米騒動から原敬政党内閣へ―物価高への大衆運動はなぜ政権交代につながったのか
一言でいうと
大戦景気のもとで物価が上昇するなか、1918年には米価が急騰し、人々の生活を強く圧迫しました。7月に富山県沿岸で米の県外移出阻止や安売りを求める動きが起こり、新聞報道を通じて8月には全国へ拡大します。参加者は漁村の女性だけではなく、都市の労働者、日雇い労働者、鉱山労働者、農民など多様で、地域によって要求や行動も異なりました。寺内正毅内閣は米の廉売や輸入などを進めましたが、米価対策への不満に加えて報道統制への反発も強まり、米騒動は政府への大規模な政治的圧力となります。寺内内閣は9月に総辞職し、立憲政友会総裁の原敬が首相となりました。原内閣は外務・陸軍・海軍大臣を除く閣僚を政友会員で構成し、初の本格的政党内閣と評価されます。ただし、米騒動だけが機械的に原内閣を生んだのではなく、寺内首相の健康問題、元老による後継首相選定、西園寺公望の辞退などを経て政党総裁の原へ組閣が命じられました。原は爵位を持たず衆議院議員だったため「平民宰相」と呼ばれましたが、普通選挙を直ちに実現したわけではなく、民主政治が完成したわけでもありません。1921年の原暗殺まで続いた政党内閣は、大衆運動の政治的影響力と政党政治の拡大を示す一方、帝国憲法下の政治参加にはなお大きな制限が残っていたことも示しています。
大戦景気のなかで、なぜ米価だけが大きな政治問題になったのか
第一次世界大戦中、日本では輸出と企業活動が拡大する一方、物価も急上昇しました。米は多くの家庭にとって毎日の生活に直結する主食だったため、米価の上昇は低所得層や賃金生活者の家計を直接圧迫しました。
1918年には、一般物価の上昇に加え、米穀商や地主による投機的な買い占め、シベリア出兵を見越した思惑などが重なり、米価が急騰しました。寺内正毅内閣は外米の輸入や米の廉売などを行いましたが、値上がりを十分に抑えられず、政府の対応への不満が強まります。
ここで重要なのは、米価高騰を単に『米が不足したから』と説明しないことです。大戦期のインフレ、流通・投機、出兵をめぐる予想、政府の価格対策への不信が重なって社会問題化しました。
米騒動はどのように全国へ広がったのか
1918年7月、富山県魚津などの沿岸部で、住民が米の県外移出を止めることや安値で販売することを求める動きを起こしました。漁業で男性が地域を離れることが多かったため女性の参加が目立ち、後に『越中の女房一揆』とも呼ばれました。
しかし、全国へ広がった米騒動を女性だけの運動とみるのは不正確です。新聞報道を通じて8月には都市・農村・炭鉱など各地へ波及し、労働者、日雇い、農民、鉱山労働者など多様な人々が参加しました。値下げ要求、米商への抗議、商店への押しかけ、地域によっては焼き打ちなど、行動の形も一様ではありませんでした。
全国規模で生活問題への抗議が同時多発的に起きたことは、政府に大きな衝撃を与えました。新聞は騒動の広がりを伝え、政府が報道を制限すると新聞社側からも批判が強まり、米価問題は内閣の政治責任を問う問題へ変わっていきました。
米騒動の出発点では富山県沿岸の女性が重要な役割を果たしましたが、全国の参加者を『漁民の女性』だけで代表させるのは不正確です。地域ごとに参加層と行動は異なりました。
米騒動はなぜ寺内内閣の退陣へつながったのか
寺内内閣は米の緊急輸入、廉売、米穀商への対応などを進めましたが、騒動は簡単には収まりませんでした。さらに政府が米騒動の記事掲載を制限すると、新聞・言論界との対立も深まり、内閣への批判が強まりました。
米騒動は、選挙で直接政権を交代させた運動ではありません。それでも、各地の抗議と新聞による内閣批判は、政府が社会の不満を抑えられていないことを示し、寺内内閣への政治的支持を弱めました。国立国会図書館の史料解説でも、米騒動が内閣へ与えた衝撃は大きかったとされています。
ただし、寺内正毅首相は以前から健康問題を抱え辞意を漏らしていました。したがって『米騒動が一つの原因となって寺内内閣が1918年9月に総辞職した』と理解するのが適切で、単一原因で機械的に退陣したとする説明は避ける必要があります。
なぜ後継首相に原敬が選ばれ、本格的政党内閣が成立したのか
寺内内閣退陣後、後継首相の選定では元老の意向がなお重要でした。山県有朋は当初、政党内閣を避けるため西園寺公望の再登板を考えましたが、西園寺が辞退したため、最終的に立憲政友会総裁の原敬へ組閣の大命が下りました。
1918年9月29日に成立した原内閣は、外務・陸軍・海軍大臣を除く閣僚を政友会員で構成しました。このため、政党が衆議院の議席と党組織を基盤に政権運営を担う本格的政党内閣の最初と評価されています。
原自身は爵位を持たず、衆議院に議席を持ったまま首相となった最初の人物でした。そのため『平民宰相』と呼ばれました。ただし、原が民衆の直接投票で首相に選ばれたわけではなく、元老による首相推薦の仕組みも続いていました。政党政治の拡大と、旧来の政治構造の併存を同時に見る必要があります。
原内閣は民主政治をどこまで進め、何を残したのか
原内閣は鉄道・道路などの交通整備、教育機関の拡張、地方利益を取り込む積極政策を進め、政友会の組織基盤を広げました。また1919年の衆議院議員選挙法改正で納税資格を引き下げましたが、普通選挙をただちに採用したわけではありません。
つまり『平民宰相』の登場を、民主化の完成とみなすことはできません。女性には国政選挙権がなく、男性の選挙権にも納税要件が残り、貴族院・枢密院・軍部・元老など衆議院多数だけでは統制できない政治主体も存在しました。
1921年11月4日、原は東京駅で暗殺されました。現職首相の暗殺は政界に大きな衝撃を与え、その後は高橋是清が政友会総裁と首相を継ぎました。原内閣が終わっても政党政治への流れが消えたわけではありませんが、政党内閣が安定して連続する段階にはまだ達していませんでした。
Review
入試で押さえるポイント
- 大戦期のインフレ、投機的買い占め、シベリア出兵をめぐる思惑などを背景に1918年の米価が急騰した
- 米騒動は富山県沿岸から始まり全国へ広がったが、参加者は女性だけでなく労働者・農民・鉱山労働者など多様だった
- 米騒動と政府の対応への批判は寺内内閣を強く揺さぶり、健康問題なども重なって1918年9月に総辞職した
- 1918年9月29日、立憲政友会総裁の原敬が組閣し、外務・陸軍・海軍大臣以外を政友会員とする初の本格的政党内閣となった
- 原敬は爵位を持たず衆議院議員のまま首相となったため『平民宰相』と呼ばれたが、元老による首相推薦や制限選挙は残った
- 原敬は1921年11月4日に東京駅で暗殺され、政党内閣はなお安定して連続する段階にはなかった
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1918年の米価急騰は、単純な米不足だけでなく、大戦期のインフレや投機、シベリア出兵をめぐる思惑などが重なって起こった。
米価問題は物価上昇、流通・投機、出兵予想、政府の価格対策への不信など複数の要因が重なって深刻化しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
米騒動は富山の漁村女性だけによる運動で、全国へ広がった後も参加者の構成は変わらなかった。
富山沿岸では女性が重要な役割を果たしましたが、全国では労働者・日雇い・農民・鉱山労働者など多様な人々が参加しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
寺内内閣の総辞職は米騒動だけで機械的に決まったもので、首相の健康問題など他の事情は関係しなかった。
米騒動と政府批判は大きな圧力でしたが、寺内首相の健康問題なども重なって退陣しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
原敬内閣は外務・陸軍・海軍大臣を除く閣僚を政友会員で構成し、初の本格的政党内閣と評価される。
衆議院の党組織を基盤に政権を担う点で重要な転換でしたが、軍部大臣などは政党外で、元老の首相推薦も残りました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
『平民宰相』原敬の登場によって普通選挙と女性参政権が実現し、帝国憲法下の民主政治は完成した。
原内閣期も納税要件による制限選挙が残り、女性には国政選挙権がなく、元老・貴族院・軍部などの影響力も続きました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 3-6 米騒動国立国会図書館
1918年米価高騰、富山から全国への米騒動の拡大、寺内内閣への影響を確認
- 第1章 風刺漫画から見る大正デモクラシー国立国会図書館
米価高騰の要因、シベリア出兵発表後の上昇、騒動の全国化、報道統制と内閣批判を確認
- 3-8 平民宰相国立国会図書館
寺内退陣後の後継首相選定、1918年9月29日の原内閣成立、本格的政党内閣の構成を確認
- 大正7年(1918)9月 原敬内閣が成立する国立公文書館
原敬の首相任命、爵位を持たず衆議院議員だった点、政友会中心の閣僚構成を確認
- 3-10 政友会内閣国立国会図書館
1921年11月4日の原敬暗殺と、その後の高橋是清への政友会政権継承を確認