原敬暗殺から第二次護憲運動・政党内閣へ―政党政治はなぜ一度後退し、再び政権の中心となったのか
一言でいうと
1918年に成立した原敬内閣は、衆議院に多数を持つ立憲政友会を基盤とする本格的な政党内閣でした。しかし1921年11月に原が暗殺されると、政友会総裁を継いだ高橋是清の内閣は党内対立によって短命に終わり、その後は加藤友三郎・第2次山本権兵衛と非政党内閣が続きました。1924年1月には、枢密院議長だった清浦奎吾が貴族院を主な基盤として組閣します。これに対し憲政会・政友会・革新倶楽部は護憲三派を組み、衆議院の政党を基礎とする内閣を求めて第二次護憲運動を展開しました。5月の総選挙で護憲三派が大勝すると清浦内閣は退陣し、6月に憲政会総裁の加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立します。以後、1932年の五・一五事件まで、衆議院の有力政党を基盤とする政党内閣が続く慣行が強まりました。ただし、これは憲法上、衆議院多数党の党首が自動的に首相となる議院内閣制が確立したことを意味しません。元老による首相推薦、天皇の任命、貴族院などの影響力は残っていました。
原敬の暗殺は政党政治に何をもたらしたのか
1921年11月4日、原敬は東京駅で暗殺されました。原は立憲政友会総裁として衆議院多数党を基盤に内閣を組織しており、その死は政党政治の指導体制を大きく揺るがしました。
後継の政友会総裁・首相には高橋是清が就き、原内閣の政策を継承しようとしました。そのため、原の暗殺直後からただちに政党内閣が消えたわけではありません。
しかし高橋は政友会内部をまとめきれず、党内対立から1922年6月に内閣は総辞職します。原という強い党指導者を失ったことで、政友会を中心とする政党内閣は安定を失いました。
なぜ非政党内閣が続いたのか
高橋内閣の後には加藤友三郎内閣、第2次山本権兵衛内閣が続きました。これらは衆議院の多数政党の党首が首相となる政党内閣ではなく、政党外の人物を首班とする、いわゆる中間内閣でした。
当時の大日本帝国憲法では、内閣が衆議院の信任にもとづいて成立する制度は定められていませんでした。首相選定には元老などの判断が大きな影響を持ち、衆議院で政党勢力が拡大しても、政党内閣が制度上保証されていたわけではありません。
したがって原内閣の成立だけで政党政治が不可逆的に確立したのではなく、政党が政権を担当するかどうかは政治的な力関係と慣行に左右されていました。
清浦内閣はなぜ第二次護憲運動を引き起こしたのか
1924年1月、枢密院議長だった清浦奎吾が首相となり、貴族院議員を中心に内閣を組織しました。衆議院の主要政党を内閣の基盤としないこの政権に対し、政党側の反発が強まりました。
憲政会・政友会・革新倶楽部は護憲三派を結成し、第二次護憲運動を展開しました。第一次護憲運動が桂太郎内閣に対して「憲政擁護・閥族打破」を掲げたのに対し、第二次護憲運動では、衆議院の政党を基盤とする政党内閣を求めることが重要な争点となりました。
清浦内閣は衆議院を解散し、政党内閣をめぐる争いは1924年5月の総選挙で有権者の判断を問う形になりました。なお、この選挙は1925年の男子普通選挙法成立前であり、まだ納税資格による選挙権制限が残っていました。
1924年総選挙はなぜ政党内閣の復活につながったのか
1924年5月の総選挙では護憲三派が大勝し、清浦内閣は6月に総辞職しました。第一党となった憲政会の総裁・加藤高明が首相となり、政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅も入閣する護憲三派内閣が成立しました。
ここで重要なのは、政党が単に議会で議席を増やしただけでなく、総選挙の結果を背景に政権を交代させたことです。衆議院の政党勢力と内閣の構成を結びつける政治的な慣行が強まりました。
加藤高明内閣は翌1925年、男子普通選挙法や治安維持法など重要な法制度を成立させますが、その内容は後のTopicで扱います。このTopicでは、1924年に政党内閣が再び政権の中心へ戻った点を押さえます。
1924年以後は完全な議院内閣制になったのか
加藤高明内閣以後、衆議院の有力政党を基盤とする内閣が続き、政権交代でも政党勢力が重視されるようになりました。この時期の慣行は後に「憲政の常道」と呼ばれます。
しかし、現在の議院内閣制と同じ制度が成立したわけではありません。首相は衆議院が直接選出するのではなく、元老の推薦などを経て任命されました。また、貴族院は衆議院と並ぶ帝国議会の一院として法律・予算審議に大きな権限を持っていました。
大正期の政党政治の到達点は、憲法そのものが変わったことではなく、衆議院の政党を無視して安定した内閣をつくることが難しくなり、政党内閣が政治的慣行として定着していったことにあります。
1924年は政党内閣が政治的慣行として再定着する転換点ですが、衆議院多数党の党首が自動的に首相となる制度が憲法上確立したわけではありません。
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入試で押さえるポイント
- 1921年11月4日に原敬が暗殺され、高橋是清が政友会総裁・首相を継いだが党内対立で高橋内閣は短命に終わった
- 高橋内閣後は加藤友三郎・第2次山本権兵衛など非政党内閣が続き、政党政治は一時後退した
- 1924年の清浦内閣に対し憲政会・政友会・革新倶楽部が護憲三派を組み、第二次護憲運動を展開した
- 1924年5月総選挙で護憲三派が大勝し、6月に加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した
- 1924年以後は政党内閣の慣行が強まったが、元老・貴族院などの影響は残り、現在と同じ議院内閣制ではなかった
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- 問1
原敬の暗殺後には高橋是清が政友会総裁・首相を継いだため、暗殺直後からただちに政党内閣が消えたわけではない。
高橋是清は原内閣の政策を継承しようとしましたが、政友会内の対立をまとめきれず、1922年6月に内閣は総辞職しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
加藤友三郎内閣や第2次山本権兵衛内閣は、憲法上の規定により衆議院多数党の党首が首相となって成立した政党内閣だった。
両内閣は政党外の人物を首班とする非政党内閣でした。当時の憲法は、内閣が衆議院多数党を基盤に成立する仕組みを定めていませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
第二次護憲運動では、憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が、衆議院の政党を基盤とする内閣を求めた。
清浦内閣が貴族院を主な基盤としていたことへの反発から、護憲三派は政党内閣を求めて運動を展開しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1924年5月の総選挙では清浦内閣を支える勢力が大勝し、清浦内閣はその後も政権を維持した。
総選挙では護憲三派が大勝し、清浦内閣は6月に総辞職しました。その後、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1924年以後、衆議院多数党の党首が自動的に首相となる仕組みが憲法上確立し、元老や貴族院の影響はなくなった。
政党内閣は政治的慣行として定着しましたが、首相選定には元老などが関与し、貴族院も大きな権限を持っていました。現在と同じ議院内閣制が憲法上成立したわけではありません。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 3-10 政友会内閣国立国会図書館
1921年11月4日の原敬暗殺、高橋是清の後継首相・政友会総裁就任、高橋内閣と政友会の内紛を確認
- 3-12 第2次護憲運動国立国会図書館
清浦内閣、護憲三派、1924年総選挙、加藤高明護憲三派内閣とその後の政党内閣の継続を確認
- 清浦内閣と第二次護憲運動国立国会図書館サーチ
非政党内閣から清浦内閣、護憲三派による政党内閣要求という政治史上の位置づけを確認
- 第24代 加藤高明首相官邸
加藤高明内閣の成立日と閣僚構成を確認