尊王攘夷と対外衝突―長州の外国船砲撃と薩英戦争は何を明らかにしたのか
一言でいうと
1863年、幕府が朝廷へ5月10日を攘夷期限として上奏すると、長州藩は下関海峡でアメリカ・フランス・オランダの船を砲撃し、攘夷を実力で実行しました。同じ年には薩摩藩もイギリス艦隊と薩英戦争を戦います。しかし二つの対外戦争を、どちらも「尊王攘夷を実行した戦争」とまとめるのは正確ではありません。長州の砲撃は朝廷の攘夷要求と幕府の期限設定を受けた政治的な攘夷実行でしたが、薩英戦争は1862年の生麦事件をめぐる賠償・犯人処罰交渉から起きた軍事衝突です。異なる経路で欧米の海軍力と実戦を経験したことで、諸藩は攘夷をスローガンとして唱えることと、実際に外国勢力を軍事的に排除することの間に大きな隔たりがあると直面しました。
尊王攘夷はなぜ幕末政治の強いスローガンになったのか
日米修好通商条約が朝廷の勅許を得ずに結ばれたことや、開港後に外国人・外国船が身近な存在になったことから、幕府の対外政策を批判する動きが強まりました。そこで、天皇・朝廷を政治的に重視する尊王と、外国勢力を排斥しようとする攘夷が結びつき、尊王攘夷という政治的スローガンが広がります。
ただし尊王攘夷を唱えた人々の考え方は一様ではありません。外国との通商そのものを否定する立場もあれば、いったん攘夷を掲げながら軍備を強化し、将来的な対外関係を組み直そうとする考えもありました。さらに、尊王攘夷は外交論だけでなく、幕府の政治責任を問い、朝廷や諸藩の政治参加を拡大する主張とも結びつきました。
そのため、尊王攘夷運動を「外国人を嫌った人々の運動」とだけ説明すると、幕末政治の争点を見失います。対外危機と国内の権力関係が重なったところに、このスローガンの強さがありました。
幕府が攘夷期限を示すと、なぜ長州藩が実際に砲撃したのか
1862年、長州藩では公武合体・開国論を唱えた長井雅楽が失脚し、藩論は尊王攘夷へ大きく傾きました。翌1863年、上洛した将軍徳川家茂は朝廷の要求を受け、幕府として5月10日を攘夷期限と上奏します。
しかし、幕府が全国で統一的な対外戦争を始めたわけではありません。開港場では外国との通商が続き、幕府自身も条約を履行していました。その一方で、長州藩は「奉勅攘夷」、すなわち天皇の命令を奉じて攘夷を実行するという論理を掲げ、下関海峡を通航する外国船への攻撃に踏み切ります。
ここに幕末政治の矛盾が表れています。幕府は朝廷へ攘夷を約束しながら、外交の現実では通商条約を維持せざるを得ず、諸藩も同じ方針では動いていませんでした。攘夷期限の設定は、統一された国家政策というより、朝廷・幕府・諸藩の立場のずれをむしろ明らかにしました。
長州の外国船砲撃は何を起こしたのか
1863年5月、長州藩は下関海峡でアメリカ・フランス・オランダの船を相次いで砲撃しました。関門海峡は瀬戸内海と日本海を結ぶ重要航路であり、通航を武力で妨げることは外国側にとって重大な問題でした。
アメリカ・フランスはまもなく軍艦を派遣して報復し、長州側の軍艦や砲台を攻撃しました。長州藩はそれでも海峡封鎖を続け、対立は翌1864年の四国艦隊下関砲撃へ持ち越されます。
長州の行動は、攘夷を単なる議論から実際の軍事行動へ移した点で重要です。同時に、藩単独で外国船を排除し続けることの軍事的な困難も早くから示されました。ただし長州がただちに攘夷を放棄したわけではなく、決定的な転換は1864年の四国艦隊との戦闘や国内政局の変化を経て進みます。
薩英戦争はなぜ長州の攘夷戦とは別の経路で起きたのか
薩英戦争の発端は、攘夷期限より前の1862年に起きた生麦事件です。幕政改革を終えて薩摩へ戻る島津久光の行列にイギリス人4人が入り込み、薩摩藩士が彼らを斬り、1人が死亡、2人が重傷を負いました。
イギリスは幕府に謝罪と賠償を求める一方、薩摩藩には犯人の処罰と賠償金を要求しました。幕府は賠償要求に応じましたが、薩摩藩との交渉はまとまらず、翌1863年にイギリス艦隊が鹿児島湾へ来航します。
したがって薩英戦争は、薩摩藩が幕府の攘夷期限に従ってイギリスを攻撃した戦争ではありません。生麦事件の責任処理をめぐる外交交渉が軍事衝突へ発展したものであり、この点を長州の外国船砲撃と区別する必要があります。
1863年に起きた長州の外国船砲撃と薩英戦争は、どちらも欧米勢力との戦闘ですが原因は異なります。長州は攘夷期限を受けて外国船を攻撃し、薩摩は生麦事件の賠償・処罰交渉からイギリスとの戦争へ進みました。
薩英戦争で薩摩藩は何を経験したのか
1863年、イギリス艦隊7隻が鹿児島へ来航し、交渉がまとまらない中で薩摩藩との戦闘が始まりました。イギリス側は薩摩藩の蒸気船を押収し、薩摩側が砲撃を開始すると、イギリス艦隊も鹿児島の砲台や城下へ砲撃を加えました。
薩摩藩は戦闘を通じてイギリス海軍の火力と蒸気船の能力を実感しました。一方、イギリス側も薩摩の抵抗力を無視できないと認識し、戦後には賠償問題を処理したうえで両者の関係は接近していきます。
ここで重要なのは、「薩摩は敗れたので翌日から全面的な開国派になった」と単純化しないことです。戦争は薩摩の対外認識を大きく変える契機となりましたが、その後の外交・軍備・国内政局の選択を通じてイギリスとの協力関係が形成されていきました。
二つの対外衝突は攘夷と幕末政治の何を明らかにしたのか
長州の砲撃と薩英戦争は原因が異なりますが、どちらも一つの藩が欧米の近代海軍と直接戦う経験になりました。その結果、外国勢力を軍事力だけで排除するには、従来の沿岸砲台や藩単位の軍備では限界があることが現実の戦闘で示されます。
同時に、幕府が朝廷へ攘夷を約束しても、全国を一つの軍事方針で動かせないという政治的な問題も露呈しました。長州は攘夷を実行する一方、薩摩は公武合体派として京都政局で長州と対立しながら、別の理由でイギリスと戦っていたからです。
1863年8月には薩摩・会津などが長州勢力を京都から排除する八月十八日の政変が起こります。対外危機は諸藩を一つにまとめるどころか、外交方針と京都政局をめぐる藩同士の対立とも結びつきました。次の焦点は、京都から追われた長州がなぜ武力で復帰を目指し、幕府との全面的な対立へ近づいていったのかです。
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入試で押さえるポイント
- 尊王攘夷は天皇・朝廷を重視する尊王と外国勢力の排斥を唱える攘夷が結びついた政治的スローガンで、外交論だけでなく幕府批判とも結びついた
- 1863年、幕府が5月10日を攘夷期限と上奏すると、長州藩は下関海峡でアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃した
- 長州の外国船砲撃は外国側の報復を招き、対立は1864年の四国艦隊下関砲撃へ続いた
- 1862年の生麦事件では島津久光の行列に入ったイギリス人が薩摩藩士に殺傷され、賠償・犯人処罰問題が薩英戦争の原因となった
- 1863年の薩英戦争は幕府の攘夷期限を実行した戦争ではなく、生麦事件の処理をめぐる薩摩藩とイギリスの外交交渉から生じた
- 長州と薩摩の対外戦争は原因が異なるが、欧米海軍との実戦を通じて藩単位の攘夷・軍備の限界を認識させる契機となった
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- 問1
尊王攘夷を唱えた人びとは、全員が外国との接触を永久に断つことだけを目的としていた。
尊王攘夷の考え方は一様ではなく、軍備強化や将来の対外関係の再編、朝廷・諸藩の政治参加拡大と結びつく立場もありました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1863年の長州藩による外国船砲撃は、幕府が全国の諸藩へ統一的な対外戦争を命じ、その一部として実施された。
幕府は攘夷期限を上奏しましたが、開港場では通商を続けており、全国統一の対外戦争を開始したわけではありません。長州藩が奉勅攘夷を掲げて独自に砲撃しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
薩英戦争は、薩摩藩が幕府の攘夷期限に従ってイギリス船を攻撃したことから始まった。
薩英戦争は1862年の生麦事件をめぐる賠償・犯人処罰交渉がまとまらず、翌年に軍事衝突へ発展したものです。
本文の該当箇所を確認する - 問4
長州と薩摩が欧米海軍と実戦を経験したことは、藩単位の従来型軍備だけで外国勢力を排除する難しさを明らかにした。
原因は異なるものの、両藩は欧米の近代海軍と直接戦い、沿岸砲台や藩単位の軍備の限界に直面しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
薩英戦争後、薩摩藩とイギリスの関係は賠償問題の処理などを経て接近していった。
薩英戦争は薩摩の対外認識を変える契機となり、戦後の交渉や軍備・外交の選択を通じてイギリスとの協力関係が形成されていきました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 激動幕末―年表国立公文書館
1863年の家茂上洛・攘夷期限上奏、長州藩の外国船砲撃、薩英戦争、八月十八日の政変の年代関係を確認。
- 異国船掃攘一件山口県文書館
長州藩が奉勅攘夷の命を受け、1863年5月10日以降に下関海峡で米・仏・蘭の艦船を砲撃した関係記録を確認。
- 江戸幕府の滅亡―下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)山口県文書館
1863年の長州藩による外国船砲撃、米仏軍艦の報復、海峡封鎖継続と1864年の四国艦隊攻撃への接続を確認。
- 生麦事件鹿児島県
1862年生麦事件の経緯と、イギリスが幕府・薩摩藩へ別個に謝罪・賠償・犯人処罰を要求したことを確認。
- 薩英戦争鹿児島県歴史・美術センター黎明館
生麦事件の処理から1863年の薩英戦争へ至る経緯と、戦後の薩英接近を確認。
- 激動幕末―29.日本新聞・中外新聞国立公文書館
薩英戦争が生麦事件の結果生じた対外問題として幕府の海外情報収集にも影響したことを確認。
