正徳の政治と海舶互市新例―なぜ幕府は元禄期の貨幣政策と長崎貿易を見直したのか
一言でいうと
1709年に6代将軍徳川家宣が就任すると、側用人間部詮房や儒学者新井白石が政治に大きくかかわりました。正徳の政治では、綱吉期から続く文治政治や儒学重視を受け継ぎながら、将軍権威・外交儀礼・貨幣・長崎貿易の再整備が進められました。1714年には正徳金銀、1715年には海舶互市新例が出され、幕府は貨幣の信用と金銀・銅などの海外流出を抑えようとしました。ただし貨幣の品位を高める政策は流通貨幣量の減少を招くなど、政策目的と実際の結果は同じではありませんでした。
綱吉の死後、誰が政治を担ったのか
1709年、5代将軍徳川綱吉が死去し、徳川家宣が6代将軍となりました。
家宣が甲府藩主だった時代から仕えていた間部詮房と新井白石は、家宣政権でも重要な役割を担いました。間部は側用人として将軍の近くで政務にかかわり、白石は儒学者・政治顧問として政策立案に強い影響を与えました。
ただし新井白石は老中ではありません。老中など幕府の既存機構があるなかで、将軍の信任を受けた側近や儒学者が政策形成に深く関与した政治として理解します。
正徳の政治は綱吉政治を全面否定したのか
家宣政権では生類憐み政策など綱吉期の一部政策が見直されました。しかし、正徳の政治を『綱吉の悪政をすべて正した政治』と説明するのは単純化です。
綱吉期にはすでに儒学・礼制を重視する文治政治が進んでいました。家宣・白石もその方向を否定せず、むしろ儒学的な政治理念や儀礼を用いて将軍と幕府の権威を整えようとしました。
家綱期の文治政治 → 綱吉期の儒学・礼制重視 → 家宣・白石による政治・儀礼の再整備、という連続性を押さえることが重要です。
1711年の朝鮮通信使で何を変えたのか
1711年、家宣の将軍就任を祝う朝鮮通信使が来日しました。このとき白石は通信使の接待や外交儀礼を見直しました。
特に知られるのが、朝鮮から徳川将軍へ送る国書の称号を『日本国大君』から『日本国王』へ変更したことです。白石は東アジアの外交秩序のなかで将軍の地位をどう表現するかを問題にしました。
ただし、この変更が恒久化したわけではありません。白石が政治の中心から退いた後、1719年の通信使では再び『日本国大君』が用いられました。
なぜ正徳金銀へ改鋳したのか
綱吉期の1695年以降、幕府は金銀の含有率を下げた元禄金銀などを発行し、貨幣供給と改鋳差益による幕府収入を増やしました。
白石は貨幣の品位低下を問題視し、幕府が発行する貨幣の質と政治的信用を結びつけて考えました。そこで1714年、正徳金銀が発行され、金銀貨の品位は慶長金銀に近い水準へ引き上げられました。
一方、品位の高い貨幣へ交換すると同じ量の金銀から作れる貨幣枚数は少なくなります。そのため流通貨幣量が減り、物価下落や経済停滞を招く側面がありました。
貨幣の『質』を高めることと、経済に必要な貨幣の『量』を確保することは同じ問題ではなかったのです。
正徳改鋳は『悪貨を良貨へ戻した成功政策』とだけ覚えず、品位回復と貨幣量減少の両面を理解します。
なぜ長崎貿易をさらに統制したのか
17世紀後半から18世紀初めの長崎では、中国船・オランダ船との貿易が続いていました。日本は生糸などを輸入する一方、金・銀・銅などを輸出しました。
幕府は貴金属や銅の海外流出、輸出用銅の不足、長崎貿易の運営などを問題として意識するようになります。
そこで白石らは外国との貿易そのものをやめるのではなく、日本側が管理できる規模へ統制し直そうとしました。その中心が1715年の海舶互市新例です。
海舶互市新例は何を決めたのか
海舶互市新例では、中国船の来航を年間30隻、中国船との貿易高を銀6000貫目、オランダ船の来航を年間2隻、オランダ船との貿易高を銀3000貫目などに制限しました。
中国船については信牌と呼ばれる貿易許可証を利用する仕組みも整えられました。
重要なのは、外国船を全面禁止したのではなく、どの相手との貿易をどの規模で認めるかを数量と手続きで管理しようとしたことです。
海舶互市新例は「鎖国の完成」なのか
1715年以後も長崎では中国・オランダとの貿易が続き、対馬では朝鮮、薩摩を介して琉球、松前を介してアイヌ社会との関係も続きました。
海舶互市新例は、そのうち長崎貿易の量と手続きを調整する政策です。中国船30隻、オランダ船2隻という枠を設けたこと自体が、貿易の継続を前提にしています。
したがって『外国との交流を禁止する政策』ではなく、『既存の長崎貿易を幕府が管理可能な規模へ再編する政策』と理解します。
貨幣改鋳と貿易制限はどうつながるのか
1714年の正徳金銀と1715年の海舶互市新例は別の政策ですが、正徳の政治全体では共通する問題意識を持っていました。
国内では貨幣の品位を整え、対外的には金銀・銅などの流出を抑えることで、価値ある資源と貨幣秩序を幕府の統制下に置こうとしたのです。
ただし、貨幣の品位回復は貨幣量減少という別の問題を生みました。政策の目的と結果を区別して評価する必要があります。
なぜ正徳の政治は1716年で一区切りになるのか
家宣は1712年に死去し、幼い徳川家継が7代将軍となりました。間部詮房や新井白石らは引き続き政治を支えました。
しかし1716年に家継が死去すると、紀州徳川家から徳川吉宗が8代将軍に迎えられました。吉宗の就任により、間部詮房・新井白石は政権中枢から退き、享保の改革へ移ります。
ただし海舶互市新例など、正徳期につくられた政策の一部はその後も引き継がれました。政権担当者の交代と政策の継続は分けて考えます。
このページで覚えたい流れ
1695年以降 元禄・宝永期の貨幣改鋳 → 1709年 徳川家宣が6代将軍となる → 間部詮房・新井白石らが政治に関与 → 1711年 朝鮮通信使の外交儀礼を見直す → 1714年 正徳金銀を発行 → 貨幣量減少と物価下落 → 1715年 海舶互市新例で長崎貿易を数量管理 → 1716年 家継死去・吉宗が8代将軍となる → 享保の改革へ
Review
入試で押さえるポイント
- 正徳の政治は6代家宣・7代家継期、1709〜1716年を中心とする
- 間部詮房と新井白石が重要だが、新井白石は老中ではない
- 1711年の朝鮮通信使で将軍号を「日本国大君」から「日本国王」へ変更
- 1714年に正徳金銀を発行し、金銀貨の品位を慶長金銀に近い水準へ戻す
- 1715年に海舶互市新例を出し、中国船30隻・銀6000貫目、オランダ船2隻・銀3000貫目など長崎貿易を制限
- 海舶互市新例は交流禁止ではなく、既存の長崎貿易を数量管理する政策
- 1716年に家継が死去して吉宗が8代将軍となり、享保の改革へ移る
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0 / 5 問回答
- 問1
新井白石は家宣政権で老中に就任し、老中として正徳の政治を主導した。
白石は老中ではなく、儒学者・政治顧問として将軍の信任を受け、政策立案に強い影響を与えました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
正徳の政治は綱吉期の政治を全面否定し、文治政治や儒学重視も廃止した。
一部政策は見直されましたが、儒学・礼制を重視する文治政治の方向は継承され、将軍権威や儀礼の再整備へつながりました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1714年の正徳金銀では貨幣の品位を慶長金銀に近づけたが、流通貨幣量の減少という問題も生じた。
品位を高めると同じ量の金銀から作れる貨幣が減るため、質の回復と貨幣量の確保は別の問題でした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1715年の海舶互市新例は、中国船・オランダ船との長崎貿易を全面禁止した法令だった。
中国船・オランダ船の来航隻数や貿易高を制限し、既存の貿易を数量と手続きで管理する政策でした。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1716年に吉宗が将軍となって白石らが政権中枢を退いた後も、海舶互市新例など正徳期の政策の一部は引き継がれた。
政権担当者が交代したことと、既存政策がすべて廃止されたことは同じではありません。
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Sources
参考資料
- 新井白石―蔵書印の世界国立国会図書館
新井白石の経歴と家宣政権との関係を確認
- 日本貨幣史日本銀行金融研究所 貨幣博物館
正徳改鋳と近世貨幣制度の確認
- 将軍のアーカイブズ国立公文書館
正徳期の対外政策・長崎貿易統制の確認
