ロシア革命・シベリア出兵から日ソ基本条約へ―日本はなぜ長期出兵し、のちにソ連と国交を結んだのか
一言でいうと
1917年のロシア革命でソビエト政権が成立し、ロシアが第一次世界大戦から離脱へ向かうと、連合国はシベリアに残る軍需物資やチェコスロバキア軍団をめぐって対応を検討しました。日本政府は当初出兵に慎重でしたが、アメリカが共同派兵を提案すると、1918年8月にシベリア出兵を開始します。出兵はチェコスロバキア軍救援という連合国共同の目的で始まった一方、日本国内には極東での安全保障や勢力拡大を重視する主張もあり、日本軍は他の連合国より大規模かつ長期に駐留しました。1920年には尼港事件を背景に北樺太を「保障占領」し、他国が撤兵した後も日本は1922年10月までシベリア駐兵を続けました。ソビエト連邦成立後、日本は北樺太撤兵、漁業・石油・石炭などの利権、尼港事件などをめぐって交渉し、1925年1月に日ソ基本条約を調印して国交を樹立します。これに伴い同年に北樺太からも撤兵しました。シベリア出兵から国交樹立への転換は、日本が革命後のロシアを軍事力だけでは排除できず、安定しつつあるソ連との外交関係と実利的な権益調整を必要とするようになった過程でした。
ロシア革命はなぜ日本のシベリア出兵につながったのか
1917年のロシア革命で成立したソビエト政権は、第一次世界大戦からの離脱を進めました。ドイツとの東部戦線が消えることを警戒したイギリス・フランスは、シベリア鉄道や軍需物資をめぐる軍事行動を検討し、日本とアメリカにも派兵を求めました。
日本政府の内部でも意見は一枚岩ではありませんでした。外相本野一郎らは早い段階から出兵を主張しましたが、寺内正毅首相らは単独出兵が国際的な疑念を招くことを警戒して慎重でした。
状況を変えたのが、ロシア国内で移動を妨げられていたチェコスロバキア軍団の存在です。アメリカがその救援を名目とする共同派兵を決めると、日本も1918年8月2日に出兵を宣言しました。したがって、シベリア出兵を最初から日本単独の領土獲得戦争として説明するのも、反対にチェコスロバキア軍救援だけで説明するのも不十分です。
なぜ日本軍は他の連合国より長くシベリアに残ったのか
出兵にはアメリカ、イギリス、フランスなども参加しましたが、ロシア内戦の展開と第一次世界大戦の終結によって、共同出兵の当初目的はしだいに弱まりました。各国は順次撤兵へ向かいます。
一方、日本では革命勢力への警戒に加え、沿海州や満州に近い地域の安全保障、反ボリシェヴィキ勢力との関係、極東での政治的・経済的影響力など複数の利害が重なりました。そのため日本軍の活動範囲と駐留期間は共同出兵の枠を越えて拡大しました。
しかし長期出兵は兵員・軍費の負担を増やし、国内外から批判を受けました。ロシア内戦で反革命側が敗勢となり、アメリカなどが撤兵した後も日本が残留する理由は弱まり、1922年10月、日本軍は沿海州から撤退してシベリア出兵を終えました。
シベリア出兵には、連合国共同作戦としてのチェコスロバキア軍救援、革命勢力への警戒、日本の極東安全保障や勢力拡大をめぐる思惑などが重なりました。目的を一つだけに固定すると、1918年の出兵開始と1922年までの長期駐留の違いが見えなくなります。
北樺太占領はシベリア出兵とどのようにつながったのか
1920年、アムール川河口のニコラエフスク(尼港)で、日本軍守備隊や日本人居留民を含む多数の人々が殺害される尼港事件が起こりました。日本政府は事件の責任問題が解決するまでの措置として、同年から北樺太を「保障占領」しました。
ここで北樺太と南樺太を区別する必要があります。日本は日露戦争後の1905年ポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太を領有していました。1920年に占領した北樺太はそれとは別で、ロシア領を軍事的に占領したものであり、正式に日本領へ併合されたわけではありません。
このため、1922年にシベリア本土から撤兵した後も北樺太の占領は続きました。北樺太には石油・石炭などの資源があり、日本側では軍事的な保障だけでなく経済権益の確保も外交課題になっていきました。
なぜ日本はソ連を承認し、国交を結ぶ方向へ転じたのか
1922年12月にソビエト連邦が成立すると、革命後の新政権は一時的な存在ではなくなっていきました。日本にとっても、隣接する大国との外交関係を持たないまま北樺太を占領し続けることには政治的・軍事的な負担がありました。
交渉では、北樺太からの日本軍撤退、尼港事件、漁業問題、帝政ロシア時代からの条約関係、北樺太の石油・石炭利権など多くの問題が争点となりました。国交樹立は、革命政府への評価が一致したからではなく、両国が未解決問題を外交交渉で処理する必要を認めた結果でした。
1925年1月20日、日本とソ連は北京で日ソ基本条約を調印しました。これによって正式な国交が樹立され、北樺太撤兵も実施されます。一方、日本は北樺太の石油・石炭利権など一定の経済権益を確保しました。
軍事介入から国交樹立への転換は何を示したのか
シベリア出兵では、日本はロシア革命による国際秩序の変動に軍事介入で対応しました。しかし長期出兵によって革命政権を倒すことも、シベリアを安定的な勢力圏にすることもできませんでした。
その後の日本は、ソ連の成立と国際的な定着を前提に、北樺太撤兵と経済権益を交換的に調整しながら国交正常化へ進みました。これは軍事的な前進から、外交交渉を通じた関係調整への転換でした。
ただし日ソ基本条約で対立がなくなったわけではありません。北樺太の利権、漁業、満州・中国をめぐる利害などはその後も残ります。大正期の日ソ関係は、対立から友好へ単純に変わったのではなく、対立を抱えたまま正式な外交関係を作ったと理解するのが重要です。
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入試で押さえるポイント
- 1917年のロシア革命とソビエト政権の対独単独講和の動きが、連合国のシベリア介入論の背景となった
- 日本はアメリカの共同派兵方針を受け、チェコスロバキア軍救援を掲げて1918年8月にシベリア出兵を開始した
- 日本軍は革命勢力への警戒や極東での利害も背景に他の連合国より長く駐留し、1922年10月までシベリアに残った
- 1920年の尼港事件を背景に日本は北樺太を保障占領したが、これは1905年以来日本領だった南樺太とは別である
- 1922年にソビエト連邦が成立し、日本は国交・北樺太撤兵・漁業や資源利権などをめぐる交渉を進めた
- 1925年1月20日の日ソ基本条約で国交が樹立され、日本は北樺太から撤兵する一方、石油・石炭などの利権を確保した
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- 問1
日本のシベリア出兵は、最初から日本単独でシベリア領土を併合することだけを目的とした戦争だった。
出兵開始時にはチェコスロバキア軍救援という連合国共同の目的があり、日本側の安全保障・勢力拡大の思惑も重なっていました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
日本軍は他の連合国より長くシベリアに駐留し、沿海州からの撤兵は1922年10月まで続いた。
共同出兵の当初目的が弱まった後も、日本は極東の安全保障や政治・経済的利害を背景に駐留を続けました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1920年に日本が保障占領した北樺太は、1905年のポーツマス条約ですでに日本領となっていた南樺太と同じ地域である。
南樺太は1905年から日本領でしたが、北樺太はロシア領を1920年から軍事占領した別の地域で、正式併合ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
日ソ基本条約による国交樹立は、両国の政治的対立が完全に消えた結果ではなく、未解決問題や権益を外交的に調整する必要から進んだ。
北樺太撤兵、尼港事件、漁業、石油・石炭利権などを交渉で処理する必要があり、対立を残したまま国交が樹立されました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1925年の日ソ基本条約によって日ソ間の漁業・資源・満州をめぐる利害対立はすべて解消した。
国交は樹立されましたが、北樺太の利権や漁業、満州・中国をめぐる利害はその後も残りました。
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Sources
参考資料
- 大正7年(1918)8月|シベリア出兵を宣言する:日本のあゆみ国立公文書館
1918年8月2日の出兵宣言と、連合国共同出兵の当初目的を確認
- 3-5 シベリア出兵|史料にみる日本の近代国立国会図書館
ロシア革命後の連合国の動き、日本政府内の慎重論と出兵論、日米共同派兵までの経緯を確認
- シベリア出兵の経緯を示す記録はありますか。外務省外交史料館・レファレンス協同データベース
1918年の共同派兵と、日本が1922年10月まで駐兵を継続したことを確認
- 保障占領下北樺太における日本人の活動(1920-1925)北海道大学大学院経済学研究院・国立国会図書館サーチ
尼港事件への対抗措置として1920〜1925年に北樺太保障占領が行われたことを確認
- 第一次外相時代 ワシントン体制の基盤拡充外務省外交史料館
1925年1月20日の日ソ基本条約、国交樹立、北樺太撤兵、利権交渉の経緯を確認