幣原外交―ワシントン体制のもとで日本は中国・英米とどう協調しようとしたのか
一言でいうと
1924年6月、加藤高明内閣の外務大臣に就任した幣原喜重郎は、第一次世界大戦後に成立したワシントン体制を日本外交の基盤として維持し、英米などとの多国間協調を重視しました。対中国政策では、軍閥間の内戦に特定勢力を支援して介入することを避け、安定した中国との共存共栄をめざす「内政不干渉」を基本方針としました。1925年の五・三〇事件と反帝国主義運動の高揚に際しても、イギリスと対立して日本だけが中国側へ接近するのではなく、日英米など関係国との協調による解決を模索しました。同年の北京関税特別会議では、中国の関税自主権回復要求に理解を示す一方、日本の通商利益を確保するための条件も求めています。また日ソ基本条約によるソ連との国交回復や貿易拡大も進められました。ただし、幣原外交は中国に対して何もしない政策ではありません。日本は満州をはじめ中国各地に既存の権益を持ち、その保護を外交上の前提としていました。郭松齢事件では不干渉を掲げながら派兵が決定され、関東軍など現地機関が中央政府の方針とは異なる行動をとることもありました。1926年に北伐が始まると、中国の民族運動と日本の権益保護をどう両立させるかという矛盾はさらに大きくなります。幣原外交の特徴は、帝国日本の権益を保持したまま、軍事的な単独行動より国際協調・交渉・経済関係によって秩序を安定させようとした点にありました。
なぜ幣原はワシントン体制を外交の基盤にしたのか
幣原喜重郎は駐米大使として1921〜1922年のワシントン会議に全権として参加し、四カ国条約など戦後のアジア太平洋秩序の形成に深く関わりました。1924年6月に加藤高明内閣の外務大臣になると、このワシントン体制を維持することを外交の中心に置きます。
外相就任後最初の議会演説で幣原は、ワシントン諸条約の精神に従う方針を明確にしました。日本がアメリカ・イギリスなどとの軍拡競争や個別対立へ戻るより、多国間の条約と協議の枠内で利害を調整することを重視したのです。
この方針は理念だけではなく、日本経済にも関係していました。第一次世界大戦後の慢性不況のなかで、英米や中国との安定した関係を維持し、貿易市場を広げることは重要な政策課題でした。幣原外交には経済外交という側面もありました。
中国への「内政不干渉」とは何を意味したのか
1920年代半ばの中国では軍閥間の内戦が続いていました。幣原は、特定の軍閥を日本が軍事的に支援して中国政治を左右することは、中国の民族運動を刺激し、列国との協調も壊しかねないと考えました。
1924年の第二次奉直戦争では、日本政府は争いを傍観し内政に干渉しない方針を決めました。幣原にとって、安定した中国との共存共栄は、日本の経済活動や東アジアの秩序を維持するうえでも利益になると考えられていました。
ただし「内政不干渉」は、日本が中国で持つ条約上の権益や満州の権益を放棄するという意味ではありません。日本はそれらを維持することを前提に、中国の政権争いへ直接介入することをできるだけ避けようとしたのです。
五・三〇運動の高揚に幣原外交はどう対応したのか
1925年、中国では上海の五・三〇事件を契機に反帝国主義運動が大きく広がりました。日本企業を含む外国資本への労働争議や不平等条約への反発が結びつき、列強の中国権益そのものが批判の対象になります。
中国国内では特にイギリスへの批判が強まりましたが、幣原は日本だけがイギリスから離れて中国側へ接近することを避け、日英米を中心とする関係国の協調によって事件を処理する方針をとりました。国際協調を対中外交にも適用しようとしたのです。
同年の北京関税特別会議では、中国側が求めた関税自主権の回復に日本は理解を示しました。しかし同時に、日本商品の対中貿易が不利にならないよう互恵的な税率などを求めました。中国の要求を受け入れることと、日本の経済的利益を守ることが並行していた点が重要です。
幣原外交は本当に「不干渉」を貫けたのか
実際の政策は、原則どおりには進みませんでした。1925年の郭松齢事件では、満州の現状が変化して日本の権益が揺らぐことへの警戒から、中央政府も最終的に兵力の増派を決定しました。幣原はなお中立・不干渉だと説明しましたが、軍事力による介入という性格を帯びました。
また、関東軍など中国に駐留する軍や現地機関が、外務省の不干渉方針とは異なる動きをすることもありました。中央政府が協調外交を掲げても、日本の対中政策が完全に一つの方針へ統一されていたわけではありません。
1926年7月に蒋介石率いる国民革命軍が北伐を開始すると、中国の統一運動と反帝国主義運動はさらに拡大しました。幣原は大正期には内政不干渉を維持しようとしましたが、在留日本人や権益の保護をどうするかという問題は、昭和初期へ持ち越されます。
幣原外交の「協調」と「不干渉」は、日本の中国権益を放棄する政策ではありません。既存権益を維持しながら、単独軍事行動より条約・多国間協議・経済関係によって秩序を安定させようとした外交でした。
幣原外交は1920年代の日本外交で何を示したのか
幣原外交は、ワシントン体制を受け入れ、英米との協調を外交の制約ではなく日本の利益を実現する枠組みとして利用しようとした政策でした。1925年の日ソ基本条約による国交回復も、東アジアの国際関係を安定させる試みの一つでした。
対中国政策でも、軍閥への直接的な軍事介入を避け、中国側の関税自主権要求などに一定の理解を示しました。その一方、日本企業の貿易条件や満州を含む既存権益を守ることは放棄しませんでした。
したがって幣原外交を「平和外交だったから中国に介入しなかった」とだけ覚えるのは不十分です。重要なのは、帝国日本の権益を前提としながらも、それを軍事的な単独行動ではなく国際協調と交渉によって維持しようとしたこと、そしてその方針が中国民族運動の拡大や軍の独自行動によって次第に難しくなったことです。
Review
入試で押さえるポイント
- 1924年に外相となった幣原喜重郎は、ワシントン諸条約の遵守と英米などとの国際協調を外交の基盤にした
- 対中国政策では軍閥間の内戦への内政不干渉を掲げ、安定した中国との共存共栄をめざした
- 五・三〇事件後も日英米など関係国との協調を重視し、北京関税特別会議では中国の関税自主権要求への理解と日本の通商利益確保を両立させようとした
- 幣原外交は中国における日本の既存権益を放棄したものではなく、郭松齢事件では不干渉を掲げながら派兵決定に至るなど矛盾もあった
- 1926年の北伐開始によって、中国の民族運動と日本の権益保護をめぐる緊張はさらに強まり、問題は昭和初期へ持ち越された
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
幣原外交はワシントン体制の維持と英米などとの協調を重視し、戦後不況下で貿易市場を安定させるという経済外交の側面も持っていた。
幣原はワシントン諸条約の精神を外交の基盤とし、英米・中国との安定した関係と貿易拡大を重視しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
幣原の対中国「内政不干渉」は、日本が満州を含む中国で持っていた条約上の権益を放棄する方針を意味した。
内政不干渉は中国の政権争いへの直接介入をできるだけ避ける方針であり、日本の既存権益を維持すること自体は前提とされていました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
五・三〇事件後、幣原はイギリスとの協調をやめ、日本だけが中国側へ接近する方針へ転換した。
幣原は日本だけがイギリスから離れることを避け、日英米など関係国との協調によって問題を処理しようとしました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
郭松齢事件では、幣原が不干渉を掲げていても、日本の権益への警戒から中央政府が兵力増派を決定し、方針の限界が表れた。
満州の現状変化への警戒から兵力増派が決まり、不干渉の原則と権益保護の間の矛盾が表面化しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
幣原外交は「平和外交」であったため、日本の中国権益を考慮せず、軍や現地機関も一貫して外務省の不干渉方針に従った。
幣原外交は既存権益を前提としており、関東軍など現地機関が外務省方針と異なる動きをすることもありました。国際協調と権益保護の矛盾を併せて理解する必要があります。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 特別展示「幣原外交の時代」展示史料解説外務省外交史料館
幣原のワシントン会議参加、1924年の外相就任、ワシントン体制維持、内政不干渉、日ソ基本条約、経済外交の全体像を確認
- 第一次外相時代―中国安定化の模索外務省外交史料館
第二次奉直戦争、五・三〇事件、北京関税特別会議、郭松齢事件、北伐への対応と、不干渉政策の限界を確認
- 第一次外相時代―ワシントン体制の擁護者として外務省外交史料館
1924年6月の外相就任と、ワシントン諸条約の精神を外交基調とした議会演説を確認
- 第一次外相時代―貿易の多角化を目指して外務省外交史料館
戦後不況への対応として新市場開拓・通商条約を重視した経済外交の側面を確認