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江戸時代1680〜1709年を中心に政治・外交重要度 A

元禄政治と綱吉―文治政治はどのように展開したのかげんろくせいじとつなよし ぶんちせいじはどのようにてんかいしたのか

一言でいうと

1680年に5代将軍となった徳川綱吉は、家綱期までに進んだ文治政治を受け継ぎ、儒学・礼儀・法令を重視する政治を展開しました。綱吉自身が儒学を講義し、湯島聖堂の整備を進める一方、生類憐み政策は広範囲に及び、人びとに負担を生む面もありました。さらに側用人柳沢吉保の重用や1695年の元禄金銀への改鋳など、将軍権力・道徳秩序・貨幣経済が交差する政治が展開しました。

綱吉はどのような政治を受け継いだのか

1680年、4代将軍徳川家綱が死去し、その弟にあたる徳川綱吉とくがわつなよしが5代将軍となりました。

このころには関ヶ原の戦いや大坂の陣から長い時間がたち、大名が徳川政権へ公然と軍事的に対抗する可能性は低下していました。家綱期には、武家の家を存続させ、法や制度によって幕藩体制を安定させる文治政治への転換が進んでいました。

綱吉の政治は、この文治政治を受け継ぎながら、儒学的な道徳や礼儀を政治秩序とより強く結びつけていったものとして理解できます。

綱吉はなぜ儒学を重視したのか

綱吉は儒学を好み、大名・旗本らに四書などを自ら講義しました。将軍自身が学問を講じることは、単なる個人的な趣味ではなく、将軍が儒学的な徳と秩序の中心に立つ姿勢を示す意味も持ちました。

文治政治では、武力や処罰が不要になったわけではありません。それらを残したまま、法・礼儀・道徳によって武家社会を安定させることがより重視されました。

綱吉期は、家綱期から続く文治政治が、儒学と礼制を強く意識する政治へ展開した時期として位置づけられます。

湯島聖堂は何を象徴したのか

林羅山の家には、孔子を祀る先聖殿と儒学を学ぶ私塾がありました。1690年、綱吉はこれを湯島へ移すことを命じ、1691年に新しい聖堂が完成しました。

湯島では孔子を祀る儀礼が行われ、林家による儒学教育が続けられました。儒学・教育と幕府の政治的権威が強く結びついたことを示す施設です。

ただし、この時点で幕府直轄の昌平坂学問所が成立したわけではありません。林家の学問所が幕府直轄となるのは寛政期です。

側用人柳沢吉保はどのような役割を持ったのか

江戸幕府には老中など既存の政治機構があり、綱吉が一人ですべての政務を処理したわけではありません。

一方、綱吉は将軍の身近で命令の取り次ぎなどを行う側用人そばようにんを重用し、その代表である柳沢吉保やなぎさわよしやすは将軍の信任を得て大きな政治的影響力を持ちました。

「老中政治がなくなり、柳沢吉保だけが政治を行った」と理解するのではなく、既存の幕府機構と将軍側近が併存したと捉えることが重要です。

生類憐みの令とは一つの法律だったのか

綱吉の政治で最も有名なのが生類憐みの令しょうるいあわれみのれいです。しかし、この名前の一つの法令が一度だけ出されたわけではありません。1680年代以降に出された、人や動物の生命に関する一連の法令・政策をまとめてこのように呼びます。

対象は犬だけではなく、鳥・馬などの動物や、捨て子・病人の放置を禁じる政策も含まれていました。そのため「犬だけを人間以上に保護した法律」と説明すると実態を狭くしすぎます。

一方、犬の保護などをめぐる規制は次第に細かくなり、犬小屋の維持など社会的・財政的な負担を生む面もありました。理念と実際の統治負担の両方を見る必要があります。

生類憐みの令は一つの法令名ではなく、綱吉期に繰り返し出された生命保護に関する政策群として理解します。

生類憐み政策は文治政治とどう結びつくのか

綱吉が戌年生まれだったため犬を特別に保護した、という説明は有名ですが、それだけを政策の原因として断定することはできません。

綱吉期には儒学や仏教的な生命観、仁政を重視する政治姿勢などを背景に、生命を粗末に扱わないことを社会秩序の一部として求める政策が進められました。

武力による服従だけでなく、人びとの日常行動や道徳規範にまで法令を及ぼそうとした点で、生類憐み政策は文治政治の一つの展開として見ることができます。ただし、その運用が過度な負担や反発を生んだことも同時に押さえます。

1695年の元禄金銀への改鋳は何を意味したのか

綱吉期には都市と商品経済が発達し、幕府の支出も増加しました。こうした状況のなかで、勘定方で力を持った荻原重秀おぎわらしげひでのもと、1695年に金銀貨の改鋳が行われ、元禄金銀げんろくきんぎんが発行されました。

元禄金銀は慶長金銀より金や銀の含有率を下げており、同じ量の金銀からより多くの貨幣を発行できました。改鋳は市場への貨幣供給を増やすとともに、幕府に改鋳差益をもたらしました。

そのため元禄改鋳を「質の悪い貨幣をつくった失政」とだけ理解するのは適切ではありません。貨幣経済の拡大と幕府財政の両面から考える必要があります。

綱吉の政治を「犬公方の悪政」だけで覚えてよいのか

綱吉は後世「犬公方」と呼ばれ、生類憐み政策が悪政の象徴として語られてきました。しかし約30年に及ぶ治世をこの一点だけで説明すると、儒学奨励、湯島聖堂、側用人の重用、貨幣改鋳などが見えなくなります。

一方で、生類憐み政策の過度な規制や負担など、政治上の問題が存在したことも軽視できません。

綱吉期は「名君か暗君か」を一語で決めるのではなく、政策ごとに目的・効果・負担を分け、文治政治がどのように展開したかを見ることが重要です。

このページで覚えたい流れ

家綱期に文治政治への転換が進む → 1680年 徳川綱吉が5代将軍となる → 儒学・礼儀・道徳を重視 → 柳沢吉保ら側用人を重用 → 1680年代から生類憐み政策が進む → 1690年 聖堂の湯島移転を命じる → 1691年 湯島聖堂完成 → 1695年 元禄金銀への改鋳 → 1709年 綱吉死去 → 家宣・新井白石らの正徳の政治へ

Review

入試で押さえるポイント

  • 1680年、徳川綱吉が5代将軍となる
  • 綱吉期は家綱期から続く文治政治を、儒学・礼制・道徳を重視する方向へ展開
  • 綱吉は儒学を好み、大名・旗本らに自ら講義を行った
  • 1690年に聖堂の湯島移転が命じられ、1691年に完成
  • 生類憐みの令は一つの法令ではなく、綱吉期の一連の生命保護政策の総称
  • 側用人柳沢吉保が綱吉の側近として大きな影響力を持った
  • 1695年に元禄金銀への改鋳が行われた
  • 綱吉政治を生類憐み政策だけで評価せず、儒学・文治政治・財政政策も含めて理解する

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    綱吉の政治は、家綱期までに進んだ文治政治を受け継ぎ、儒学や礼制をより強く重視する方向へ展開した。

  2. 問2

    1691年に湯島聖堂が完成した時点で、林家の学問所はすでに幕府直轄の昌平坂学問所になっていた。

  3. 問3

    綱吉期には老中など既存の幕府機構が廃止され、側用人柳沢吉保だけが政務を行った。

  4. 問4

    生類憐みの令は、一度だけ公布された犬保護の単独法令ではなく、人や動物の生命に関する一連の政策の総称である。

  5. 問5

    1695年の元禄改鋳は、含有率を下げた粗悪貨幣を発行しただけの政策で、貨幣供給や幕府財政とは関係がなかった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 徳川綱吉が5代将軍となる
  2. 生類憐みの令が出され始める
  3. 湯島聖堂が建てられる
  4. 幕府が元禄金銀を発行する

Sources

参考資料

  1. 将軍のアーカイブズ―綱吉と家治(儒学と将棋)国立公文書館
  2. 昌平坂聖堂総差図東京都立図書館
  3. 日本貨幣史日本銀行金融研究所 貨幣博物館
  4. 生類憐みの令はどのような法令かレファレンス協同データベース(国立国会図書館)