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大正時代1919〜1922年政治・外交重要度 A

五・四運動と山東問題―日本の山東権益はなぜ中国の反発を強め、還付へ向かったのかごしうんどうとさんとうもんだい にほんのさんとうけんえきはなぜちゅうごくのはんぱつをつよめ かんぷへむかったのか

一言でいうと

第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は山東省にあったドイツの旧権益を引き継ぐことを求めました。中国代表団は、山東を中国へ直接返還するよう主張しましたが、ベルサイユ条約はドイツの山東権益を日本へ移す内容となります。この決定への反発から1919年5月4日に北京の学生が抗議し、運動は商人・労働者などにも広がりました。五・四運動は日本への反発だけではなく、帝国主義への抵抗、中国政府への批判、政治・文化の刷新を求める動きが重なった全国的運動でした。中国代表団はベルサイユ条約への署名を拒否し、山東問題は未解決の懸案として残ります。その後、ワシントン会議を背景に日中交渉が進み、1922年の山東懸案解決条約で日本は旧ドイツ租借地の膠州湾を中国へ返還し、青島・済南間の鉄道なども中国側へ移すことで合意しました。日本が大戦中に獲得した権益をそのまま維持できなかったのは、中国国内の強い反発に加え、戦後の国際協調の枠組みのなかで日中関係を調整する必要が高まったためです。

パリ講和会議で山東問題はなぜ争点になったのか

1914年に日本が青島を攻略すると、中国の山東省にあったドイツの膠州湾租借地や鉄道・鉱山などの権益を戦後どう処理するかが問題になりました。日本政府は、戦争中の対中交渉や連合国側との取り決めを根拠に、旧ドイツ権益を日本が継承することを求めました。

1919年1月に始まったパリ講和会議ぱりこうわかいぎには、日本も戦勝国の一つとして参加しました。原敬内閣は西園寺公望を首席全権とし、牧野伸顕らを代表団に送り、山東の旧ドイツ権益、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島、人種差別撤廃提案などを主要課題としました。

一方、中国代表団はドイツが山東で持っていた権益を中国へ直接返還するよう求めました。山東は中国領であり、ドイツの権益を日本へ移すことは主権回復にならないという立場です。このため、講和会議は日本と中国の戦後秩序をめぐる対立の場にもなりました。

ベルサイユ条約の決定はなぜ中国側の失望を招いたのか

講和会議では最終的に、日本が山東の旧ドイツ権益を引き継ぐことが認められました。1919年6月28日に調印されたベルサイユ条約べるさいゆじょうやくは、ドイツが山東で持っていた権利・権原・特権を日本へ移す内容を含んでいました。

中国では、第一次世界大戦で連合国側に参加した以上、戦後には山東の主権回復が進むという期待がありました。そのため、日本への権益移転が伝わると、講和会議が掲げた民族自決や公正な国際秩序への期待との落差が強く意識されました。

中国代表団は国内からの強い反対を受け、ベルサイユ条約への署名を拒否しました。したがって山東問題は、ベルサイユ条約の成立だけで日中間の合意として解決したわけではなく、その後の外交交渉へ持ち越されました。

五・四運動はどのように学生運動から全国へ広がったのか

1919年5月4日、北京で学生約3000人が山東問題への抗議集会とデモを行いました。学生たちは山東の返還や二十一か条の要求への反対を掲げ、日本への譲歩を重ねたとみなされた中国政府の要人も批判しました。これが五・四運動ごしうんどうの出発点となります。

北京政府が学生を拘束すると抗議はさらに広がり、上海など各地で学生の授業放棄、商店の休業、日本商品の排斥、労働者のストライキなどが起こりました。運動の担い手は学生だけではなく、商人・労働者を含む都市社会へ拡大しました。

ただし五・四運動を『日本に反対した運動』だけで理解すると不十分です。運動は外国の帝国主義への抵抗と同時に、中国国内の軍閥政治や外交への批判、新文化運動以来の思想・文化の刷新とも結びつきました。国家の独立と社会の改革をどう進めるかという問題が重なったことに重要性があります。

五・四運動は山東問題を直接の契機としましたが、単なる反日運動ではありません。学生から商人・労働者へ広がり、反帝国主義・国内政治批判・文化改革が重なった運動として理解します。

山東問題はなぜ1922年に解決へ向かったのか

ベルサイユ条約後も山東問題は日中間の懸案として残りました。日本側は山東権益の継承を国際的に認められたと考えましたが、中国側では返還要求が続き、日中関係を悪化させる象徴的な問題になりました。

1921年に始まったワシントン会議では、海軍軍縮だけでなく中国をめぐる国際秩序も議論されました。その過程で日本と中国は山東問題について直接交渉し、アメリカなどの関与する国際協調の場のなかで妥協点を探りました。

1922年2月4日、日中両国は山東懸案解決条約さんとうけんあんかいけつじょうやくに調印しました。日本は旧ドイツ租借地の膠州湾を中国へ返還し、青島・済南間の鉄道も一定の条件のもとで中国側へ移すことになりました。これにより、第一次世界大戦中から続いた山東問題は大きく整理されました。

山東問題は日本の対中政策に何を残したのか

日本は第一次世界大戦中、軍事行動と二十一か条の要求を通じて中国での影響力を拡大しました。しかし、戦勝国として条約上の権益を得ることと、中国社会からその権益を正当なものとして受け入れられることは別の問題でした。

五・四運動は、日本の対中政策が中国の民族運動を強く刺激したことを示しました。同時に中国側では、外交問題が都市の大衆運動や思想・文化運動と結びつき、政治参加を広げる契機にもなりました。

1922年の山東還付は、日本が中国での権益拡大を全面的に放棄したことを意味しません。しかし、戦後にはアメリカを中心とする国際協調や中国側の反発を無視して権益を維持することが難しくなりました。この変化は、次に学ぶワシントン体制や幣原外交を理解する前提になります。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1919年のパリ講和会議で日本は山東の旧ドイツ権益の継承を要求し、ベルサイユ条約に盛り込まれた
  • 中国代表団は山東の中国への直接返還を求め、最終的にベルサイユ条約への署名を拒否した
  • 1919年5月4日の北京学生デモを契機に五・四運動が起こり、商人・労働者などにも広がった
  • 五・四運動は反日だけでなく、反帝国主義・国内政治批判・新文化運動以来の社会文化改革と結びついた
  • 1922年の山東懸案解決条約で日本は膠州湾を中国へ返還し、青島・済南間鉄道も中国側へ移すことで合意した
  • 山東問題の解決には中国側の反発だけでなく、ワシントン会議期の国際協調と日中関係調整が作用した

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理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    ベルサイユ条約では、ドイツが山東で持っていた権益を中国へ直接返還することが決められた。

  2. 問2

    中国代表団は山東問題への国内反発を背景に、ベルサイユ条約への署名を拒否した。

  3. 問3

    五・四運動は北京の学生だけで完結し、商人や労働者の運動には広がらなかった。

  4. 問4

    五・四運動は山東問題を契機としつつ、反帝国主義や中国国内政治への批判、文化改革とも結びついた。

  5. 問5

    1922年の山東懸案解決条約では、日本が膠州湾を中国へ返還し、青島・済南間鉄道も中国側へ移す方向で合意した。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 日本が戦勝国としてパリ講和会議に参加する
  2. 中国で五・四運動が起こる
  3. ベルサイユ条約が調印され日本が山東の旧ドイツ権益を継承する
  4. 日中間で山東懸案解決条約が結ばれ山東権益の中国への還付が決まる

Sources

参考資料

  1. 3-7 パリ講和会議国立国会図書館

    パリ講和会議における日本代表団の方針、山東旧ドイツ権益の継承要求を確認

  2. 第1部第3章 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動外務省

    パリ講和会議の山東問題、五・四運動、中国代表団の対応とその後の日中関係を確認

  3. 日中歴史共同研究 第1期報告書 近現代史外務省

    中国側から見た山東問題、五・四運動の広がり、中国代表団のベルサイユ条約署名拒否を確認

  4. アジ歴トピックス 山東懸案解決に関する条約国立公文書館 アジア歴史資料センター

    1922年の山東懸案解決条約に関する史料所在を確認