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大正時代1919〜1920年政治・外交重要度 A

パリ講和会議・ベルサイユ体制と国際連盟―戦勝国日本は新しい国際秩序で何を得て、何を得られなかったのかぱりこうわかいぎ べるさいゆたいせいとこくさいれんめい せんしょうこくにほんはあたらしいこくさいちつじょでなにをえて なにをえられなかったのか

一言でいうと

第一次世界大戦の戦勝国となった日本は、1919年のパリ講和会議に西園寺公望・牧野伸顕らを送り、山東の旧ドイツ権益、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島、人種差別撤廃提案を主要課題としました。ベルサイユ条約では山東の旧ドイツ権益を日本へ移す条項が盛り込まれ、南洋諸島についても国際連盟の委任統治制度のもとで日本が統治する道が開かれます。一方、日本が国際連盟規約への挿入を求めた人種差別撤廃提案は、多数の賛成を得ながら採用されませんでした。1920年に国際連盟が発足すると、日本は理事会の常任理事国となり、国際政治上の大国としての地位を制度的に得ました。しかし、中国は山東問題に反発してベルサイユ条約への署名を拒否し、日本自身も朝鮮・台湾などを植民地支配していました。したがって、パリ講和会議を「日本が大国として全面的に認められた成功」や「人種平等を純粋に代表した外交」とだけ捉えることはできません。日本は新秩序から権益と大国としての地位を得る一方、その秩序が掲げた民族自決や人種平等との矛盾も抱えました。

日本はパリ講和会議で何を主要課題にしたのか

1919年1月、第一次世界大戦後の講和条件と新しい国際秩序を決めるパリ講和会議が始まりました。日本は戦勝国として、西園寺公望を首席全権、牧野伸顕・珍田捨巳・松井慶四郎らを全権として代表団を送りました。

日本政府が重視したのは、第一に中国山東省でドイツが持っていた権益の継承、第二に日本軍が占領した赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の処理、第三に国際連盟規約へ人種差別撤廃の原則を盛り込むことでした。

この三つは性格が異なります。前二者は戦争中に得た権益を戦後秩序のなかで国際的に承認させる要求であり、人種差別撤廃提案は日本人移民への差別などを背景に国際原則の変更を求めるものでした。日本外交を理解するには、権益拡大と国際的平等要求が同時に存在したことを見る必要があります。

人種差別撤廃提案は何を求め、なぜ採用されなかったのか

日本代表団は国際連盟規約の作成過程で、人種・国籍による差別をなくす方向の文言を入れるよう交渉しました。最終段階の1919年4月11日、牧野伸顕は規約前文に「各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則」を盛り込む案を提出しました。

採決では出席者16名のうち11名が賛成しました。しかし議長のアメリカ大統領ウィルソンは、重要事項には全会一致が必要だとして採用を認めませんでした。オーストラリアなど移民制限政策を持つ国の強い反対もあり、提案は国際連盟規約に入りませんでした。

この提案には人種差別を国際問題として提起した重要性があります。ただし、日本が植民地支配のもとで朝鮮人・台湾人などを対等な主権国家の国民として扱っていたわけではありません。また、提案の背景には海外日本人への差別への対応や日本の大国としての地位への関心もありました。後世から一方的に美化したり、逆に単なる外交取引と決めつけたりせず、複数の背景をみる必要があります。

人種差別撤廃提案は11対5で単純に『可決されたのに無効にされた』とだけ覚えないことが重要です。国際連盟委員会では11名が賛成しましたが、ウィルソンは重要事項には全会一致が必要と判断し、規約への採用を認めませんでした。

ベルサイユ条約で日本はどのような権益を得たのか

1919年6月28日に調印されたベルサイユ条約べるさいゆじょうやくでは、ドイツが山東で持っていた権益を日本へ移すことが定められました。しかし中国側は、ドイツ権益は中国へ直接返還されるべきだと主張し、決定に強く反発しました。

山東問題への反発は中国の五・四運動を拡大させ、中国代表団は最終的にベルサイユ条約へ署名しませんでした。したがって山東権益の獲得は、日本外交にとって条約上の成果である一方、日中関係の緊張を深める要因でもありました。

太平洋では、日本が大戦中に占領した赤道以北の旧ドイツ領諸島について、日本が国際連盟の委任を受けて統治することになりました。これは単純な日本領への併合ではなく、国際連盟規約に基づく委任統治いにんとうちでした。もっとも、実際の統治は日本の行政・経済・移住政策と密接に結びつき、後の南洋庁による統治へつながります。

国際連盟への参加は日本にどのような地位を与えたのか

ベルサイユ条約に組み込まれた国際連盟規約に基づき、1920年1月に国際連盟が発足しました。国際紛争を協議と集団的な枠組みで処理し、戦争の再発を防ぐことを目指した最初の本格的な国際平和機構でした。

日本はイギリス、フランス、イタリアなどとともに連盟理事会の常任理事国となりました。これは日本が国際秩序の主要な意思決定国の一つとして位置づけられたことを示します。一方、構想を主導したアメリカは上院の反対で連盟に参加せず、新秩序には最初から大きな限界もありました。

日本にとって国際連盟参加は、単に『欧米に認められた』という象徴だけではありません。委任統治や軍縮、国際協力など、その後の外交を多国間制度のなかで進める場を得たことを意味しました。

戦勝国日本は何を得て、どのような矛盾を残したのか

パリ講和会議とベルサイユ体制によって、日本は山東の旧ドイツ権益、南洋諸島の委任統治、国際連盟常任理事国という大国としての地位を得ました。明治期に不平等条約改正を目標としていた日本は、第一次世界大戦後には国際秩序を作る側の一国になったのです。

しかし、人種差別撤廃提案は採用されず、山東問題では中国側の民族自決要求と衝突しました。さらに日本自身が朝鮮・台湾を植民地として統治していたため、『民族自決』や『人種平等』という理念と日本の帝国政策の間には明確な緊張がありました。

このためベルサイユ体制を、日本の外交的成功だけで評価することはできません。日本が大国として制度に参加したことと、その制度の理念を自らの支配地域でどこまで適用したかは別問題でした。なお、1921〜22年のワシントン会議で形成されるワシントン体制は、海軍軍縮や中国・太平洋問題を扱う次の国際秩序であり、ベルサイユ体制とは区別して理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1919年のパリ講和会議に日本は西園寺公望・牧野伸顕らを送り、山東問題・南洋諸島・人種差別撤廃を主要課題とした
  • 牧野伸顕の人種差別撤廃提案は国際連盟委員会で16名中11名の賛成を得たが、ウィルソンが全会一致を必要として採用しなかった
  • ベルサイユ条約は山東の旧ドイツ権益を日本へ移すことを認めたが、中国は反発して条約への署名を拒否した
  • 赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島は国際連盟の委任統治制度のもとで日本が統治することになり、単純な併合ではなかった
  • 1920年に国際連盟が発足し、日本は理事会常任理事国として新しい国際秩序の主要国となった
  • 日本は大国としての地位と権益を得る一方、人種平等・民族自決の理念と自国の植民地支配との矛盾を抱えた

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  1. 問1

    日本のパリ講和会議での主要課題は山東権益だけで、人種差別撤廃提案や南洋諸島の処理は重視されなかった。

  2. 問2

    人種差別撤廃提案は委員会で多数の賛成を得たが、ウィルソンが重要事項には全会一致が必要と判断し、国際連盟規約には採用されなかった。

  3. 問3

    赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島は、ベルサイユ体制のもとで日本領へ正式併合された。

  4. 問4

    1920年に国際連盟が発足すると、日本は理事会の常任理事国となった。

  5. 問5

    パリ講和会議で日本が人種平等を提案したことは、日本の植民地支配と人種平等・民族自決の理念の間に矛盾がなかったことを示す。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 日本が戦勝国としてパリ講和会議に参加する
  2. 日本がパリ講和会議で人種差別撤廃提案を行うが採択されない
  3. ベルサイユ条約が調印され日本が山東の旧ドイツ権益を継承する
  4. 日本が赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得る
  5. 国際連盟が発足し日本が常任理事国となる

Sources

参考資料

  1. 外交史料 Q&A 大正期外務省外交史料館

    パリ講和会議の日本全権団、人種差別撤廃提案の文言・採決・不採用までの経緯を確認

  2. 人種差別撤廃提案とパリ講和会議国立国会図書館サーチ

    提案を利他的主張または外交取引の一方に単純化しないため、近年の研究上の論点を確認

  3. 日本外交文書デジタルコレクション 大正8年(1919年)第3冊上巻外務省外交史料館

    国際連盟創設、山東問題、南洋諸島委任統治、人種差別撤廃問題の外交文書所在を確認

  4. 大正期 日本のあゆみ 年表国立公文書館

    1919年6月28日のベルサイユ条約調印を確認

  5. 日本外交文書デジタルコレクション 大正9年(1920年)第3冊上巻外務省外交史料館

    1920年の国際連盟理事会・総会への日本参加関係史料を確認