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明治時代1904〜1910年政治・外交重要度 A

韓国保護国化から韓国併合へ―日本はどのように韓国の外交権・内政への支配を強めたのかかんこくほごこくかからかんこくへいごうへ にほんはどのようにかんこくのがいこうけんないせいへのしはいをつよめたのか

一言でいうと

日本による韓国支配は、1910年の韓国併合で突然始まったのではありません。日露戦争中の1904年、日本は日韓議定書や第一次日韓協約を通じて韓国政府への軍事・財政・外交上の介入を強めました。日露戦争後の1905年には、軍事的圧力を背景に第二次日韓協約を締結させ、韓国の外交権を奪って保護国化します。翌1906年には統監府を置き、初代統監伊藤博文のもとで日本の支配機構を韓国内に常設しました。高宗は1907年、ハーグの万国平和会議へ密使を送り第二次日韓協約の不当性を国際社会へ訴えようとしましたが、これを契機に退位へ追い込まれます。日本は第三次日韓協約によって内政への統制をさらに強め、韓国軍を解散しました。解散軍人も加わった義兵闘争が各地で拡大し、韓国側の抵抗は続きます。1909年には安重根がハルビンで伊藤博文を暗殺しましたが、日本政府はその数か月前から韓国併合方針を決定していました。1910年8月、韓国併合条約によって大韓帝国は日本の植民地とされます。したがって、保護国化と併合を同じ状態とせず、外交権の剝奪から内政・軍事への支配、そして植民地化へ進む段階と、それに対する韓国側の政治的・武装的抵抗をあわせて理解する必要があります。

日露戦争は韓国への日本の介入をどう強めたのか

日露戦争の主戦場へ兵力を送るため、日本にとって朝鮮半島の港湾・鉄道・通信・軍用地は重要な軍事基盤となりました。1904年2月、日本は韓国との間で日韓議定書を結び、日本軍が軍事上必要な地点を使用できる根拠を得ます。

同年8月の第一次日韓協約では、日本政府が推薦する財政顧問と外交顧問を韓国政府に置くことになりました。韓国はまだ独立国として外交関係を持っていましたが、日本は戦争を進めながら韓国政府の政策決定へ継続的に介入する仕組みをつくっていきました。

この段階を1910年の併合と同じ状態とみなすことはできません。しかし、日露戦争中の軍事的優位を背景に日本の介入権限が広がったことが、戦後の保護国化の前提となりました。

第二次日韓協約で何が失われたのか

日露戦争終結後の1905年11月、日本は韓国政府へ第二次日韓協約だいにじにっかんきょうやくの締結を迫りました。日本軍が韓国内に展開するなか、伊藤博文らが韓国皇帝・政府へ強い圧力をかけて成立させた協約で、高宗は協約を認めていませんでした。韓国では乙巳条約、強制性を強調して乙巳勒約などとも呼ばれます。

協約によって韓国の外交事務は日本政府の管理下に置かれ、韓国は独自に外国と外交関係を結ぶ権限を失いました。各国の韓国駐在公使館も撤退し、日本が韓国の対外関係を代表する体制がつくられます。

これが保護国化ほごこくかです。韓国政府そのものが直ちに廃止されたわけではありませんが、国家主権の核心である外交権を失い、日本の統制を受ける状態になりました。1910年の併合とは、この点を区別して覚える必要があります。

1905年の第二次日韓協約では韓国政府が直ちに消滅したのではなく、まず外交権が日本に奪われました。1910年の併合は、その後さらに内政・軍事への支配が強まった先にあります。

統監府は韓国支配をどのように常設化したのか

第二次日韓協約にもとづき、日本は1906年にソウルへ韓国統監府かんこくとうかんふを置き、伊藤博文が初代統監となりました。統監は日本政府を代表して韓国の外交事務を監督し、日本人理事官を各地に配置しました。

統監府の設置によって、日本の韓国支配は個別の外交交渉や軍事駐留だけではなく、現地に常設された行政機構を通じて行われるようになります。日本人顧問や統監府は韓国政府の財政・警察・通信・司法などにも影響力を広げていきました。

一方、韓国内では第二次日韓協約への反対が続きました。官僚・知識人による抗議や自決、新聞・教育活動、義兵の武装蜂起など、抵抗の方法は一つではありませんでした。韓国支配の進行を日本政府と伊藤博文だけの政策史として描かず、韓国社会の反応を同時に見る必要があります。

ハーグ密使事件の後、なぜ内政支配まで強まったのか

1907年、高宗はオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議へ李相卨・李儁・李瑋鍾の3人を密使として送り、第二次日韓協約が自らの意思に反して成立したことを国際社会へ訴えようとしました。しかし密使は正式な会議参加を認められませんでした。

日本は密使派遣を問題として高宗へ圧力をかけ、高宗は退位し純宗が即位しました。続いて1907年7月の第三次日韓協約だいさんじにっかんきょうやくにより、韓国政府は重要な行政措置や高官任命について統監の同意を受けることとなり、日本人が各省の次官などに入り内政への統制が強化されました。

さらに日本は韓国軍を解散させました。解散に抵抗した韓国軍人は日本軍と衝突し、一部は各地の義兵へ合流します。外交権だけを奪った1905年から、1907年には行政・軍事を含む国家機能への支配が一段と深まったのです。

韓国側は支配強化にどう抵抗したのか

日本への抵抗は高宗の外交活動だけではありません。第二次日韓協約前後から各地で義兵ぎへいが再び活発になり、儒生・農民など多様な人々が武装闘争へ参加しました。

1907年の韓国軍解散後には、元軍人が武器や軍事経験を持って義兵へ加わり、義兵闘争はさらに拡大しました。義兵部隊は地域や指導者によって構成・目的・行動が異なり、すべてが一つの統一組織だったわけではありません。

日本側は軍隊・憲兵などを投入して義兵を鎮圧しました。1909年には南部地域を中心に大規模な討伐作戦が行われ、国内の武装抵抗は大きな打撃を受けますが、独立運動は国外を含む別の形でも続いていきます。

伊藤博文暗殺が韓国併合を決めたのか

1909年10月26日、ハルビン駅で韓国の独立運動家安重根あんじゅうこんが伊藤博文を射殺しました。伊藤はすでに韓国統監を退いていましたが、第二次日韓協約締結や統監府設置に深く関わった日本の韓国支配を象徴する人物でした。

ただし、伊藤暗殺を韓国併合の直接の原因とするのは不正確です。日本政府は伊藤が暗殺される数か月前の1909年7月、適当な時期に韓国併合を行う方針を閣議で決定していました。暗殺後に併合へ向かう動きは加速しましたが、政策そのものはすでに決められていたのです。

この点からも、韓国併合を一つの事件への報復として説明せず、日露戦争期から積み重なった外交・行政・軍事上の支配拡大の最終段階として捉える必要があります。

1910年の韓国併合で何が変わったのか

1910年8月22日、日本の統監寺内正毅と韓国首相李完用は韓国併合条約かんこくへいごうじょうやくに調印し、8月29日に公布・発効しました。これによって大韓帝国は日本の植民地とされ、韓国皇帝の統治権は日本の天皇へ移された形とされました。

10月には朝鮮総督府が置かれ、朝鮮総督が日本の植民地統治を担いました。1905年の保護国化では韓国政府が残っていたのに対し、1910年の併合では韓国という独立国家そのものが消滅し、日本の植民地統治機構へ置き換えられた点が決定的な違いです。

日本側が条約という形式をとったことだけを理由に、韓国が自発的に日本へ加わったと理解してはいけません。日本は軍事力と統監府による支配を背景に韓国の主権を段階的に奪い、韓国側では外交活動・言論・教育・義兵などさまざまな抵抗が続いていました。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1905年の第二次日韓協約で韓国は外交権を奪われ、日本の保護国となった
  • 1906年に韓国統監府が設置され、伊藤博文が初代統監となった
  • 1907年のハーグ密使事件後、高宗が退位し、第三次日韓協約と韓国軍解散によって日本の内政・軍事への支配が強まった
  • 韓国軍解散後は元軍人も加わって義兵闘争が拡大し、日本による支配強化への武装抵抗が続いた
  • 1909年に安重根が伊藤博文を暗殺したが、日本政府はその前の同年7月に韓国併合方針を決定していた
  • 1910年の韓国併合条約で大韓帝国は日本の植民地となり、保護国化と併合は同じ状態ではない

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    1905年の第二次日韓協約によって韓国政府は直ちに廃止され、1910年と同じ植民地統治が始まった。

  2. 問2

    1906年に韓国統監府が設置され、伊藤博文が初代統監となり、日本の支配機構が韓国内に常設された。

  3. 問3

    ハーグ密使事件後、高宗は退位へ追い込まれ、第三次日韓協約と韓国軍解散によって日本の内政・軍事への統制が強まった。

  4. 問4

    日本支配に抵抗した義兵は、全国で一つの統一指揮系統を持つ単一組織として活動した。

  5. 問5

    1909年の伊藤博文暗殺を受けて、日本政府は初めて韓国併合を決定した。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 第二次日韓協約が結ばれる
  2. 韓国統監府が設置される
  3. ハーグ密使事件が起こる
  4. 第三次日韓協約が結ばれる
  5. 韓国軍解散を契機に義兵闘争が拡大する
  6. 伊藤博文がハルビンで安重根に暗殺される
  7. 韓国併合条約によって日本が韓国を併合する

Sources

参考資料

  1. 日本外交文書デジタルアーカイブ 第38巻第1冊(明治38年/1905年)外務省外交史料館

    第二次日韓協約、統監府設置、韓国外交機関撤廃、韓帝密使発遣に関する外交文書の所在を確認

  2. 社会科授業用資料リストアジア歴史資料センター

    1904年第一次日韓協約、1905年第二次日韓協約、1907年第三次日韓協約、1910年韓国併合条約の原史料と日付を確認

  3. 公文書に見る外地と内地 年表アジア歴史資料センター

    統監府、ハーグ密使事件、義兵闘争、伊藤博文暗殺、韓国併合の年代関係を確認

  4. 韓国併合ニ関スル閣議決定書・其三アジア歴史資料センター/国立公文書館

    1909年に日本政府が韓国併合方針を決定していたことを確認

  5. 헤이그 특사와 군대 해산(ハーグ密使と軍隊解散)韓国国史編纂委員会『우리역사넷』

    高宗の密使派遣、退位、韓国軍解散と元軍人の義兵参加について韓国側の叙述を確認

  6. 신편 한국사 43권 국권회복운동(新編韓国史43巻 国権回復運動)韓国国史編纂委員会『우리역사넷』

    第二次日韓協約締結時の軍事的圧力、韓国側の抵抗、列強との関係を確認

  7. 伊藤博文国立国会図書館『近代日本人の肖像』

    初代韓国統監就任と1909年ハルビンで安重根に暗殺されたことを確認