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大正時代の理解度テスト
30つの詳細学習トピックにある150問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
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理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
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第2次西園寺内閣は、二個師団増設案を閣議で退けた瞬間に制度上自動的に総辞職した。
総辞職には、上原陸相の単独辞職、軍部大臣現役武官制、陸軍が後任陸相を推薦しなかったことが連動しました。
出題元の学習トピックを確認する西園寺内閣の存続が困難になった背景には、軍部大臣現役武官制と陸軍による後任陸相の推薦拒否が組み合わさっていた。
現役武官に就任資格を限る制度だけでなく、陸軍が後任を出さないという組織上の判断が内閣の存続に強く作用しました。
出題元の学習トピックを確認する第一次護憲運動は国会議員だけの運動ではなく、新聞・雑誌や各地の憲政擁護大会を通じて全国へ広がった。
尾崎行雄・犬養毅らの議会活動に加え、新聞や集会など議会外の世論・民衆運動も桂内閣への圧力となりました。
出題元の学習トピックを確認する1913年の大正政変によって、以後は衆議院第一党の党首が自動的に首相になる制度が確立した。
大正政変で政党や世論の影響は強まりましたが、首相任命が第一党党首へ自動的に移る制度になったわけではなく、元老の影響も残りました。
出題元の学習トピックを確認する1913年に軍部大臣現役武官制が撤廃されると、その直後から軍部大臣には文民が相次いで任命された。
現役武官に限定する規定は削除されましたが、その後も実際に任命された軍部大臣は現役の陸海軍大中将でした。制度改正と実際の人事は区別が必要です。
出題元の学習トピックを確認する大正デモクラシーとは、普通選挙法という一つの法律だけを指す名称である。
大正デモクラシーは、護憲運動・普通選挙運動・政党政治・労働や女性などの社会運動が重なった長期的な潮流です。
出題元の学習トピックを確認する吉野作造の民本主義は、法理上の主権が人民にあるとする現在の国民主権と同じ内容を主張した。
民本主義は主権の所在とは切り分け、政治の目的を民衆の利福に置き、政策決定で民意を重んじるべきだとする考えでした。
出題元の学習トピックを確認する民本主義は、民意を政治に反映させる仕組みとして普通選挙や政党政治を重視する論拠となった。
吉野は帝国憲法体制を直ちに否定せず、その運用を民衆の意思へ近づけるため選挙・議会・政党政治を重視しました。
出題元の学習トピックを確認する天皇機関説は、天皇を国家統治から排除しようとする学説だった。
天皇機関説は天皇を国家の最高機関と位置づけ、憲法に従って統治権を行使する存在として説明する学説でした。
出題元の学習トピックを確認する民本主義と天皇機関説は同一の理論ではなく、前者は政治運用、後者は統治権の法理を主に論じた。
両者は問題設定が異なりますが、議会・政党・民意を重視する大正期の政治参加拡大を思想面から支えました。
出題元の学習トピックを確認する日本は日英同盟を結んでいたため、政府の政策判断とは無関係に自動的に第一次世界大戦へ参戦した。
日英同盟は参戦の根拠の一つでしたが、イギリスの当初要請は限定的で、日本政府が東アジアでの利益も考えて本格参戦を選びました。
出題元の学習トピックを確認する日本が1914年に攻撃した青島は、中国の山東半島にあるドイツの膠州湾租借地の中心だった。
青島はドイツ本国ではなく、中国領内でドイツが租借して軍港・商港を整備していた拠点でした。
出題元の学習トピックを確認する第一次世界大戦で日本陸軍の主力はヨーロッパ西部戦線へ送られ、そこで長期の地上戦を行った。
日本の主な軍事行動は東アジアの青島と西太平洋であり、欧州西部戦線への大規模な陸軍主力派兵ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する日本が1914年に占領した赤道以北のドイツ領南洋諸島は、その時点で直ちに日本領へ正式併合された。
占領後は軍政が敷かれ、戦後の国際的処理を経て国際連盟の委任統治領として日本が統治しました。
出題元の学習トピックを確認する青島・南洋諸島の占領は、その後の二十一か条の要求や南洋群島統治、大戦景気へつながる出発点となった。
参戦は軍事行動だけで終わらず、対中外交、太平洋統治、国内経済、戦後秩序へ連鎖しました。
出題元の学習トピックを確認する二十一か条の要求は、中国政府が21か条すべてをそのまま受け入れ、全項目が条約化された。
中国側は交渉で縮小を図り、第5号の大部分は最後通牒と最終合意から除かれました。
出題元の学習トピックを確認する二十一か条の要求の第5号には、日本人顧問の採用など中国の内政・統治へ深く関わる要求が含まれていた。
第5号には政治・財政・軍事面の顧問や警察・兵器調達など、中国側が強く警戒する内容が含まれていました。
出題元の学習トピックを確認する西原借款は、日本が軍事力だけではなく資金供与を通じて段祺瑞政権との関係を強めようとした政策だった。
寺内内閣は大戦景気で蓄積した資金を背景に、銀行を通じた大規模借款で中国政治への影響力拡大を図りました。
出題元の学習トピックを確認する石井・ランシング協定によって、アメリカは日本による中国支配と二十一か条の要求を全面的に承認した。
協定は日本の「特殊利益」を認める一方、中国の独立・領土保全と門戸開放・機会均等も確認した妥協的な合意でした。
出題元の学習トピックを確認する1915〜1918年の日本の対中政策は、要求・借款・対米協定・軍事協力など複数の手段を組み合わせて進められた。
二十一か条の要求、西原借款、石井・ランシング協定、日華共同防敵軍事協定が異なる方法で影響力拡大に使われました。
出題元の学習トピックを確認するベルサイユ条約では、ドイツが山東で持っていた権益を中国へ直接返還することが決められた。
ベルサイユ条約は旧ドイツの山東権益を日本へ移す内容だったため、中国側の強い反発を招きました。
出題元の学習トピックを確認する中国代表団は山東問題への国内反発を背景に、ベルサイユ条約への署名を拒否した。
山東の直接返還要求が認められず、五・四運動など国内の反発も強まるなか、中国代表団は署名しませんでした。
出題元の学習トピックを確認する五・四運動は北京の学生だけで完結し、商人や労働者の運動には広がらなかった。
抗議は上海など各地へ広がり、商店の休業、日本商品の排斥、労働者のストライキなどにも発展しました。
出題元の学習トピックを確認する五・四運動は山東問題を契機としつつ、反帝国主義や中国国内政治への批判、文化改革とも結びついた。
単なる反日運動ではなく、国家の独立と社会・文化の改革をめぐる複数の要求が重なった運動でした。
出題元の学習トピックを確認する1922年の山東懸案解決条約では、日本が膠州湾を中国へ返還し、青島・済南間鉄道も中国側へ移す方向で合意した。
ワシントン会議を背景とする日中交渉により、第一次世界大戦以来の山東問題は大きく整理されました。
出題元の学習トピックを確認する第一次世界大戦が始まった直後から、日本経済は一度も混乱せず一貫して大戦景気に入った。
開戦直後には海上輸送や貿易の混乱で打撃もあり、欧州の輸出減少と需要増加を背景に1915年ごろから大戦景気が本格化しました。
出題元の学習トピックを確認する大戦期には造船・鉄鋼・機械・化学などの需要が伸び、日本の重化学工業が大きく成長した。
船舶不足や軍需、輸入代替の必要から重化学工業が発達し、明治以来の工業化が新しい段階へ進みました。
出題元の学習トピックを確認する大戦景気では物価上昇が起こらなかったため、企業だけでなく賃金生活者も一様に生活が豊かになった。
企業利益が伸びる一方、物価上昇が賃金を上回って生活を圧迫された層も多く、米騒動の背景にもなりました。
出題元の学習トピックを確認する1917年の事実上の金輸出禁止は、大戦景気を生み出すための景気刺激策そのものだった。
金輸出禁止は戦時下の国際金融変化に対応し、正貨の国外流出を防ぐための措置でした。
出題元の学習トピックを確認する1920年の戦後恐慌には、欧州の生産回復と、戦時中に拡大した日本の設備・在庫・投機の反動が関係した。
戦時需要の縮小と国際競争の回復で価格が下落し、過剰設備や在庫、借入を抱えた企業・商社・銀行へ打撃が広がりました。
出題元の学習トピックを確認する1918年の米価急騰は、単純な米不足だけでなく、大戦期のインフレや投機、シベリア出兵をめぐる思惑などが重なって起こった。
米価問題は物価上昇、流通・投機、出兵予想、政府の価格対策への不信など複数の要因が重なって深刻化しました。
出題元の学習トピックを確認する米騒動は富山の漁村女性だけによる運動で、全国へ広がった後も参加者の構成は変わらなかった。
富山沿岸では女性が重要な役割を果たしましたが、全国では労働者・日雇い・農民・鉱山労働者など多様な人々が参加しました。
出題元の学習トピックを確認する寺内内閣の総辞職は米騒動だけで機械的に決まったもので、首相の健康問題など他の事情は関係しなかった。
米騒動と政府批判は大きな圧力でしたが、寺内首相の健康問題なども重なって退陣しました。
出題元の学習トピックを確認する原敬内閣は外務・陸軍・海軍大臣を除く閣僚を政友会員で構成し、初の本格的政党内閣と評価される。
衆議院の党組織を基盤に政権を担う点で重要な転換でしたが、軍部大臣などは政党外で、元老の首相推薦も残りました。
出題元の学習トピックを確認する『平民宰相』原敬の登場によって普通選挙と女性参政権が実現し、帝国憲法下の民主政治は完成した。
原内閣期も納税要件による制限選挙が残り、女性には国政選挙権がなく、元老・貴族院・軍部などの影響力も続きました。
出題元の学習トピックを確認する日本のシベリア出兵は、最初から日本単独でシベリア領土を併合することだけを目的とした戦争だった。
出兵開始時にはチェコスロバキア軍救援という連合国共同の目的があり、日本側の安全保障・勢力拡大の思惑も重なっていました。
出題元の学習トピックを確認する日本軍は他の連合国より長くシベリアに駐留し、沿海州からの撤兵は1922年10月まで続いた。
共同出兵の当初目的が弱まった後も、日本は極東の安全保障や政治・経済的利害を背景に駐留を続けました。
出題元の学習トピックを確認する1920年に日本が保障占領した北樺太は、1905年のポーツマス条約ですでに日本領となっていた南樺太と同じ地域である。
南樺太は1905年から日本領でしたが、北樺太はロシア領を1920年から軍事占領した別の地域で、正式併合ではありません。
出題元の学習トピックを確認する日ソ基本条約による国交樹立は、両国の政治的対立が完全に消えた結果ではなく、未解決問題や権益を外交的に調整する必要から進んだ。
北樺太撤兵、尼港事件、漁業、石油・石炭利権などを交渉で処理する必要があり、対立を残したまま国交が樹立されました。
出題元の学習トピックを確認する1925年の日ソ基本条約によって日ソ間の漁業・資源・満州をめぐる利害対立はすべて解消した。
国交は樹立されましたが、北樺太の利権や漁業、満州・中国をめぐる利害はその後も残りました。
出題元の学習トピックを確認する日本のパリ講和会議での主要課題は山東権益だけで、人種差別撤廃提案や南洋諸島の処理は重視されなかった。
日本は山東問題、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島、人種差別撤廃提案を主要課題として交渉しました。
出題元の学習トピックを確認する人種差別撤廃提案は委員会で多数の賛成を得たが、ウィルソンが重要事項には全会一致が必要と判断し、国際連盟規約には採用されなかった。
16名中11名が賛成しましたが、全会一致を要するとの判断と反対国の存在により採用されませんでした。
出題元の学習トピックを確認する赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島は、ベルサイユ体制のもとで日本領へ正式併合された。
日本は国際連盟から委任を受ける形で統治し、法的には単純な領土併合ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1920年に国際連盟が発足すると、日本は理事会の常任理事国となった。
日本は国際秩序の主要意思決定国の一つとして連盟に参加しましたが、アメリカは参加しませんでした。
出題元の学習トピックを確認するパリ講和会議で日本が人種平等を提案したことは、日本の植民地支配と人種平等・民族自決の理念の間に矛盾がなかったことを示す。
日本は国際的な平等を要求する一方、朝鮮・台湾を植民地支配しており、戦後秩序の理念との緊張を抱えていました。
出題元の学習トピックを確認する朝鮮の土地調査事業は、朝鮮人が所有する土地を例外なくすべて日本政府が没収するためだけに行われた制度だった。
土地所有権・地価・地形を調査して地籍と課税制度を整える事業で、権利関係の再編や紛争を伴いましたが、すべての土地を一律没収した制度ではありません。
出題元の学習トピックを確認する三・一独立運動は1919年3月1日に始まり、学生や宗教者だけでなく各地の住民へ広がった。
独立万歳運動は朝鮮全土へ波及し、商店の閉店、同盟休校、労働者の行動など多様な形をとりました。
出題元の学習トピックを確認する「文化政治」への転換によって朝鮮人が植民地統治の主権者となり、日本の植民地支配は実質的に終了した。
憲兵警察制度の廃止など制度変更はありましたが、総督府の強い権限は続き、警察機構も拡充されました。
出題元の学習トピックを確認する産米増殖計画には、朝鮮で米を増産して日本内地の米不足に対応し、朝鮮農業を日本市場と結びつける目的があった。
水利・農地改良などを進めると同時に、朝鮮米の対日供給増加を図る植民地経済政策でもありました。
出題元の学習トピックを確認する三・一独立運動の鎮圧後、朝鮮で独立を求める運動は消滅し、1920年代には再び起こらなかった。
独立運動は国内外で継続し、1926年には学生らを中心とする六・一〇万歳運動も起こりました。
出題元の学習トピックを確認する1914年の太魯閣族への軍事行動は、台湾総督府の支配が島内の全地域にすでに同じように確立していたことを示す。
山地では原住民族社会が独自の領域と秩序を保っており、総督府は軍・警察を用いて直接統制を拡大しました。
出題元の学習トピックを確認する1915年の西来庵事件が鎮圧されると、台湾の抵抗運動は直ちに全地域で武力を放棄し、合法的な請願運動だけへ一斉に転換した。
漢人社会では請願・文化運動などへ重点が移りましたが、地域や集団によって抵抗の形は異なり、単一の転換として説明できません。
出題元の学習トピックを確認する1919年に田健治郎が初の文官台湾総督となったことで、台湾住民が総督を選ぶ民主的な植民地自治制度が成立した。
総督は引き続き日本政府が任命し、植民地支配や警察・行政機構による統治も継続しました。
出題元の学習トピックを確認する台湾議会設置請願運動は、台湾に公選議員からなる議会を設け、予算や法制度へ住民代表が関与することを求めた。
1921年から林献堂らは帝国議会へ請願し、台湾に住民代表の議会を設けることを求めました。
出題元の学習トピックを確認する台湾文化協会と台湾議会設置請願運動は同一組織ではなかったが、担い手が重なり、文化啓蒙と政治参加要求をそれぞれ支えた。
文化協会は講演・出版などで社会的な基盤を広げ、請願運動は制度的な代表制を求めました。両者には林献堂ら共通する担い手もいました。
出題元の学習トピックを確認する日本が1914年に赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した時点で、これらの島々は正式な日本領として併合された。
1914年は戦時占領と軍政の開始であり、戦後には国際連盟のC式委任統治領として日本が施政を担いました。
出題元の学習トピックを確認する南洋群島は法的には日本へ単純併合された領土ではなく、国際連盟から日本へ統治を委ねられたC式委任統治領だった。
1920年12月に委任統治条項が確定し、日本は国際連盟の委任のもとで施政を担いました。
出題元の学習トピックを確認する1922年に南洋庁が設置されたことで日本の統治は終了し、南洋群島は現地住民による自治へ移行した。
南洋庁設置は軍政から民政機関への制度変更であり、日本による行政・警察・産業などの統治はむしろ制度化されました。
出題元の学習トピックを確認する南洋庁による学校や産業基盤の整備は現地社会に利益だけを与え、日本の統治や住民の生活への制約とは無関係だった。
教育・産業・移住政策は日本の統治の一部であり、現地住民の労働・土地利用・生活圏を日本の行政・経済活動へ組み込む作用も持ちました。
出題元の学習トピックを確認する大正期の南洋群島は、1914年の戦時占領、戦後の委任統治の確定、1922年の南洋庁設置という段階を区別して理解する必要がある。
軍事占領・国際連盟による委任統治・民政機関の設置は別の段階であり、日本の海外支配が制度化される過程を示します。
出題元の学習トピックを確認する大正初期の衆議院選挙では、25歳以上の男子であれば納税額に関係なく全員が選挙権を持っていた。
選挙権には直接国税の納税資格があり、1900年改正後も原則として10円以上を納める25歳以上の男子に限られていました。
出題元の学習トピックを確認する普通選挙を求める動きは議会内の政党だけで進んだのではなく、学生や労働者なども参加する集会・デモによって政治課題として押し上げられた。
第一次世界大戦後には日比谷などで大規模な普選集会が開かれ、議会外の大衆運動も選挙権拡大を求めました。
出題元の学習トピックを確認する1919年の衆議院議員選挙法改正で納税資格は撤廃され、男子普通選挙が実現した。
1919年改正は直接国税の資格を10円以上から3円以上へ引き下げただけで、納税要件自体は残りました。
出題元の学習トピックを確認する1919年の改正後も財産要件が残ったため、1920年の全国普選連合会結成など普通選挙運動は続いた。
改正後も納税資格が残ったため、運動側は不十分と考え、集会や組織化を継続しました。
出題元の学習トピックを確認する1925年の普通選挙法によって納税資格が撤廃され、女性にも国政選挙権が認められた。
1925年の改正で納税資格は撤廃されましたが、選挙権が広がったのは25歳以上の男子で、女性参政権は実現していません。
出題元の学習トピックを確認する大正期に増えた労働争議や労働組合運動は、参加した労働者が全員同じ社会主義思想を持ったために起こった。
賃金・労働時間・雇用など要求は多様で、職種や地域によって組織形態も異なり、労働組合運動と社会主義運動は同一ではありません。
出題元の学習トピックを確認する友愛会は1912年の結成時から完成した争議組織だったのではなく、親睦・共済・修養を重視する団体から労働条件改善を求める組織へ段階的に変化した。
友愛会は工業化と争議の増加に伴って組織を広げ、1919年・1921年の改称を経て全国的な労働組合組織へ発展しました。
出題元の学習トピックを確認する1920年の第1回メーデーは、日本労働総同盟だけが企業内要求を掲げて行った単独の争議だった。
第1回メーデーには複数の労働団体が参加し、治安警察法第17条撤廃や最低賃金制など社会的・政治的要求も掲げました。
出題元の学習トピックを確認する1916年施行の工場法は主として女性や年少者を保護したが、すべての労働者に8時間労働を保障した制度ではなかった。
工場法には適用範囲や保護内容の限界があり、成人男性の労働時間には原則として上限がありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1920年代半ばには労働運動が日本労働総同盟一つに統一され、路線や組織の違いはほぼなくなった。
1925年には日本労働組合評議会が結成されるなど、議会政治や直接行動をめぐる立場の違いが表面化し、組織も多様化しました。
出題元の学習トピックを確認する大正期の女性運動は選挙権だけを課題とし、労働・教育・母性保護などは運動の対象にならなかった。
大正期の女性運動には参政権だけでなく、母性保護、労働、教育、廃娼など多様な課題がありました。
出題元の学習トピックを確認する新婦人協会は治安警察法第5条の改正を求め、女性自身が政治参加の制度的制限を変えるために請願や言論活動を行った。
平塚らいてう・市川房枝らは新婦人協会を組織し、議会への請願や『女性同盟』での言論を通じて法改正を求めました。
出題元の学習トピックを確認する1922年の治安警察法第5条改正によって、女性は政治集会への参加だけでなく国政選挙の選挙権・被選挙権も得た。
改正で政治演説や政談集会への参加は認められましたが、政党加入の制限や選挙権・被選挙権の欠如は残りました。
出題元の学習トピックを確認する新婦人協会が解散した後も女性の政治参加要求は続き、1924年には婦人参政権獲得期成同盟が結成された。
市川房枝・久布白落実らは1924年に同盟を結成し、選挙権・被選挙権など政治的権利を正面から求める運動を進めました。
出題元の学習トピックを確認する1925年の普通選挙法は納税資格を撤廃すると同時に、男女とも25歳以上に国政選挙権を認めた。
1925年に選挙権が広がったのは25歳以上の男子で、女性の国政選挙権は第二次世界大戦後まで実現しませんでした。
出題元の学習トピックを確認する大正期の地主・小作関係は全国でほぼ同じで、小作料の割合や支払方法にも地域差はなかった。
小作料の割合、現物納か金納か、貸借慣行などには大きな地域差があり、農村問題を全国一律に説明することはできません。
出題元の学習トピックを確認する1920年代の小作争議では、小作料の減免や土地取上げ反対を個人だけでなく集団で要求し、小作人組合をつくる動きが広がった。
戦後不況などを背景に、個別の願いから組織された集団交渉へと争議の形が変化しました。
出題元の学習トピックを確認する1922年に結成された日本農民組合は、創立時から地主との協調を一切否定し、徹底した階級闘争だけを掲げていた。
結成当初には地主と小作人の協調を重視する要素もあり、その後の争議激化とともに小作人の要求をより強く代表するようになりました。
出題元の学習トピックを確認する小作争議では賃金だけでなく、小作料、土地取上げ、耕作を続ける権利など土地所有と農業経営に関わる問題が主要な争点となった。
小作農にとって土地は生活と経営の基盤であり、都市の労働争議とは異なる土地・耕作権の問題が中心にありました。
出題元の学習トピックを確認する1920年代の小作争議によって地主制は全国で一斉に崩壊し、地域差なく小作農の問題は解消した。
争議の成果には地域差があり、地主制が全国で一様に消滅したわけではありません。重要なのは小作人の組織化と集団交渉の拡大です。
出題元の学習トピックを確認する明治初期に旧来の身分制度が法令上廃止されたことで、部落差別も社会からただちに消滅した。
法制度が変わった後も、出身や居住地などを理由とする偏見や差別的慣行、不利益や排除は社会に残りました。
出題元の学習トピックを確認する全国水平社を準備した人々は、外部から一方的に改善される対象ではなく、差別を受ける当事者自身が解放の主体になることを重視した。
西光万吉・阪本清一郎らは、当事者が自ら組織し、差別を生み出す社会に対して声を上げる運動を目指しました。
出題元の学習トピックを確認する1922年の水平社宣言と綱領は、差別問題を外部の慈善家に任せ、当事者は保護を受けるべきだとする考えを中心に据えた。
宣言と綱領は、当事者自身の行動による解放、人間の尊厳、経済・職業上の自由を前面に掲げました。
出題元の学習トピックを確認する全国水平社は差別的な言動や扱いを個人だけの問題として受け流さず、地方組織を広げながら組織的に抗議した。
全国水平社は各地に組織を広げ、差別を社会的問題として認識させるため組織的な抗議を行いました。
出題元の学習トピックを確認する1922年に全国水平社が創立されたことで部落差別は解消し、その後は解放運動を続ける必要がなくなった。
全国水平社の成立は当事者主体の運動の重要な出発点でしたが、差別は残り、解放運動はその後も長く続きました。
出題元の学習トピックを確認する第一次世界大戦後に再活発化した社会主義運動は、参加者が全員同じ思想と組織方針を持つ一つの運動として再出発した。
労働組合重視、無政府主義、ボルシェビキ革命重視、議会利用など複数の立場が並存していました。
出題元の学習トピックを確認する日本社会主義同盟は無政府主義系やボルシェビキ系など異なる潮流を含む幅広い結集で、単一綱領の政党ではなかった。
内部の思想的対立に加えて国家の取締りもあり、1921年には結社禁止となって短期間で解体しました。
出題元の学習トピックを確認する1922年に日本共産党が結成されると、日本社会主義同盟に関わった社会主義者はすべて同党へ合流した。
日本共産党はコミンテルンと結びついた非合法の共産主義政党で、無政府主義者や社会民主主義者などは異なる道を選びました。
出題元の学習トピックを確認する無産政党は労働者・農民の要求を合法的な議会政治へ持ち込もうとする動きから形成され、日本共産党と同一の組織ではなかった。
1926年の労働農民党などは合法的な議会政党を目指し、当初は共産主義者を排除する方針もとっていました。
出題元の学習トピックを確認する大正末期の社会主義運動の再編とは、社会主義・共産主義・無産政党が日本共産党一つへ統一されたことを意味する。
実際には非合法の日本共産党、合法的議会進出を目指す無産政党、無政府主義など複数の思想と組織形態へ分化しました。
出題元の学習トピックを確認するワシントン会議は海軍の主力艦保有量だけを話し合う会議で、中国や太平洋をめぐる国際問題は扱わなかった。
会議では海軍軍縮に加えて、太平洋の島嶼権益、中国の主権・門戸開放、山東問題なども協議されました。
出題元の学習トピックを確認する四カ国条約は日英同盟を拡大した相互防衛軍事同盟で、加盟国に自動的な参戦義務を課した。
四カ国条約は太平洋問題で紛争や脅威が生じた際に協議する枠組みで、相互防衛を約束する軍事同盟ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認するワシントン海軍軍縮条約は主として主力艦などを対象とし、海軍のあらゆる艦種・能力を5対5対3へ固定した条約ではなかった。
米英日の5対5対3は主力艦総トン数などの制限であり、海軍力全体を単一比率で固定したものではありません。
出題元の学習トピックを確認する九カ国条約が中国の主権や門戸開放を確認したことで、列強が中国で持っていた既存の権益はすべて直ちに廃止された。
九カ国条約は共通原則を確認しましたが、列強の既存権益を全面的に消滅させたわけではなく、強制力にも限界がありました。
出題元の学習トピックを確認するワシントン体制とは一つの条約名ではなく、四カ国条約・五カ国条約・九カ国条約などを基盤とした1920年代の国際協調の枠組みを指す。
軍備制限、多国間協議、中国をめぐる原則など複数の取り決めが組み合わさって形成された国際秩序です。
出題元の学習トピックを確認する関東大震災では通信・交通の被害によって正確な情報が不足し、断片的な伝聞や流言が広がりやすい条件が生まれた。
政府・自治体・警察も被害の全貌をすぐ把握できず、情報の断絶が社会不安と流言の拡散を強めました。
出題元の学習トピックを確認する震災直後に広がった朝鮮人の組織的な放火・暴動という流言は、当時の司法省調査によって事実であったと確認された。
内閣府報告書が紹介する司法省調査では、流言にあったような組織的蜂起や放火を裏づける事実は確認されていません。
出題元の学習トピックを確認する震災後の朝鮮人などへの殺傷は自警団だけが行い、軍隊や警察が関与した事例は確認されていない。
公的記録には軍隊や警察の一部が直接殺傷に関与した事例や、官憲と民間人が共同した事例も確認されています。
出題元の学習トピックを確認する亀戸事件・甘粕事件は朝鮮人・中国人などへの殺傷事件と同一ではないが、非常時に国家機関による違法な殺害が生じたことを示す。
亀戸事件では軍隊が社会主義者らを、甘粕事件では憲兵が大杉栄らを殺害しました。民族的流言を背景とする殺傷とは区別して理解する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する1927年の金融恐慌は震災手形だけが原因であり、第一次世界大戦後から続く企業・銀行の問題は関係しなかった。
震災手形問題は重要な前提の一つですが、戦後から続く不良債権や経済構造上の問題も重なっていました。
出題元の学習トピックを確認する原敬の暗殺後には高橋是清が政友会総裁・首相を継いだため、暗殺直後からただちに政党内閣が消えたわけではない。
高橋是清は原内閣の政策を継承しようとしましたが、政友会内の対立をまとめきれず、1922年6月に内閣は総辞職しました。
出題元の学習トピックを確認する加藤友三郎内閣や第2次山本権兵衛内閣は、憲法上の規定により衆議院多数党の党首が首相となって成立した政党内閣だった。
両内閣は政党外の人物を首班とする非政党内閣でした。当時の憲法は、内閣が衆議院多数党を基盤に成立する仕組みを定めていませんでした。
出題元の学習トピックを確認する第二次護憲運動では、憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が、衆議院の政党を基盤とする内閣を求めた。
清浦内閣が貴族院を主な基盤としていたことへの反発から、護憲三派は政党内閣を求めて運動を展開しました。
出題元の学習トピックを確認する1924年5月の総選挙では清浦内閣を支える勢力が大勝し、清浦内閣はその後も政権を維持した。
総選挙では護憲三派が大勝し、清浦内閣は6月に総辞職しました。その後、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立しました。
出題元の学習トピックを確認する1924年以後、衆議院多数党の党首が自動的に首相となる仕組みが憲法上確立し、元老や貴族院の影響はなくなった。
政党内閣は政治的慣行として定着しましたが、首相選定には元老などが関与し、貴族院も大きな権限を持っていました。現在と同じ議院内閣制が憲法上成立したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する日米紳士協約は日本からの新規労働移民を大幅に制限したが、アメリカ社会の人種的偏見や土地・市民権をめぐる差別まで解消したわけではない。
紳士協約は日本政府による旅券発給の自主制限を中心とする仕組みで、在米日本人への差別制度や排斥運動はその後も続きました。
出題元の学習トピックを確認する西海岸の排日運動は新たに来る労働者の人数だけを問題にしており、在米日本人の土地利用や家族形成は争点にならなかった。
排斥運動は土地所有・賃借や家族形成、定住そのものにも向けられ、カリフォルニアでは外国人土地法による規制が強まりました。
出題元の学習トピックを確認する日本政府が1920年に「写真花嫁」への旅券発給を停止すると、アメリカ側の排日的立法を求める動きは収まり、移民問題は解決した。
旅券発給停止後も移民排斥運動は続き、問題は州レベルの土地法から1924年の連邦移民法へと進みました。
出題元の学習トピックを確認する1924年移民法で日本からの新規移民が事実上排除された仕組みは、国別割当の数字だけではなく、日本人が当時「帰化資格を持たない外国人」とされたことに関係していた。
日本人に直接作用したのは、アメリカ国籍取得資格を持たない外国人の移民入国を原則認めない規定でした。
出題元の学習トピックを確認する1924年移民法によって、帰国者や非移民を含むあらゆる日本人のアメリカ入国が例外なく禁止された。
法律には帰国者や一部の非移民などの例外があり、中心的な変化は日本からの新規移民が原則として排除されたことです。
出題元の学習トピックを確認する幣原外交はワシントン体制の維持と英米などとの協調を重視し、戦後不況下で貿易市場を安定させるという経済外交の側面も持っていた。
幣原はワシントン諸条約の精神を外交の基盤とし、英米・中国との安定した関係と貿易拡大を重視しました。
出題元の学習トピックを確認する幣原の対中国「内政不干渉」は、日本が満州を含む中国で持っていた条約上の権益を放棄する方針を意味した。
内政不干渉は中国の政権争いへの直接介入をできるだけ避ける方針であり、日本の既存権益を維持すること自体は前提とされていました。
出題元の学習トピックを確認する五・三〇事件後、幣原はイギリスとの協調をやめ、日本だけが中国側へ接近する方針へ転換した。
幣原は日本だけがイギリスから離れることを避け、日英米など関係国との協調によって問題を処理しようとしました。
出題元の学習トピックを確認する郭松齢事件では、幣原が不干渉を掲げていても、日本の権益への警戒から中央政府が兵力増派を決定し、方針の限界が表れた。
満州の現状変化への警戒から兵力増派が決まり、不干渉の原則と権益保護の間の矛盾が表面化しました。
出題元の学習トピックを確認する幣原外交は「平和外交」であったため、日本の中国権益を考慮せず、軍や現地機関も一貫して外務省の不干渉方針に従った。
幣原外交は既存権益を前提としており、関東軍など現地機関が外務省方針と異なる動きをすることもありました。国際協調と権益保護の矛盾を併せて理解する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する1925年の衆議院議員選挙法改正は納税資格を撤廃し、原則として25歳以上の男子へ選挙権を広げた。
財産の多少と投票資格を直接結びつける納税要件が撤廃され、有権者は大幅に増加しました。
出題元の学習トピックを確認する1925年の男子普通選挙法によって、25歳以上であれば男女ともに衆議院議員選挙の選挙権を得た。
選挙権は原則25歳以上の男子に限られ、女性は選挙権から除外されました。欠格規定も残っていました。
出題元の学習トピックを確認する1925年制定時の治安維持法は、「国体」の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社の組織・加入などを処罰対象とした。
制定時の治安維持法は、共産主義運動を主要な対象として、特定の政治目的を持つ結社やその参加者への取締りを強める法律でした。
出題元の学習トピックを確認する男子普通選挙法と治安維持法は、同じ議会で成立したため、法的目的も対象も同じ一つの政策だった。
普通選挙法は選挙資格を拡大する制度改革、治安維持法は特定の政治目的を持つ結社・活動を取り締まる治安立法であり、目的と対象は異なります。
出題元の学習トピックを確認する男子普通選挙法が成立した1925年のうちに、同法にもとづく最初の衆議院総選挙が実施された。
男子普通選挙法にもとづく最初の衆議院総選挙は1928年、昭和に入ってから行われました。
出題元の学習トピックを確認する大正期の都市化は消費生活の拡大だけでなく、住宅不足や衛生・交通・貧困など新たな都市問題も生み出した。
人口と事業所の都市集中は新しい就業・消費機会を生む一方、住宅不足や生活不安などの問題も伴いました。
出題元の学習トピックを確認する「職業婦人」と呼ばれる女性が増えたことは、職種・賃金の男女差や結婚後の就業をめぐる社会規範がすでに解消していたことを示す。
女性の新しい職業進出は進みましたが、職種や賃金には男女差があり、結婚後の就業を当然視しない規範も強く残っていました。
出題元の学習トピックを確認する鉄道・市電などの都市交通と百貨店の発達は、人々の移動範囲と商業圏を広げ、多数の都市住民を消費市場へ結びつけた。
交通網は住宅地と都心を結び、百貨店は商品販売だけでなく食堂・催事・文化紹介も備える都市の消費・娯楽空間となりました。
出題元の学習トピックを確認する大正期の新聞・雑誌・映画・レコードは地域ごとに別々の文化を強めただけで、遠く離れた人々が同じ話題やスターを共有する仕組みにはならなかった。
大量発行・産業化したメディアや娯楽は、同じ事件・流行・スターを多数の人々が共有する大衆文化の形成を促しました。
出題元の学習トピックを確認する1925年に放送が始まると、大正末までにラジオ受信機は全国の家庭へほぼ一様に普及し、地域差や所得差はなくなった。
大正末の時点でラジオが全国の家庭へ普及していたわけではなく、社会的影響が本格的に拡大するのは昭和期です。
出題元の学習トピックを確認する白樺派の作家たちは、作品の方法や社会観までほぼ同じで、単一の思想体系にもとづいて創作していた。
白樺派には個性や人格を重視する傾向がありましたが、志賀直哉・武者小路実篤・有島武郎らの作品観や社会への関心には大きな違いがありました。
出題元の学習トピックを確認する森鷗外の歴史小説・史伝や芥川龍之介らの作品は、大正文学が白樺派のような個人の内面表現だけではなく、多様な方法へ広がっていたことを示す。
鷗外は歴史上の人物・事件を通して人間を描き、芥川らは古典や歴史素材を近代的な心理や構成で再解釈しました。
出題元の学習トピックを確認するプロレタリア文学は社会主義・共産主義の政治運動そのものであり、文学として独自に扱うべき主題や表現上の課題はなかった。
政治運動との関係は深いものの、何を描き、どの読者へ届けるかという文学固有の課題を持つ文化運動として区別する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する『文藝時代』に集まった新感覚派の作家は、全員が同じ文学上の立場と同一の文体を共有していた。
新感覚派には文学上の立場の違いがありました。共通していたのは、既存の写実や文体だけに依存せず新しい表現方法を探った点です。
出題元の学習トピックを確認する民藝運動は、著名作家の一点物だけでなく、地域の生活のなかで無名の職人が繰り返し作ってきた日常の工芸品にも美を見いだした。
柳宗悦らは器・布・木工品など、用途・材料・技術から生まれる日常の工芸の美を見直し、『民藝』として価値づけました。
出題元の学習トピックを確認する大正自由教育は、文部省が全国の小学校へ同じ教育方法を一斉に導入した制度改革だった。
大正自由教育は児童の個性・自発性を重視する多様な実践の運動で、学校や教育者によって方法は異なり、従来型の教育も広く続いていました。
出題元の学習トピックを確認する1918年の大学令は、公立・私立大学や単科大学を制度上認めた一方、設置には認可や一定の要件を求め、国家の監督下で大学制度を広げた。
大学令は大学の設置主体と形態を多様化しましたが、私立大学には設備・基本財産などの要件があり、自由に設立できる制度ではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する1920年代に大学の数が増えたことで、学歴・学費・居住地などに関係なく同世代の誰もが大学へ進学できるようになった。
大学の選択肢は増えましたが、中等教育などの学歴、学費、居住地といった進学上の壁は残っていました。
出題元の学習トピックを確認する理化学研究所の設立には、第一次世界大戦中の輸入制約も背景となり、大学とは別の組織で基礎科学と産業応用を結びつける狙いがあった。
医薬品や工業原料の輸入停滞は国内研究の必要性を強く意識させ、理研は物理・化学の基礎研究と産業への応用を進める研究基盤となりました。
出題元の学習トピックを確認する『赤い鳥』は学校制度そのものを改革するための法令・制度であり、大正自由教育と同じ教育改革運動そのものだった。
『赤い鳥』は児童雑誌で、学校制度を改革する制度ではありません。ただし子どもの個性・感性・表現を尊重する価値観は大正自由教育とも重なっていました。
出題元の学習トピックを確認する1910〜1926年の第一期北海道拓殖計画は、農地造成・土地改良・治水・道路や鉄道などの基盤整備を進め、大正期の北海道社会を大きく変えた。
第一期北海道拓殖計画は大正期のほぼ全体を通じて続き、移住・農業生産・市場への接続を支える基盤整備を進めました。
出題元の学習トピックを確認する拓殖政策による農地拡大は、戦後恐慌や自然条件の影響を受けず、移住した農家すべてに安定した成功を保証した。
大戦期に利益を得た地域がある一方、戦後の農産物価格下落で離農する農家もあり、冷害・湿害など自然条件の影響も受けました。
出題元の学習トピックを確認する近代の北海道開発は、それ以前に社会や土地利用が存在しなかった無人の土地を初めて利用する過程だった。
北海道にはアイヌ民族が長く暮らし、狩猟・漁撈・採集・交易を組み合わせて独自の社会と文化を形成してきました。
出題元の学習トピックを確認する北海道旧土人保護法は、アイヌ民族の従来の土地利用や生業を権利として回復し、生活上の不利を十分に解消した。
支援規定はありましたが、下付地の条件や農業支援には限界があり、従来の土地利用・生業の権利回復より農業への転換と制度への編入を進める性格を持っていました。
出題元の学習トピックを確認する大正期にも日本語教育など同化政策の圧力は続いたが、それによってアイヌ文化が完全に消滅したと捉えるのは適切ではない。
政策上の制約のなかでも文化は家族・地域で継承され、後の文化・権利を守る運動にもつながりました。国家政策の圧力と民族自身の主体性の双方を見る必要があります。
出題元の学習トピックを確認する大正期に本土と共通する行政・政治制度の適用が進んでも、沖縄の産業構成や交通条件など地域経済の差が自動的に解消されたわけではない。
制度の共通化と経済条件の均衡は別の問題で、島嶼性や特定作物への依存など沖縄固有の条件は残りました。
出題元の学習トピックを確認する糖業を中心とする生産・輸送基盤の整備は沖縄経済を発展させた一方、砂糖価格の変動が地域経済へ大きく波及する構造も強めた。
第一次世界大戦期には砂糖景気が起きましたが、1920年の砂糖相場暴落は農家収入や商業、購買力へ広く影響しました。
出題元の学習トピックを確認する「ソテツ地獄」は1924年に一度だけ起きた事件の固有名で、当時の沖縄県民全員が同じ程度の貧困状態にあったことを示す。
「ソテツ地獄」は長期化した深刻な生活困窮を象徴する歴史的呼称で、単一事件ではなく、地域・階層による生活条件の差もありました。
出題元の学習トピックを確認する沖縄からの海外移民は「ソテツ地獄」と呼ばれる不況が始まってから初めて生じ、それ以前には県外・海外へ移る経路はなかった。
沖縄からの海外移民は明治期から始まり、家族・同郷者の人的ネットワークが形成されていました。1920年代の不況は既存の移動経路を利用する動きをさらに強めました。
出題元の学習トピックを確認する不況期の移民・出稼ぎは、困窮から受動的に逃れるだけの行動であり、より高い賃金や送金、親族・同郷者のネットワークを利用する生活戦略という側面はなかった。
移民・出稼ぎには困窮への対応だけでなく、より高い賃金や仕事を求め、送金や既存ネットワークを活用する主体的な生活戦略という側面もありました。
出題元の学習トピックを確認する大正デモクラシーは一つの法律や公式制度名ではなく、護憲運動・政党政治・普通選挙運動や多様な社会運動などの広い変化をまとめて捉える歴史的概念である。
大正期には議会内外で政治参加を広げる複数の運動・制度変化が進み、その全体を歴史的に大正デモクラシーと捉えます。
出題元の学習トピックを確認する1924年以後に政党内閣が続いたことで、衆議院多数党の党首が自動的に首相となり、貴族院・枢密院・元老などの影響がなくなる現在と同じ議院内閣制が完成した。
政党内閣の慣行は強まりましたが、首相選定には元老などが影響し、貴族院・枢密院や軍をめぐる制度も残っていました。
出題元の学習トピックを確認する1925年には男子普通選挙法によって政治参加が拡大する一方、治安維持法も成立し、参加拡大と国家統制の強化が同時期に進んだ。
男子普通選挙法は納税資格を撤廃しましたが女性は対象外で、同じ年には治安維持法が成立しました。大正末政治には民主化と統制の両面がありました。
出題元の学習トピックを確認するワシントン体制と幣原外交によって、中国をめぐる権益問題や日米移民問題など日本の主要な対外緊張は大正末までにほぼ解消した。
国際協調は重要な外交原則でしたが、中国の民族運動と日本の権益、1924年アメリカ移民法などをめぐる緊張は残りました。
出題元の学習トピックを確認する1926年12月25日の昭和改元と同時に、政党内閣・幣原外交・社会運動や大正期からの経済問題は一斉に終わり、政治・社会は断絶した。
改元は暦上の明確な区切りですが、大正期の政党政治・社会運動・国際協調と、その限界や経済不安は昭和初期へ引き継がれました。
出題元の学習トピックを確認する
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