大正自由教育・大学令と理化学研究所―教育・学術の拡大は誰にどんな学びと研究の場を広げたのか
一言でいうと
大正期には、初等教育の現場、高等教育制度、専門的な科学研究という異なる領域で、新しい学びと研究の場を広げる試みが進みました。初等教育では、澤柳政太郎が1917年に成城小学校を創設し、児童の自発性を重んじる教育実践を進めるなど、後に大正自由教育・大正新教育と呼ばれる運動が広がります。これは全国の小学校制度が一斉に自由教育へ変わったという意味ではなく、既存の画一的・注入的な教育への批判から生まれた多様な実践でした。高等教育では1918年の大学令によって、帝国大学だけでなく官立の単科大学、公立・私立大学を制度上認める枠組みが整えられ、1920年代には早稲田・慶應義塾をはじめ多くの学校が正式な大学として認可されました。同じ時期、1917年には理化学研究所が設立され、大学とは別に物理学・化学などの基礎研究と産業への応用を進める研究機関が形成されます。1918年創刊の児童雑誌『赤い鳥』も、子どもの感性や創作を重視する文化の広がりと結びつきました。これらは一つの改革ではありませんが、教育を受ける場、大学を設置する主体、研究を職業として進める組織、子どもの表現を支える媒体が多様化したという点で共通しています。ただし、高等教育への進学には学歴・費用・地域などの壁があり、自由教育も一部の学校・教育者による実践でした。教育・学術の『拡大』を、すべての人に同じ機会が開かれたことと同一視してはいけません。
大正自由教育は何を変えようとしたのか
明治期に整備された学校制度は就学を広げましたが、教科書や試験を中心に同じ内容を教える教育に対して、子どもの個性や自発的な活動をもっと重視すべきだという教育思想も強まりました。大正期にはこうした試みが『大正自由教育』『大正新教育』と呼ばれる運動として展開します。
代表的な実践の一つが、澤柳政太郎が1917年に創設した成城小学校です。国立国会図書館は、澤柳が児童の自発性を重んじる新教育運動を主導したと説明しています。教師が知識を一方的に与えるだけでなく、子どもが自ら学び、個性や発達に応じて活動することを重視する考え方でした。
ただし、自由教育は文部省が全国の小学校へ一律に導入した新制度ではありません。学校・教育者によって考え方や実践方法は異なり、従来型の教育も広く続いていました。大正自由教育は、全国一斉の制度変更ではなく、教育の方法と子ども観を問い直した運動として捉える必要があります。
1918年の大学令は大学制度をどう変えたのか
1918年12月6日、大学令が公布されました。それまで大学制度の中心だった帝国大学に加え、官立の単科大学や、公立・私立の大学を正式に認める制度的な枠組みがつくられました。大学令は1919年4月から施行されます。
大学令第4条は、帝国大学その他の官立大学だけでなく、公立・私立大学を設けられることを明記しました。また特別な場合には一つの学部だけを持つ単科大学も認められ、大学という制度の形そのものが多様になります。
ただし私立大学には設備や基本財産など厳しい要件が課され、設置には認可が必要でした。大学令は大学を自由に設立できる制度ではなく、国家の監督下で大学の種類と設置主体を広げる改革でした。
大学の数が増えると高等教育は誰に広がったのか
大学令後、1920年には慶應義塾大学・早稲田大学をはじめ、明治・法政・中央・日本・國學院・同志社などが相次いで大学として認可されました。文部科学省『学制百年史』によれば、大正年間だけでも多くの私立学校が大学への昇格を認められています。
これは、帝国大学だけが大学である状態から、法律・経済・商業・医学などを学ぶ大学が複数の設置主体によって運営される状態への大きな転換でした。高等教育を受ける進路の種類は増え、大学が都市の知識人・専門職を育てる基盤も広がりました。
しかし、大学進学には中等教育や高等学校・予科などの学歴が必要で、学費や居住地などの条件もありました。大学数の増加を、同世代の誰もが大学へ進める『高等教育の大衆化』と同じ意味にすることはできません。
なぜ大学とは別に理化学研究所が必要とされたのか
1917年3月20日、財団法人理化学研究所が東京・駒込に設立されました。その出発点には、1913年に高峰譲吉が、産業発展の基礎となる物理・化学の研究所が日本にも必要だと提唱したことがありました。渋沢栄一や科学者・実業家、政府関係者らが設立を支えました。
第一次世界大戦で欧州から医薬品や工業原料の輸入が滞ったことは、国内で科学研究と化学工業を発展させる必要性を強く意識させました。理研は皇室からの下賜金、政府補助、民間寄付を基礎とし、大学とは異なる形で基礎科学と産業への応用を結びつけようとしました。
1921年に大河内正敏が所長となり、1922年には主任研究員が裁量を持つ研究室制度が始まりました。研究者が継続的に研究を行う独立した組織が発展したことは、大学制度の拡大とは別の意味で、日本の学術研究の基盤が多様化したことを示します。
『赤い鳥』は自由教育とどこでつながったのか
1918年、鈴木三重吉は児童雑誌『赤い鳥』を創刊しました。芥川龍之介、有島武郎、北原白秋ら多くの作家・詩人・画家が参加し、童話・童謡・童画など、子どものための芸術性の高い作品を掲載しました。
『赤い鳥』は学校制度そのものを改革する雑誌ではありませんでしたが、国際子ども図書館は、大正自由教育を背景に子どもの文学・文化の芸術性を高めた媒体として位置づけています。子どもを大人から知識を受け取るだけの存在ではなく、独自の感性や表現を持つ存在として見る文化的な変化が教育運動とも重なっていました。
教育実践と児童文学を同じ運動として扱う必要はありません。ここでの接点は、子どもの個性・自発性・表現を尊重しようとする価値観が、学校の授業だけでなく出版文化にも現れたことにあります。
教育・学術の拡大は社会全体を同じように変えたのか
大正自由教育、大学令、理研、『赤い鳥』は、それぞれ対象も制度も異なります。初等教育の授業方法、大学制度、専門研究機関、児童文化を一つの改革計画としてまとめることはできません。
共通していたのは、近代化が進むなかで従来の学校・研究のあり方だけでは足りないという認識が広がり、学ぶ方法、大学を運営する主体、研究者が活動する組織、子どもが文化に参加する場に新しい選択肢が生まれたことでした。
一方で、その機会は社会全体へ均等に広がったわけではありません。自由教育の実践校は限定され、高等教育には進学上の壁があり、理研も専門研究者の機関でした。大正期の特徴は『誰でも同じ教育を受けられるようになった』ことではなく、教育と学術の制度・実践が以前より多様化したことにあります。
大正期の教育・学術の拡大は一つの制度改革ではありません。児童中心の教育実践、大学設置主体の拡大、専門研究所の成立、児童文化の発展がそれぞれ進み、学びと研究の場が多様化しました。
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入試で押さえるポイント
- 大正自由教育は全国一律の学校制度変更ではなく、児童の個性・自発性を重視した多様な教育実践の運動だった
- 1918年の大学令は官立だけでなく公立・私立大学や単科大学を制度上認め、1920年代の大学拡充につながった
- 大学数の増加は高等教育の選択肢を広げたが、進学資格・費用・地域などの壁があり、誰もが大学へ進める制度ではなかった
- 1917年設立の理化学研究所は、第一次世界大戦による輸入途絶などを背景に、物理・化学の基礎研究と産業応用を進める研究基盤となった
- 1918年創刊の『赤い鳥』は、大正自由教育とも重なる子どもの個性・表現を尊重する文化のなかで近代児童文学を発展させた
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- 問1
大正自由教育は、文部省が全国の小学校へ同じ教育方法を一斉に導入した制度改革だった。
大正自由教育は児童の個性・自発性を重視する多様な実践の運動で、学校や教育者によって方法は異なり、従来型の教育も広く続いていました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1918年の大学令は、公立・私立大学や単科大学を制度上認めた一方、設置には認可や一定の要件を求め、国家の監督下で大学制度を広げた。
大学令は大学の設置主体と形態を多様化しましたが、私立大学には設備・基本財産などの要件があり、自由に設立できる制度ではありませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1920年代に大学の数が増えたことで、学歴・学費・居住地などに関係なく同世代の誰もが大学へ進学できるようになった。
大学の選択肢は増えましたが、中等教育などの学歴、学費、居住地といった進学上の壁は残っていました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
理化学研究所の設立には、第一次世界大戦中の輸入制約も背景となり、大学とは別の組織で基礎科学と産業応用を結びつける狙いがあった。
医薬品や工業原料の輸入停滞は国内研究の必要性を強く意識させ、理研は物理・化学の基礎研究と産業への応用を進める研究基盤となりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
『赤い鳥』は学校制度そのものを改革するための法令・制度であり、大正自由教育と同じ教育改革運動そのものだった。
『赤い鳥』は児童雑誌で、学校制度を改革する制度ではありません。ただし子どもの個性・感性・表現を尊重する価値観は大正自由教育とも重なっていました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 澤柳政太郎国立国会図書館
1917年の成城小学校創設と、児童の自発性を重んじる新教育運動での役割を確認
- 二 大学令の制定と大学の拡張文部科学省
1918年大学令の制度内容、公立・私立大学の認可と大正期の大学拡充を確認
- 大学令(大正七年十二月六日勅令第三百八十八号)文部科学省
大学の目的、公立・私立・単科大学、入学資格など大学令の条文を確認
- 創立までの歩み理化学研究所
高峰譲吉の提唱、第一次世界大戦による輸入制約、1917年理研創立までの経緯を確認
- 沿革理化学研究所
1917年創立、1921年大河内正敏所長就任、1922年研究室制度発足を確認
- 第2章 『童話』の時代国立国会図書館 国際子ども図書館
1918年創刊の『赤い鳥』と近代児童文学における位置づけを確認
- 作家・画家紹介―鈴木三重吉国立国会図書館 国際子ども図書館
『赤い鳥』と大正自由教育を背景とする児童文化の関係を確認