朝廷の権威を背景に幕府へ攘夷を迫る側の中心になっていました。

これに対し、公武合体を重視する薩摩藩・会津藩などは、急進的な尊王攘夷派が朝廷を主導する状況を警戒します。1863年8月、薩摩・会津などの勢力は朝廷内の公武合体派と結び、長州藩兵を京都の警備から外し、尊王攘夷派の公家を政治の中心から排除しました。これが八月十八日の政変はちがつじゅうはちにちのせいへんです。

政変は幕府が長州藩を軍事的に征服した事件ではありません。朝廷をめぐる政治連合が組み替わり、長州藩が京都で築いていた発言力を失った政変です。ここから長州にとって「京都での政治的地位をどう回復するか」が大きな問題になります。

七卿落ちは京都政局の変化をどう示したのか

八月十八日の政変では、長州藩と結んでいた尊王攘夷派の公家も京都を離れました。中心人物の三条実美さんじょうさねとみら7人の公家が長州へ下ったため、これは七卿落ちと呼ばれます。

この出来事は、長州藩の失敗が一藩の地位低下だけではなかったことを示します。幕末には朝廷内部の公家、京都を警備する諸藩、江戸の幕府が互いに結びつきながら政策を競っており、政局の中心は幕府だけにはありませんでした。

一方、長州側から見ると、自藩と近い公家まで京都から排除されたことは、単なる人事上の敗北ではありません。朝廷の意思を自らの政治行動の正当性としてきた長州にとって、その根拠を失う危機でもありました。だからこそ長州藩内では、京都へ戻って立場を回復しようとする動きが強まっていきます。

池田屋事件はなぜ長州の京都出兵を早めたのか

1864年、京都では会津藩主で京都守護職の松平容保のもと、新選組などが尊王攘夷派の取り締まりを強めていました。6月、新選組は尊王攘夷派の志士が集まっていた池田屋を襲撃し、多数を殺傷・捕縛します。これが池田屋事件いけだやじけんです。

池田屋事件で長州系の志士らが打撃を受けたことは、長州藩内で京都への出兵を求める声を強めました。ただし、禁門の変を池田屋事件だけの直接的な報復として説明するのは不十分です。八月十八日の政変以来、長州はすでに京都での政治的地位回復を目指しており、その対立が蓄積していました。

池田屋事件は、その既存の対立を急激に高めた一つの契機でした。政治交渉で京都へ復帰する道が狭まる中、長州藩は武装した兵を京都周辺へ進め、朝廷へ自藩の処分撤回や入京を求めるようになります。

禁門の変で京都政局はなぜ武力衝突へ変わったのか

1864年7月、京都へ進出した長州藩兵は御所周辺で会津・桑名・薩摩などの軍勢と戦いました。これが禁門の変きんもんのへんです。長州側では久坂玄瑞らが戦いに参加しましたが敗北し、多くの人材を失いました。

禁門の変が重要なのは、朝廷への影響力をめぐる争いが、御所周辺で諸藩の兵が撃ち合う内戦的な武力衝突へ変わったことです。長州藩は京都政局へ復帰するどころか、朝廷に敵対した朝敵とされ、政治的立場をさらに悪化させました。

また戦闘では京都市中に大火が広がり、多くの町が焼失しました。幕末の政争が公家・大名・志士の対立にとどまらず、都市社会へ大きな被害を及ぼす段階に入ったことも、この事件の重要な側面です。

八月十八日の政変は長州勢力を京都から政治的に排除した事件、禁門の変は長州藩兵が京都へ進出して会津・薩摩などと戦い敗れた武力衝突です。二つを区別して流れを押さえることが重要です。

長州藩はなぜ内外から同時に追い詰められたのか

禁門の変で敗れた直後の1864年8月、長州藩は下関でもイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊から攻撃を受けました。前年から続けていた外国船への砲撃と海峡封鎖に対する軍事行動で、長州側の砲台は破壊・占領されます。

つまり長州藩は、国内では禁門の変によって朝敵とされ、国外では四国艦隊との戦闘で欧米海軍の強い軍事力に直面しました。二つの敗北は原因の異なる出来事ですが、ほぼ同時期に重なったことで藩政へ大きな圧力をかけました。

朝廷は長州征討を命じ、幕府は諸藩を動員して第一次長州征討だいいちじちょうしゅうせいとうを進めます。ここで幕府は、朝廷の命令を正当性の根拠として全国の諸藩に出兵を求めました。京都政局での対立は、幕府が一藩を征討する全国的な軍事動員へ拡大したのです。

第一次長州征討はなぜ大きな戦闘なしに終わり、それでも対立が残ったのか

禁門の変と四国艦隊との戦闘で打撃を受けた長州藩では、幕府への恭順を唱える保守派が主導権を握りました。藩は禁門の変の責任者とされた三家老を切腹させるなどして謝罪と恭順の意思を示します。

そのため第一次長州征討は、幕府軍と長州軍が大規模に戦う前に収束しました。この時点では幕府は朝廷の命令と諸藩の軍事力を用いて長州を服従させることに成功したように見えます。

しかし長州藩内では、高杉晋作たかすぎしんさくらが保守派に対して挙兵し、再び主導権を奪い返していきます。高杉らは四国艦隊との戦闘・交渉も経験しており、単純に以前の攘夷へ戻るのではなく、西洋式軍備を取り入れながら幕府との対決に備える方向へ進みました。第一次長州征討は幕長対立を終わらせず、むしろ次の薩長接近と第二次長州征討へ続く前段階になったのです。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1863年の八月十八日の政変では薩摩・会津など公武合体派が長州藩と尊王攘夷派公家の勢力を京都から排除した
  • 三条実美ら尊王攘夷派の公家7人が長州へ下ったことを七卿落ちという
  • 1864年の池田屋事件は長州側の京都出兵を促す契機になったが、禁門の変の原因を池田屋事件だけに還元しない
  • 1864年の禁門の変で長州藩は会津・薩摩などに敗れ、朝敵とされて京都での政治的立場をさらに失った
  • 禁門の変直後、長州藩は四国艦隊の下関砲撃にも敗れ、朝廷の命を受けた幕府は第一次長州征討を進めた
  • 第一次長州征討は長州藩が三家老の切腹などで恭順を示したため大規模戦闘なしに収束したが、高杉晋作らが藩内主導権を奪回し幕長対立は続いた

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    八月十八日の政変は、幕府軍が長州藩領へ侵攻して長州を軍事的に征服した事件である。

  2. 問2

    八月十八日の政変後、三条実美ら尊王攘夷派の公家7人が長州へ下った出来事を七卿落ちという。

  3. 問3

    禁門の変は池田屋事件への報復だけが原因で起こり、それ以前には長州と京都政局の対立は存在しなかった。

  4. 問4

    禁門の変で長州藩は会津・薩摩などに敗れ、朝敵とされて京都での政治的立場をさらに失った。

  5. 問5

    第一次長州征討で長州藩が恭順したことで幕府と長州の対立は完全に解消し、その後長州藩内で反幕府勢力が再び主導権を握ることはなかった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 八月十八日の政変で長州藩勢力が京都から退けられる
  2. 池田屋事件が起こる
  3. 禁門の変が起こる
  4. 四国艦隊が下関を砲撃する
  5. 第一次長州征討が行われる

Sources

参考資料

  1. 激動幕末―年表国立公文書館

    1863年八月十八日の政変、1864年池田屋事件・禁門の変・第一次長州戦争・四国艦隊下関砲撃・三家老切腹の年代関係を確認。

  2. 激動幕末―42.元治甲子長州附属諸国脱走変名大略国立公文書館

    八月十八日の政変後の長州勢力の京都復帰運動、池田屋事件、禁門の変と長州敗北を確認。

  3. 激動幕末―43.新選組隊長近藤勇以下三十名御手当之儀書上ほか国立公文書館

    新選組が京都守護職松平容保の配下として活動し、池田屋事件に出動したことを確認。

  4. 三条実美国立国会図書館 近代日本人の肖像

    三条実美が尊王攘夷派公家の中心で、八月十八日の政変後に七卿落ちの一人として長州へ下ったことを確認。

  5. 明治維新人物ギャラリー資料展示「四境戦争~時代の流れを変えた戦い~」山口県立山口図書館

    禁門の変後の朝敵化、四国艦隊下関砲撃、第一次幕長戦争での三家老切腹と戦闘回避、その後の藩内政変を確認。

  6. 高杉晋作国立国会図書館 近代日本人の肖像

    高杉晋作の奇兵隊結成、四国艦隊との講和、第一次長州征討後の藩論転換への関与を確認。

  7. Battle scene from the Hamaguri Gate Incident of 1864, Kyoto, JapanLibrary of Congress / Wikimedia Commons

    禁門の変を描いた1893年刊行の木版画とPublic Domainの権利状態を画像選定時に確認。