Knowledge Check
江戸時代の理解度テスト
32つの詳細学習トピックにある160問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
Test
理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
0 / 10 問回答
幕藩体制では、幕府が全国の村々を直接統治するのではなく、大名による地域支配を残しながら大名を将軍の統制下へ組み込んだ。
幕府が全国政治の上位に立つ一方、各地域の日常行政や年貢徴収は多くの場合大名領で行われました。
出題元の学習トピックを確認する石高とは、各領地で毎年実際に収穫された米の量をそのまま合計した数字である。
石高は土地の面積・等級・生産力などを検地で把握し、一定の基準で米の量に換算した評価値です。
出題元の学習トピックを確認する老中など幕府政治の主要な役職には、原則として譜代大名が就いた。
親藩・譜代・外様の区別は呼称だけでなく、幕政参加や大名配置とも結びついていました。
出題元の学習トピックを確認する大名が江戸へ参勤する慣行は1635年に初めて始まり、それ以前には存在しなかった。
大名の江戸出仕はそれ以前から形成されており、1635年の武家諸法度改定で参勤交代が制度として明文化されました。
出題元の学習トピックを確認する参勤交代の目的は、大名に出費を強いて経済的に弱らせることだけだった。
費用負担は大きかったものの、参勤交代の中心的な意味は将軍と大名の主従関係を定期的に確認し、大名を幕府の全国秩序へ組み込むことにありました。
出題元の学習トピックを確認する石高は、その土地で毎年実際に収穫された米の量そのものを表す数字である。
石高は検地で把握した土地の面積・等級・生産力などを一定の基準で米の量に換算した評価値です。
出題元の学習トピックを確認する村請制では、領主が百姓一人ひとりから直接年貢を取り立てるのではなく、村が年貢納入の単位となった。
領主は村へ年貢を割り当て、村側が内部で負担を調整して村として納入しました。
出題元の学習トピックを確認する五人組は全国どこでも同じ形・同じ運用で用いられた制度だった。
五人組は年貢・治安・法令遵守などに関わりましたが、地域によって運用には違いがありました。
出題元の学習トピックを確認する江戸時代の百姓には、農業だけでなく漁業・林業・手工業・運送・商業などを組み合わせて暮らす人びともいた。
百姓は現代語の『農民』と完全に同じではなく、近世の村社会に属する主要な身分的区分として捉える必要があります。
出題元の学習トピックを確認する江戸時代の全国民は、幕府が正式に定めた『士農工商』の四身分だけに例外なく分類されていた。
朝廷・公家、僧侶・神職、各種職業集団、被差別身分なども存在し、近世社会を四身分だけの固定図式で捉えることはできません。
出題元の学習トピックを確認する江戸幕府が1603年に成立すると、幕府はすぐに海外貿易と外交を全面停止した。
家康は1601年から朱印状を発給して海外貿易を統制し、朝鮮との関係修復やオランダとの貿易も進めました。
出題元の学習トピックを確認する朱印船貿易は、幕府が朱印状を発給することで海外交易を許可・管理する仕組みだった。
朱印状は自由放任のためではなく、日本商船を幕府の統制下に置き、正規の交易船として扱わせるために用いられました。
出題元の学習トピックを確認するホイアンやアユタヤの日本人町は、徳川幕府が東南アジアに獲得した海外領土だった。
日本人町の住民は現地の政権や社会のもとで暮らしており、日本人町は日本の領土や植民地ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する朝鮮との関係修復では対馬の宗氏が仲介し、1607年の回答兼刷還使や1609年の己酉約条が重要な節目となった。
文禄・慶長の役後の関係修復では宗氏が窓口となり、その後の朝鮮外交・貿易でも対馬が重要な役割を担いました。
出題元の学習トピックを確認する幕府が海外交流を認めていた17世紀初めには、誰でも幕府の許可なしに自由に海外渡航・交易できた。
朱印船制度そのものが、誰にどの形の海外交易を認めるかを幕府が管理する仕組みでした。
出題元の学習トピックを確認する幕府がキリスト教を禁じた理由は、日本がヨーロッパの植民地になることへの恐怖だけで説明できる。
禁教は、幕府が国内の宗教的結びつきや海外から活動する宣教師を政治秩序の中で統制しようとした過程として捉える必要があります。
出題元の学習トピックを確認する1635年には、日本人の海外渡航と海外に住む日本人の帰国が禁止された。
この規制は朱印船貿易の大きな転換点となり、海外との人の移動を幕府がより厳しく制限する段階へ進みました。
出題元の学習トピックを確認する島原・天草一揆は、キリスト教信仰を守ることだけを目的に起きた宗教戦争だった。
キリシタン迫害に加え、重い年貢、領主の苛政、凶作・飢饉など複数の要因が重なって武装蜂起へ発展しました。
出題元の学習トピックを確認する1639年のポルトガル船来航禁止によって、日本と外国との貿易・外交はすべて停止した。
オランダ・中国との貿易、朝鮮との外交・貿易、琉球やアイヌ社会を介する関係はその後も続きました。
出題元の学習トピックを確認する厳しい禁教政策のもとでも、長崎・天草地方などでは宣教師なしに信仰を密かに継承した人びとがいた。
禁教下で信仰を継承した人びとは、学習上『潜伏キリシタン』として理解されます。
出題元の学習トピックを確認するいわゆる『鎖国』体制のもとでは、日本と外国との交易・外交・情報交換はすべて停止していた。
長崎・対馬・薩摩・松前という窓口を通じて、相手や方法を限定した対外関係が続いていました。
出題元の学習トピックを確認する長崎口では、オランダ船と中国船との貿易が続き、海外の書籍や情報も流入した。
1641年にオランダ商館が出島へ移った後もオランダ・中国との交易が続き、長崎は海外情報の重要な入口でもありました。
出題元の学習トピックを確認する1609年の薩摩侵攻によって琉球王国は消滅し、中国との冊封・朝貢関係も終わった。
琉球王国は薩摩の支配を受けながら王国として存続し、明・清との冊封・朝貢関係も維持しました。
出題元の学習トピックを確認する四つの口は、相手・担い手・外交と貿易の組み合わせがそれぞれ異なる対外関係だった。
長崎・対馬・薩摩・松前は同一制度ではなく、地域ごとの大名や幕府機関を通じて異なる関係を担いました。
出題元の学習トピックを確認する幕府は一つの『鎖国令』を出し、その一度の命令で対外関係を現在いう鎖国体制へ切り替えた。
禁教、海外渡航統制、1639年のポルトガル船来航禁止、1641年のオランダ商館移転などが段階的に進みました。
出題元の学習トピックを確認する近世初頭のアイヌ社会は、和人との交易だけでなく樺太・千島など北東アジアともつながる交易圏を持っていた。
アイヌの人びとは北東アジアとの交易を通じ、中国などに由来する品々も入手していました。
出題元の学習トピックを確認する1604年の黒印状によって、徳川幕府は北海道全域を征服し、アイヌ社会を松前藩の普通の領民として編成した。
黒印状は松前氏の対アイヌ交易上の立場を認めたもので、アイヌ社会全体を本州の村と同じ形で直接統治したことを意味しません。
出題元の学習トピックを確認する商場知行制では、松前藩の家臣に蝦夷地の特定地域でアイヌと交易する権利が知行として与えられた。
米を生む土地の代わりに、特定の商場で交易する権利を家臣へ配分する仕組みでした。
出題元の学習トピックを確認するシャクシャインの戦いは、最初から全アイヌが一つに統一され、松前藩だけを相手に起こした戦争だった。
背景には日高地方のアイヌ集団間の対立があり、そこへ松前藩の交易統制や和人進出への不満が重なって広域蜂起へ発展しました。
出題元の学習トピックを確認する1669年の戦い後、松前藩によるアイヌ首長・交易への政治的・経済的統制はさらに強まった。
戦後は服従要求と交易統制が強化され、18世紀には場所請負制へ展開していきました。
出題元の学習トピックを確認する1609年の薩摩侵攻後も、琉球王国は国王・首里王府を持つ王国として存続した。
侵攻後は薩摩の政治的・経済的統制を受けましたが、尚氏の王統と王国政府そのものは存続しました。
出題元の学習トピックを確認する薩摩侵攻後、琉球本体と奄美諸島はまったく同じ形で琉球王国の統治下に残った。
奄美諸島は薩摩側の直接支配へ組み込まれましたが、琉球本体では国王・王府などの統治組織が残されました。
出題元の学習トピックを確認する薩摩藩が琉球王国を存続させた理由は、中国貿易の利益だけで完全に説明できる。
中国との外交・交易だけでなく、琉球王国による地域統治や幕府・薩摩の政治秩序など複数の事情が重なっていました。
出題元の学習トピックを確認する中国が明から清へ交代した後も、琉球王国は清朝との冊封・朝貢関係を築き直した。
薩摩の支配下に入った後も、琉球は中国王朝との外交関係を継続しました。
出題元の学習トピックを確認する琉球の江戸上りは、徳川政権への服属を示すと同時に、琉球が独自の王国として人びとに見える側面も持っていた。
薩摩藩同行のもとで将軍へ儀礼を行う一方、独自の衣装・音楽を伴う『琉球国』の使節として認識されました。
出題元の学習トピックを確認する江戸初期の武断政治では、幕府は武家諸法度などの法制度を用いず、武力だけで大名を支配した。
江戸初期にも武家諸法度などの法制度は整備されており、武断政治と文治政治は統治手段が完全に入れ替わる区分ではありません。
出題元の学習トピックを確認する大名家の改易や断絶は、仕えていた家臣が主君と職を失って牢人になる一因となった。
戦乱終息後は再仕官の機会も限られ、牢人の増加が社会秩序上の問題として意識されました。
出題元の学習トピックを確認する1651年の慶安の変では、由井正雪らの計画が実行され、幕府軍との大規模な戦争に発展した。
計画は実行前に発覚し、大規模な戦争にはなりませんでしたが、牢人問題の政治的危険性を示しました。
出題元の学習トピックを確認する末期養子の規制緩和は、慶安の変への直接の対策として行われたことが確定している。
両者は同時期の統治変化として関連づけられますが、慶安の変を規制緩和の直接原因と断定するのは慎重であるべきです。
出題元の学習トピックを確認する文治政治への転換は、幕府が軍事力や改易権を捨てたことではなく、家や制度を安定させる統治へ比重を移したことを意味する。
幕府の軍事力や大名統制権は維持されつつ、成立した幕藩体制を長期運営するため法・制度・家の存続がより重視されました。
出題元の学習トピックを確認する17世紀の新田開発は、日本全国で同じ時期に同じ方法で一斉に進められた。
新田開発の進み方は水利・地形・領主政策などによって異なり、地域差がありました。
出題元の学習トピックを確認する江戸・大坂・京都の三都は、それぞれ政治・消費・流通・生産など異なる都市機能を持ちながら相互に結びついていた。
江戸は巨大な消費都市、大坂は流通・取引の中心、京都は伝統都市かつ手工業生産の中心として重要でした。
出題元の学習トピックを確認する五街道は商品流通のためだけに整備され、参勤交代や幕府使者の移動には使われなかった。
五街道は政治的な交通制度として整備され、その安定した交通網が商人・旅人・商品・情報の移動にも利用されました。
出題元の学習トピックを確認する河村瑞賢の役割は海上輸送をゼロから発明することではなく、既存の航路や港を利用して年貢米輸送を安定させる仕組みを整えることだった。
1671〜1672年ごろ、東廻り・西廻り航路の輸送体制が整えられましたが、それ以前から海上輸送自体は存在していました。
出題元の学習トピックを確認する全国市場の発達とは、地域市場が消滅したことではなく、各地域が三都・港・街道・商人を介して広域流通へより強く結ばれたことを意味する。
地域ごとの市場や流通圏は残りながら、遠隔地間の商品移動と市場向け生産が拡大しました。
出題元の学習トピックを確認する日本で貨幣を使った取引が広く行われるようになったのは、江戸幕府が三貨制度を整えてから初めてである。
中世には渡来銭が広く流通し、戦国期にも金・銀・銭が経済活動に利用されていました。
出題元の学習トピックを確認する三貨制度では金貨・銀貨・銭貨がすべて同じ単位と同じ方法で価値を表していた。
金貨は両・分・朱で数える計数貨幣、銀貨は主に重さで量る秤量貨幣、銭貨は文で数える小額貨幣でした。
出題元の学習トピックを確認する『東日本は金、西日本は銀』という整理は大まかな傾向であり、列島が例外なく二つの貨幣圏へ完全分割されていたことを意味しない。
小額取引では銭貨が全国で使われ、地域によっては高額取引でも別の建て方が用いられるなど例外がありました。
出題元の学習トピックを確認する年貢米を市場で売って貨幣に換える仕組みによって、石高・年貢を基礎とする支配と貨幣経済は結びついていた。
大名は年貢米や特産物を売却して貨幣を得て、江戸屋敷・参勤交代・物資購入などの支出に充てました。
出題元の学習トピックを確認する三貨制度の成立によって、全国では一種類の通貨だけが使用され、交換相場や地域的慣行はなくなった。
金・銀・銭が併存し、交換相場は変動しました。のちには藩札など地域内で使う紙幣も存在しました。
出題元の学習トピックを確認する綱吉の政治は、家綱期までに進んだ文治政治を受け継ぎ、儒学や礼制をより強く重視する方向へ展開した。
綱吉期は武断政治へ逆戻りした時期ではなく、文治政治を儒学・礼儀・道徳と結びつけて展開した時期として捉えられます。
出題元の学習トピックを確認する1691年に湯島聖堂が完成した時点で、林家の学問所はすでに幕府直轄の昌平坂学問所になっていた。
林家の学問所が幕府直轄となり昌平坂学問所へつながるのは寛政期です。
出題元の学習トピックを確認する綱吉期には老中など既存の幕府機構が廃止され、側用人柳沢吉保だけが政務を行った。
柳沢吉保は大きな影響力を持ちましたが、老中など既存の幕府機構と将軍側近は併存していました。
出題元の学習トピックを確認する生類憐みの令は、一度だけ公布された犬保護の単独法令ではなく、人や動物の生命に関する一連の政策の総称である。
対象は犬だけでなく鳥・馬、捨て子や病人の放置などにも及びました。
出題元の学習トピックを確認する1695年の元禄改鋳は、含有率を下げた粗悪貨幣を発行しただけの政策で、貨幣供給や幕府財政とは関係がなかった。
改鋳は貨幣供給を増やし、幕府に改鋳差益をもたらす財政政策でもありました。
出題元の学習トピックを確認する元禄文化とは、元禄年間(1688〜1704年)に成立した作品だけを指す文化区分である。
元禄文化は17世紀後半から18世紀初めにかけての文化的傾向として捉え、改元年で機械的に区切りません。
出題元の学習トピックを確認する京都・大坂など上方の都市成長や、作品を買う読者・観客・顧客の増加は元禄文化の重要な基盤だった。
文化の発展には作者だけでなく、出版物・芝居・美術工芸を消費する都市社会と文化市場の成長が必要でした。
出題元の学習トピックを確認する元禄文化は町人だけがつくり、町人だけが楽しんだ文化で、公家・武士・寺社文化とは交わらなかった。
都市町人は大きな担い手でしたが、公家・武家・寺社の文化的伝統とも交わりながら形成されました。
出題元の学習トピックを確認する松尾芭蕉は現在の俳句につながる発句だけでなく、複数人で句をつなぐ俳諧の世界で活動し、各地の門人とも交流した。
芭蕉は俳諧師として活動し、旅や門人ネットワークを通じて江戸と各地を結ぶ文化活動を展開しました。
出題元の学習トピックを確認する琳派は、一人の師匠から弟子へ技法を直接伝承する単一の画学校として形成された。
琳派は後世の呼称で、光琳らが時代を越えて先行作品を学び直し再解釈することで形成された美術の系譜です。
出題元の学習トピックを確認する新井白石は家宣政権で老中に就任し、老中として正徳の政治を主導した。
白石は老中ではなく、儒学者・政治顧問として将軍の信任を受け、政策立案に強い影響を与えました。
出題元の学習トピックを確認する正徳の政治は綱吉期の政治を全面否定し、文治政治や儒学重視も廃止した。
一部政策は見直されましたが、儒学・礼制を重視する文治政治の方向は継承され、将軍権威や儀礼の再整備へつながりました。
出題元の学習トピックを確認する1714年の正徳金銀では貨幣の品位を慶長金銀に近づけたが、流通貨幣量の減少という問題も生じた。
品位を高めると同じ量の金銀から作れる貨幣が減るため、質の回復と貨幣量の確保は別の問題でした。
出題元の学習トピックを確認する1715年の海舶互市新例は、中国船・オランダ船との長崎貿易を全面禁止した法令だった。
中国船・オランダ船の来航隻数や貿易高を制限し、既存の貿易を数量と手続きで管理する政策でした。
出題元の学習トピックを確認する1716年に吉宗が将軍となって白石らが政権中枢を退いた後も、海舶互市新例など正徳期の政策の一部は引き継がれた。
政権担当者が交代したことと、既存政策がすべて廃止されたことは同じではありません。
出題元の学習トピックを確認する享保の改革は倹約だけの改革ではなく、財政・人材登用・行政・法・学問・貨幣政策まで幅広く見直した。
吉宗は年貢収入だけでなく、足高の制、目安箱、洋書輸入制限緩和、貨幣改鋳、公事方御定書など多方面の政策を進めました。
出題元の学習トピックを確認する1722年の上米の制によって参勤交代そのものが廃止された。
大名に米を上納させる代わりに江戸在府期間を短縮しましたが、参勤交代自体を廃止した制度ではありません。
出題元の学習トピックを確認する目安箱の設置によって、庶民が幕府の政策を直接決定する権限を持つようになった。
目安箱は幕府が社会から意見や情報を集めて統治に利用する仕組みで、政策決定権が庶民へ移ったわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する1720年の洋書輸入制限緩和はキリスト教関係以外の西洋知識を取り入れやすくし、後の蘭学発達につながる重要な転換だった。
天文学・暦学・医学など実用知識への関心から規制が緩和され、西洋学術書が入りやすくなりました。
出題元の学習トピックを確認する1736年の元文改鋳は、貨幣を粗悪化させることだけが目的で、貨幣不足や米価への対応とは無関係だった。
含有率を下げて貨幣供給を増やし、貨幣不足を緩和して米価や経済活動を回復させる意図がありました。
出題元の学習トピックを確認する株仲間は田沼意次が初めて考案し、田沼期以前には存在しなかった。
同業者団体は以前から存在し、田沼期には株仲間を積極的に公認して商業統制と財政収入へ利用する傾向が強まりました。
出題元の学習トピックを確認する田沼政治の商業重視は、商人への規制をなくして自由放任にする政策だった。
株仲間を公認・組織化し、運上・冥加を徴収することで商業を幕府の管理と財政へ取り込もうとしました。
出題元の学習トピックを確認する田沼期には、株仲間など商工業者から運上・冥加を得て、商品流通を幕府財政の収入源として利用しようとした。
年貢だけに依存せず、成長した商業・貨幣経済からも収入を得ようとした点が田沼政治の特徴です。
出題元の学習トピックを確認する1785〜1786年の蝦夷地調査によって、幕府は北海道全域の直接統治を完成させた。
調査は北方への関心が強まった節目ですが、当時は松前藩の交易統制と独自のアイヌ社会が併存しており、幕府の全域直接支配が完成したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する田沼意次の失脚には、家治の死だけでなく、天明の飢饉、利権・賄賂批判、幕府内部の政治関係など複数の要因が重なった。
田沼失脚を一つの事件や一つの政策評価だけで説明するのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する寛政の改革は田沼政治を全面否定し、商人や貨幣経済を幕府政治から排除しようとした。
政策の重点は農村・武士・都市秩序の再安定化へ移りましたが、商品・貨幣経済は社会から切り離せず、救済制度でも都市資金などが利用されました。
出題元の学習トピックを確認する旧里帰農令は、江戸の農村出身者を一律に強制追放したのではなく、帰農を奨励し希望者へ旅費・農具代などを支援した。
農村復興と都市人口問題への対応として、故郷へ戻って農業を再開することを支援する政策でした。
出題元の学習トピックを確認する人足寄場は犯罪者を処罰するだけの刑務所で、職業訓練や社会復帰は目的としていなかった。
無宿者などを収容し、手工業や農作業の訓練を通じて授産・更生と治安維持を結びつける施設でした。
出題元の学習トピックを確認する寛政異学の禁によって、全国の学者は朱子学以外の研究を全面的に禁止され、国学や蘭学も途絶えた。
中心は幕府教育で朱子学を正学として幕臣教育を再編することで、全国の研究を全面禁止したわけではありません。国学・蘭学もその後発展しました。
出題元の学習トピックを確認する七分積金は町入用の節減分を積み立て、備荒・災害・困窮者救済などに利用する仕組みだった。
江戸の町会所を通じて、将来の飢饉や災害への備えと都市救済に用いられました。
出題元の学習トピックを確認する1720年の洋書輸入制限緩和によって西洋書が全面的に自由輸入となり、その年に蘭学が突然始まった。
長崎ではそれ以前から語学・医学知識が蓄積されており、1720年の緩和はキリスト教に関係しない西洋学術を利用しやすくした重要な前提でした。
出題元の学習トピックを確認する『解体新書』は杉田玄白一人の仕事ではなく、前野良沢の語学力をはじめ複数の学者の協働による翻訳事業だった。
前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らが協力し、オランダ語の解剖書を翻訳して1774年に刊行しました。
出題元の学習トピックを確認する国学は儒学を否定することだけを目的とした学問で、当時の漢学や文献研究とは無関係だった。
国学は日本古典を古語・本文に即して研究する点に特色がありましたが、当時の漢学・文献研究の蓄積とも無関係ではありません。
出題元の学習トピックを確認する18世紀には国学と蘭学が発達したため、儒学は重要性を失い、完全に置き換えられた。
儒学が重要な位置を保つ一方で、国学・蘭学など研究対象や方法の異なる学問が並存し、知識世界が多様化しました。
出題元の学習トピックを確認する国学と蘭学は研究対象こそ異なるが、具体的な文献・言葉・観察を重視して知識を組み直した点では比較できる。
国学は古典本文と言葉の用例、蘭学は外国語原文・図・実物観察などを手がかりに研究を進めました。
出題元の学習トピックを確認する農村の商品化は米年貢制が消滅した後に始まったのではなく、米年貢を基礎とする幕藩体制の内側で進んだ。
農民は年貢や自家消費用の食料を確保しながら、余剰農産物・商品作物・加工品を市場へ売って現金収入も得るようになりました。
出題元の学習トピックを確認する18世紀になると全国の農村が一斉に同じ商品作物へ転換した。
重要な商品作物は気候・土壌・市場への距離・藩政策などによって異なり、地域差が大きくありました。
出題元の学習トピックを確認する問屋制家内工業では、商人が原料や資金を供給し、生産者は主に自宅の道具と家族労働で加工し、商人が製品を集荷・販売した。
農家が商人の工場へ通勤する制度ではなく、各家庭での生産を商人が原料・資金・販路で組織する仕組みです。
出題元の学習トピックを確認する豪農は幕府が全国一律に定めた正式な法的身分であり、すべて同じ権利と義務を持っていた。
豪農は土地・資金などを蓄えた有力農民を指す学習上の呼称で、全国一律の法的身分名ではありません。
出題元の学習トピックを確認する商品生産が発達した地域では必ず同じ速度で農民層分解が進み、すべての小規模農家が没落した。
階層分化には地域差があり、副業収入で経営を維持する農家もいました。商品化には収入機会の拡大と市場・債務依存の両面がありました。
出題元の学習トピックを確認する化政文化は1804年に突然始まり、1830年に完全に終わった文化で、その前後の作品は含まれない。
化政文化は文化・文政年間を中心とする学習上の区分で、18世紀後半から1830年代以後へ連続する文化の流れとして理解します。
出題元の学習トピックを確認する江戸の文化市場の成長は、交通・商品流通を通じて地方の情報や産物が江戸へ集まり、江戸の出版物も各地へ広がる全国的な流通網と結びついていた。
化政文化は江戸だけで完結した現象ではなく、人・物・情報を運ぶ広域流通と文化市場の成長に支えられました。
出題元の学習トピックを確認する出版業・貸本屋・寺子屋などの広がりは、書物を作り、流通させ、読む人びとの層を広げる条件になった。
本を購入する以外に借りて読む仕組みもあり、学習機会の拡大とともに読者市場が成長しました。
出題元の学習トピックを確認する化政期に江戸が文化の中心として成長すると、京都・大坂の出版・芸能・美術などは消滅した。
上方文化は続き、江戸・上方・地方を結ぶ複数の文化拠点と流通が広がったことが重要です。
出題元の学習トピックを確認する化政文化の発達は商品経済・交通・教育・出版と結びつく一方、出版物などが幕府の統制対象になることもあった。
文化市場は社会経済の発達に支えられましたが、幕府は秩序維持の観点から出版や風俗を規制することもありました。
出題元の学習トピックを確認する18世紀末の蝦夷地政策はロシア船への対応だけから始まり、松前藩の交易支配やアイヌ社会の状況とは無関係だった。
場所請負制下の支配や1789年のクナシリ・メナシの戦いなど従来の交易・統治問題に、ロシア接近という対外要因が重なりました。
出題元の学習トピックを確認する1792年のラクスマン来航を受け、幕府はその場でロシアとの通商を開始した。
幕府は通商を開始せず、長崎を対外交渉の窓口とする従来の枠組みを維持しました。
出題元の学習トピックを確認する幕府は1799年に東蝦夷地を直轄し、ロシア側の襲撃などで緊張が高まると1807年には全蝦夷地直轄へ拡大した。
北方問題は通商交渉だけでなく、幕府の領域統治・海防・諸藩動員に関わる課題へ広がりました。
出題元の学習トピックを確認する間宮林蔵が調査した樺太周辺は、日本とロシアのどちらにも人が住んでいない空白地帯だった。
アイヌ・ウイルタ・ニヴフなどの人びとが暮らし、黒竜江下流域を含む広域交易が存在していました。
出題元の学習トピックを確認する1821年に蝦夷地が松前藩へ返還されたことは、幕府直轄化が一方向に恒久化したわけではなく、緊張や統治負担に応じて方式が変化したことを示す。
ロシアとの緊張がいったん緩むと幕府は松前藩へ返還し、幕末には再び直轄するなど政策は変化しました。
出題元の学習トピックを確認する天保の飢饉の深刻さは冷害・凶作だけで決まったのではなく、貧困、年貢、米穀流通、備蓄・救済制度など地域社会の条件にも左右された。
飢饉は自然災害であると同時に、幕府・諸藩や地域社会の救済能力が問われる政治・社会危機でもありました。
出題元の学習トピックを確認する大塩平八郎は農民出身の百姓一揆指導者で、幕府行政とは無関係な人物だった。
大塩は元大坂東町奉行所与力で、幕府直轄都市の行政経験を持つ人物が救民と政治批判を掲げて蜂起した点に大きな衝撃がありました。
出題元の学習トピックを確認する株仲間を解散すれば流通の独占がなくなるため、物価は幕府の期待どおり直ちに下がり、取引の混乱も起こらなかった。
株仲間は流通・信用・代金回収などの機能も担っており、解散は従来の取引関係を混乱させる面がありました。
出題元の学習トピックを確認する人返しの法は、農村の耕作者・年貢基盤を維持すると同時に、江戸への人口流入と都市秩序にも対応しようとした政策だった。
農村人口の減少と都市への流入を一つの社会問題として捉え、人口移動を逆転させようとしました。
出題元の学習トピックを確認する上知令が強い反対を受けて撤回されたことは、幕府でも既存の大名・旗本領や利害関係を自由に組み替えられなかったことを示す。
幕府は最高権力を持ちながらも、既存の領有権や政治的利害を無制限に変更できたわけではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1825年の異国船打払令は、長崎で続いていたオランダ・中国との貿易まで全面停止する命令だった。
既存の対外窓口は維持しつつ、それ以外の外国船が沿岸へ接近することを原則として排除する政策でした。
出題元の学習トピックを確認するモリソン号事件では、幕府側が漂流民送還という目的を十分に把握しないまま打払令にもとづいて砲撃した。
翌年になって漂流民を乗せていたことが知られ、相手の目的を確認せず一律に打ち払う方針の問題が明らかになりました。
出題元の学習トピックを確認する蛮社の獄によって幕府は西洋知識を全面禁止し、西洋砲術の導入も中止した。
対外政策批判には警戒しましたが、幕府自身も高島秋帆の西洋砲術を取り入れるなど、海外知識・技術を政策へ利用していました。
出題元の学習トピックを確認する幕府は風説書・別段風説書などを通じ、アヘン戦争の戦況や西洋諸国の動きを継続的に把握しようとしていた。
幕府は清の敗北を戦争終了後に突然知ったのではなく、オランダ経由の海外情報を収集していました。
出題元の学習トピックを確認する1842年の薪水給与令は、欧米諸国との自由貿易と正式な国交を認める開国政策だった。
必要物資を与えて穏便に退去させる政策で、海禁体制を維持しながら不要な軍事衝突を避けるための修正でした。
出題元の学習トピックを確認する1853年のペリーの要求は、外国商人との自由貿易をただちに開始することだけを求めたものだった。
国書は友好関係、遭難者保護、石炭・食料・水などの補給を求め、将来の通商にも道を開こうとする内容でした。
出題元の学習トピックを確認する阿部正弘が諸大名などへ広く意見を求めたことは、外交問題を幕府だけの問題ではなく、諸藩も関わる国内政治の争点へ広げる契機になった。
意見は一致しませんでしたが、外交政策への諸藩の関与が強まり、後の条約勅許問題や将軍継嗣問題にもつながりました。
出題元の学習トピックを確認する1854年の日米和親条約によって下田・箱館で外国商人との自由貿易が始まった。
和親条約は補給・漂流民保護・外交関係のために港を開いたもので、本格的な自由貿易は1858年の通商条約を経て1859年に始まりました。
出題元の学習トピックを確認する日米和親条約には、日本が他国へ有利な条件を与えた場合にそれをアメリカにも及ぼす片務的最恵国待遇が含まれていた。
条約は下田・箱館の利用や領事設置とともに、アメリカへの片務的最恵国待遇を定めました。
出題元の学習トピックを確認する1854年の琉米修好条約は日米和親条約の付属文書にすぎず、琉球王国が条約当事者になったわけではない。
琉球王国はアメリカとの条約当事者となっており、薩摩・清との重層的な関係を保ちながら独自に条約を結びました。
出題元の学習トピックを確認するハリスが1856年に下田へ着任した時点では、日米和親条約によってすでに自由貿易が始まっていた。
日米和親条約は補給・漂流民保護・領事駐在などを認めましたが、自由貿易はまだ始まっておらず、ハリスは通商条約の締結を求めました。
出題元の学習トピックを確認する幕府が通商条約について朝廷へ勅許を求めたことで、外交問題は朝廷と幕府の権威関係を含む国内政治問題にもなった。
勅許を得られないまま幕府が調印したため、条約内容への反対に加えて、朝廷の同意なしに決定したことへの批判も強まりました。
出題元の学習トピックを確認する1858年の日米修好通商条約調印と同時に、条約で定めたすべての港・都市で自由貿易が一斉に始まった。
最初の本格的な貿易は1859年に横浜・長崎・箱館で始まり、新潟・兵庫や江戸・大坂は後の時期に開かれました。
出題元の学習トピックを確認する修好通商条約が不平等とされる具体的な理由には、外国側の領事裁判権と、日本が関税率を自主的に決められない協定関税がある。
外国人を日本法だけで裁けないことと、関税自主権を制約されたことが、後の条約改正の主要課題になりました。
出題元の学習トピックを確認する開港後の金貨流出は、幕府が金貨を主要輸出品として積極的に海外へ販売したために起きた。
国内外の金銀比価の差と条約上の貨幣交換条件を利用すると利益が出たため金貨が流出し、幕府は万延改鋳で対応しました。
出題元の学習トピックを確認する安政の大獄は、外国との通商そのものに反対した攘夷派だけを処分した事件である。
処分対象には無勅許調印への反対、一橋慶喜擁立運動、朝廷・諸藩の政治参加をめぐる反対勢力も含まれ、単純な開国反対派だけの弾圧ではありません。
出題元の学習トピックを確認する1858年の政治対立では、無勅許での通商条約調印と将軍継嗣問題が重なり、幕府の意思決定を誰が担うかという争点へ発展した。
条約問題と一橋慶喜・徳川慶福をめぐる継嗣問題は別々に進まず、朝廷や有力大名の政治参加を含む一つの政争へ重なりました。
出題元の学習トピックを確認する橋本左内は、西洋との接触を全面的に拒む排外的攘夷論だけを唱えたため、安政の大獄で処刑された。
橋本左内は海外事情を踏まえた国力強化を考え、一橋慶喜擁立の政治活動に関わったことで処分されました。単純な排外的攘夷論者ではありません。
出題元の学習トピックを確認する桜田門外の変で大老井伊直弼が江戸城近くで殺害されたことは、幕府が強権だけでは政治秩序を維持しきれないことを示す打撃となった。
反対派を厳しく処分した後にも最高指導者が実力で排除され、幕府の権威と井伊路線は大きな打撃を受けました。
出題元の学習トピックを確認する井伊直弼が暗殺された1860年に江戸幕府は直ちに崩壊し、朝廷へ政権を返上した。
井伊の死後も幕府は存続し、朝廷との融和を図る公武合体や1862年の文久の改革などで政治秩序の立て直しを試みました。
出題元の学習トピックを確認する公武合体は、朝廷と幕府を廃止して一つの新政府へ統合する制度改革だった。
公武合体は朝廷と幕府の協調によって政局を安定させる構想で、両者を廃止して一つの政府へ統合する制度ではありません。
出題元の学習トピックを確認する1862年の和宮と家茂の婚儀によって、条約と攘夷をめぐる朝廷・幕府間の対立は解消した。
婚儀は公武合体を象徴しましたが、条約調印への不満や攘夷要求は残り、朝廷と幕府の対立は続きました。
出題元の学習トピックを確認する文久の改革は、島津久光の率兵上京や勅使大原重徳の東下など、朝廷・有力諸藩からの圧力が強まる中で進められた。
文久の改革は幕府内部だけの自発的改革ではなく、朝廷と有力諸藩の政治参加が拡大する中で実現しました。
出題元の学習トピックを確認する文久の改革では会津藩主松平容保が京都守護職に任じられ、京都の治安維持と朝廷・幕府間の調整を担った。
京都守護職の新設と松平容保の就任は、幕府が京都政治への継続的な対応を必要としたことを示します。
出題元の学習トピックを確認する1862年の参勤交代緩和は参勤交代を完全に廃止し、諸大名を幕府の統制から外す政策だった。
在府期間の短縮などで負担を軽減し、国元での海防・軍備や有力大名の政治参加を促す改革でしたが、参勤交代の完全廃止ではありません。
出題元の学習トピックを確認する尊王攘夷を唱えた人びとは、全員が外国との接触を永久に断つことだけを目的としていた。
尊王攘夷の考え方は一様ではなく、軍備強化や将来の対外関係の再編、朝廷・諸藩の政治参加拡大と結びつく立場もありました。
出題元の学習トピックを確認する1863年の長州藩による外国船砲撃は、幕府が全国の諸藩へ統一的な対外戦争を命じ、その一部として実施された。
幕府は攘夷期限を上奏しましたが、開港場では通商を続けており、全国統一の対外戦争を開始したわけではありません。長州藩が奉勅攘夷を掲げて独自に砲撃しました。
出題元の学習トピックを確認する薩英戦争は、薩摩藩が幕府の攘夷期限に従ってイギリス船を攻撃したことから始まった。
薩英戦争は1862年の生麦事件をめぐる賠償・犯人処罰交渉がまとまらず、翌年に軍事衝突へ発展したものです。
出題元の学習トピックを確認する長州と薩摩が欧米海軍と実戦を経験したことは、藩単位の従来型軍備だけで外国勢力を排除する難しさを明らかにした。
原因は異なるものの、両藩は欧米の近代海軍と直接戦い、沿岸砲台や藩単位の軍備の限界に直面しました。
出題元の学習トピックを確認する薩英戦争後、薩摩藩とイギリスの関係は賠償問題の処理などを経て接近していった。
薩英戦争は薩摩の対外認識を変える契機となり、戦後の交渉や軍備・外交の選択を通じてイギリスとの協力関係が形成されていきました。
出題元の学習トピックを確認する八月十八日の政変は、幕府軍が長州藩領へ侵攻して長州を軍事的に征服した事件である。
八月十八日の政変は京都の朝廷をめぐる政治連合が組み替わり、薩摩・会津などが長州勢力と尊王攘夷派公家を京都政局から排除した事件です。
出題元の学習トピックを確認する八月十八日の政変後、三条実美ら尊王攘夷派の公家7人が長州へ下った出来事を七卿落ちという。
長州と結んでいた公家も京都から排除され、三条実美ら7人が長州へ移りました。
出題元の学習トピックを確認する禁門の変は池田屋事件への報復だけが原因で起こり、それ以前には長州と京都政局の対立は存在しなかった。
長州は八月十八日の政変以来、京都での政治的地位回復を目指しており、池田屋事件は既存の対立を急激に高めた一つの契機でした。
出題元の学習トピックを確認する禁門の変で長州藩は会津・薩摩などに敗れ、朝敵とされて京都での政治的立場をさらに失った。
御所周辺での武力衝突に敗れた長州藩は、京都政局への復帰に失敗し、朝廷に敵対した朝敵とされました。
出題元の学習トピックを確認する第一次長州征討で長州藩が恭順したことで幕府と長州の対立は完全に解消し、その後長州藩内で反幕府勢力が再び主導権を握ることはなかった。
第一次長州征討は大規模戦闘なしに収束しましたが、高杉晋作らが藩内で主導権を奪回し、幕長対立は第二次長州征討へ続きました。
出題元の学習トピックを確認する第一次長州征討後の高杉晋作らは、外国製兵器を拒み、以前と同じ排外的攘夷だけへ戻る方針をとった。
高杉らは四国艦隊との戦闘経験を踏まえ、西洋式の武器や軍制を取り入れながら幕府へ対抗しました。
出題元の学習トピックを確認する薩摩藩は長州再征への出兵を拒み、長州が外国製武器や汽船を購入する際にも協力した。
薩摩は幕府の長州処分から距離を取り、武器・汽船購入で長州を助けるなど両藩の利害が接近しました。
出題元の学習トピックを確認する1866年の薩長同盟は、両藩がその場で直ちに幕府を倒すことだけを約束した単純な倒幕同盟だった。
盟約の中心は長州再征への対応と長州の政治的地位回復をめぐる協力で、そこから後の倒幕連携へ発展しました。
出題元の学習トピックを確認する第二次長州征討で幕府軍が苦戦した背景には、長州側の軍制改革だけでなく、幕府側諸藩の足並みの乱れや薩摩の不参加もあった。
戦争の帰趨は兵器性能だけでなく、幕府の指揮・動員上の問題や有力諸藩との政治的距離にも左右されました。
出題元の学習トピックを確認する第二次長州征討は、長州藩が第一次征討と同じように全面恭順し、幕府が長州を屈服させて終わった。
幕府軍は長州を屈服させられず、家茂の死も重なって休戦へ進みました。これは幕府の権威低下を示す結果となりました。
出題元の学習トピックを確認する幕府の洋式軍制改革は、徳川慶喜が15代将軍になった1866年末に初めて始まった。
文久期から三兵整備などの洋式軍制改革が進んでおり、慶喜政権は既存の改革を継承・加速しました。
出題元の学習トピックを確認する慶喜政権は1867年に国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の各総裁を置き、分野別の責任を明確にする職制改革を進めた。
老中月番制も廃止し、外交・軍事・財政などを専門分野ごとに処理する行政組織へ再編しようとしました。
出題元の学習トピックを確認する慶喜期の幕府軍近代化はフランスだけから学び、イギリスなど他国の軍事知識は取り入れなかった。
幕府はフランスとの関係を強めましたが、それ以前からイギリス軍士官の教練など複数の西洋軍制を学んでいました。
出題元の学習トピックを確認する四侯会議は、慶喜と有力諸侯の意見を安定してまとめる恒久的な合議体制として定着した。
慶喜は兵庫開港の勅許を得ましたが、四侯を核とする継続的な合議体制は成立せず、雄藩との政治的合意を制度化できませんでした。
出題元の学習トピックを確認する慶喜期の幕府は行政・軍事の改革能力をなお持っていたが、それだけでは諸藩を従わせる全国政治上の権威を回復できなかった。
幕府の組織能力強化と、全国の大名が幕府の主導権を受け入れる政治的合意・権威は別問題でした。
出題元の学習トピックを確認する土佐藩の大政奉還建白は、政権を朝廷へ返した後に朝廷のもとで諸侯が議論する公議政体を構想していた。
後藤象二郎らは、将軍が政権を返上し、その後は朝廷のもとで諸侯が政治に参加する構想を進言しました。
出題元の学習トピックを確認する大政奉還によって慶喜は即座に政治から引退し、徳川家の領地・軍事力・行政組織もその日に消滅した。
返されたのは将軍が担ってきた政権であり、徳川家の領地や軍事力などは残り、新政体で徳川家が大きな役割を担う構想もありました。
出題元の学習トピックを確認する王政復古の大号令は幕府や摂政・関白など旧制度を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置く新政府を定めた。
大政奉還後の政治枠組みを具体化し、天皇を中心とする新政府の制度と人事を組み替えた点が王政復古の大きな特徴です。
出題元の学習トピックを確認する大政奉還と王政復古の大号令は同じ日に行われた同一の出来事で、内容にも制度上の違いはなかった。
大政奉還は1867年10月の政権返上、王政復古は同年12月の幕府廃止と新政府組織形成で、時期も内容も異なります。
出題元の学習トピックを確認する小御所会議で辞官納地が決まると、徳川家の全領地はその場で直ちに没収された。
辞官納地は徳川家の官位・領地を新政府への参加条件として扱う政治問題でしたが、その場で徳川領すべてが没収されたわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する鳥羽・伏見の戦いは、大政奉還と王政復古の後にも徳川家の領地・軍事力が残り、新政府内での徳川家の位置をめぐる対立が続いた中で起きた。
幕府という制度が廃止されても徳川家の実力は残っており、その政治的・軍事的な位置をどう処理するかという対立が武力衝突へ変わりました。
出題元の学習トピックを確認する鳥羽・伏見で旧幕府軍が敗れた理由は、新政府軍の武器が新しかったことだけで説明できる。
装備や指揮の差だけでなく、新政府側が朝廷の軍として正当性を確保し、周辺諸藩が旧幕府側から離れた政治的変化も重要でした。
出題元の学習トピックを確認する鳥羽・伏見の敗戦後、徳川慶喜は大坂から江戸へ戻り、のちに寛永寺で謹慎して新政府へ恭順する方向へ進んだ。
慶喜の江戸帰還と恭順は、旧幕府側が畿内で戦争を継続することを難しくし、江戸での全面戦争回避へつながる条件の一つになりました。
出題元の学習トピックを確認する江戸総攻撃が回避されたのは、勝海舟と西郷隆盛の個人的な友情だけが理由だった。
慶喜の恭順、新政府側の政治目的、巨大都市江戸を戦場にする被害、山岡鉄舟らを含む複数の交渉などが重なった結果です。
出題元の学習トピックを確認する1868年4月の江戸城開城によって戊辰戦争は終結し、その後は旧幕府勢力との戦闘は起こらなかった。
江戸城開城後も関東・東北・蝦夷地で戦闘が続き、戊辰戦争は1869年の箱館戦争終結まで続きました。
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