日露戦争・ポーツマス条約と日比谷焼打ち事件―戦争の勝利はなぜ国内の不満へ転じたのか
一言でいうと
1904年に始まった日露戦争では、日本軍は旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦などでロシア軍に大きな打撃を与えました。しかし日本側も多数の死傷者と巨額の戦費を負担し、戦費調達では国内公債だけでなく欧米市場での外債に大きく依存しました。ロシア側も革命運動や戦争継続の負担を抱えたため、1905年にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で講和交渉が始まります。ポーツマス条約によって日本は韓国における優越的地位をロシアに認めさせ、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道と付属権益、北緯50度以南の樺太を得ましたが、賠償金は獲得できませんでした。国内では戦時中の報道や対露強硬論を通じてより大きな成果への期待が高まっていたため、講和条件への反発が急速に広がります。9月5日の講和反対国民大会を警察が禁止したことをきっかけに群衆と警官隊が衝突し、日比谷焼打ち事件へ発展しました。したがって、日露戦争後の不満は『勝ったのに賠償金がなかった』だけではなく、戦争の負担、講和条件への期待、政府への不信、都市民衆の政治参加が重なって生じたものとして理解する必要があります。
日本は日露戦争をどのように戦ったのか
1904年2月、日本とロシアの交渉が決裂し、日露戦争が始まりました。主戦場は朝鮮半島と満州南部、黄海・日本海などで、日本軍は朝鮮へ進出したのち遼東半島・満州方面へ兵力を展開しました。
陸上では旅順攻略、遼陽会戦、奉天会戦など大規模な戦闘が続き、海上では1905年5月の日本海海戦で東郷平八郎が率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大打撃を与えました。これらの勝利によって日本側は軍事的優位を示しましたが、ロシア本国を屈服させるほどの決定的な占領に至ったわけではありません。
日本側も長期戦によって兵員・弾薬・資金の余力を大きく消耗しました。戦費は国内の増税や公債だけでは足りず、日本銀行副総裁の高橋是清らが欧米市場で外債を募集して資金を確保しました。勝利が続いていても、日本が無制限に戦争を継続できる状態ではなかった点が重要です。
なぜ勝利が続くなかで講和を求めたのか
日本政府は開戦後の早い段階から、軍事的成果を外交上の成果へ転換するため講和の機会を探っていました。日本海海戦後、日本はアメリカへ仲介を求め、セオドア・ルーズベルト大統領が日本とロシアへ講和を勧告します。
ロシア側も敗戦だけでなく、1905年1月の血の日曜日事件をきっかけとする革命運動や国内不安を抱えていました。ただし、ロシアには依然として大きな人口・資源・軍事力があり、講和交渉で日本の要求をすべて受け入れなければならない状況でもありませんでした。
こうして両国とも戦争継続に大きな負担を抱えながら、相手を全面的に降伏させたわけではない段階で講和交渉へ入りました。日露戦争を『日本がロシアを完全に打ち負かした戦争』と理解すると、後のポーツマス条約の条件がなぜ限定されたのかを説明できなくなります。
ポーツマス条約で日本は何を得て、何を得られなかったのか
1905年8月、アメリカのポーツマス海軍工廠で講和会議が始まり、日本側全権の小村寿太郎とロシア側全権セルゲイ・ウィッテらが交渉しました。9月5日、両国はポーツマス条約に調印します。
条約でロシアは、日本が韓国で政治・軍事・経済上の措置をとる優越的地位を認めました。また、ロシアが清から得ていた旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道とその付属権益を日本へ移し、樺太の北緯50度以南を日本へ割譲しました。
一方、日本が要求していた戦争賠償金は認められず、樺太も全島ではなく南半分の割譲にとどまりました。日本政府は国力・軍事力の限界から講和成立を優先し、賠償金要求を断念しました。
したがってポーツマス条約は、日本が何も得られなかった講和でも、日本の要求がすべて通った講和でもありません。韓国・南満州・南樺太で大きな権益を得る一方、賠償金を得ない妥協によって戦争を終結させた条約でした。
ポーツマス条約では賠償金を得られませんでしたが、日本は韓国における優越的地位、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道権益、南樺太を獲得しました。『賠償金なし=成果なし』ではありません。
なぜ国内では講和条件への期待が大きくなったのか
戦争中の日本社会では、増税、国債購入、兵役、戦死傷者の増加などを通じて広い層が戦争の負担を引き受けました。そのため、勝利の代償として賠償金や領土など大きな成果を期待する声が強まりました。
新聞や政治団体には対露強硬論を唱えるものがあり、日本軍の勝利が繰り返し報道される一方、政府は軍事・財政上の限界や講和交渉の難しさを十分に公開していませんでした。国民の側からは、勝利を重ねた日本がロシアへもっと厳しい条件を要求できるように見えました。
その結果、賠償金を得られないという情報は、単なる外交上の妥協ではなく、戦争で負担を負った人々への見返りが失われたかのように受け止められました。講和反対運動は、外交条件への不満と政府の説明不足への不信が結びついて広がりました。
日比谷焼打ち事件はどのように起こったのか
講和条件が報道されると、東京をはじめ各都市で反対運動が広がりました。1905年9月5日、対露強硬派の政治団体などが日比谷公園で講和条約反対国民大会を計画しましたが、警視庁は開催を禁止して公園を封鎖しました。
日比谷公園前には数万人が集まり、群衆は警官隊と衝突して公園へ入りました。大会後も騒擾は収まらず、内務大臣官邸、警察署・交番、政府寄りとみなされた新聞社、教会、電車などが襲撃・放火の対象となりました。政府は東京で戒厳令の規定を適用し、軍隊も治安維持に投入します。
事件を『賠償金がなかったことに怒った群衆の暴動』だけで説明すると、集会禁止と警察への反発、対露強硬運動、都市民衆の政治参加という側面が抜け落ちます。焼打ち参加者には若い職人・工場労働者・日雇い労働者なども多く、日比谷焼打ち事件は明治後期の都市社会と政治参加の変化を示す出来事でもありました。
日露戦争の終結は明治国家に何を残したのか
日露戦争によって日本は列強の一角として国際的地位を高め、韓国・南満州・南樺太で影響力と権益を拡大しました。しかし、それは戦争の負担や社会的緊張が解消されたことを意味しません。
日比谷焼打ち事件は、帝国議会の選挙権を持たない人々を含む都市民衆が、集会や示威行動を通じて政治へ意思を示すようになっていたことを表します。政府も警察・軍隊を用いて秩序を維持しようとし、政治参加の拡大と国家による統制が同時に進みました。
さらに、ポーツマス条約で得た韓国・南満州・南樺太の権益は、その後の植民地支配と帝国拡大へ直接つながります。次のTopicでは、日露戦争期から日本が韓国への支配をどのように段階的に強め、1910年の韓国併合へ進んだのかを扱います。
Review
入試で押さえるポイント
- 日露戦争は1904〜1905年に行われ、旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦などで日本軍が勝利したが、日本側も人的・財政的に大きく消耗した
- 日露戦争の戦費調達では高橋是清らによる欧米市場での外債募集が重要だった
- 1905年ポーツマス条約で日本は韓国における優越的地位、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道権益、南樺太を得たが賠償金は得なかった
- 日比谷焼打ち事件は講和条件への不満だけでなく、講和反対大会の禁止と警察への反発を契機に1905年9月5日から広がった都市騒擾
- 日露戦争を『日本の圧勝』、ポーツマス条約を『成果のない講和』のどちらにも単純化しない
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- 問1
日本は日露戦争でロシア本国を軍事的に屈服させ、無制限に戦争を継続できる余力を残したまま講和した。
日本軍は大きな勝利を得ましたが人的・財政的に消耗し、ロシアを全面降伏させたわけでもありませんでした。
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日露戦争の戦費調達では、国内の増税や公債だけでなく、高橋是清らによる欧米市場での外債募集も重要だった。
巨額の戦費を賄うため、日本は海外金融市場からの資金調達にも大きく依存しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
ポーツマス条約で日本は賠償金を得なかったが、韓国での優越的地位、南満州の権益、南樺太などを得た。
賠償金要求は断念しましたが、条約には日本側が獲得した重要な政治・領土・鉄道権益も含まれました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
日比谷焼打ち事件は、賠償金が得られなかったことだけが原因で、集会禁止や警察への反発とは無関係だった。
講和条件への不満に加え、国民大会の禁止、警察との衝突、政府への不信や都市民衆の政治参加が重なりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
ポーツマス条約は日本が賠償金も領土・権益も何一つ得られなかった、成果のない講和条約だった。
賠償金は得られませんでしたが、南樺太や南満州の鉄道・租借権、韓国における優越的地位などを得ました。
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