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大正時代1910年代後半〜1924年政治・外交重要度 B

排日移民運動と1924年アメリカ移民法―日米紳士協約後もなぜ移民摩擦は解消しなかったのかはいにちいみんうんどうとせんきゅうひゃくにじゅうよねんあめりかいみんほう にちべいしんしきょうやくごもなぜいみんまさつはかいしょうしなかったのか

一言でいうと

1907〜1908年の日米紳士協約によって、日本政府は米本土へ向かう新規労働移民への旅券発給を厳しく制限しました。しかし、アメリカ西海岸の日本人排斥運動や人種差別は解消されませんでした。在米日本人は農業や商業などに生活基盤を築き、家族の渡航も続いたため、排斥運動側は土地所有や家族形成そのものを問題視するようになります。カリフォルニア州では外国人土地法による制限が強まり、1920年には土地賃借などへの規制も拡大しました。日本政府は同年、排日的立法を抑えることを期待して、いわゆる「写真花嫁」への旅券発給も停止します。それでも連邦議会では移民を国籍・人種によって強く制限する動きが進み、1924年移民法(ジョンソン=リード法)は国別割当制度を設けるとともに、アメリカ国籍取得資格を持たない外国人の移民入国を原則として認めない規定を置きました。当時、日本人移民には帰化資格が認められていなかったため、この規定によって日本からの新規移民は事実上排除されました。日本政府は、紳士協約を守ってきたにもかかわらず日本人を法律で差別的に排除するものだとして強く抗議し、日米間の感情的・外交的摩擦は深まりました。つまり紳士協約は移民数を調整する外交的妥協にすぎず、アメリカ社会に存在した人種的排斥や市民権・土地所有をめぐる制度的差別を解消するものではなかったのです。

日米紳士協約で何が変わり、何が残ったのか

日米紳士協約は、アメリカが日本人を名指しする連邦排斥法を避ける一方、日本政府が米本土へ向かう新規労働者への旅券発給を自主的に制限する仕組みでした。単一の条約ではなく、1907〜1908年の外交上の了解と行政措置の組み合わせです。

この仕組みによって新規労働移民は大幅に制限されました。1924年のアメリカ国務省文書でも、日本政府が紳士協約を忠実に履行してきたと評価されています。

しかし協約は、日本人移民に対する人種的偏見や、土地・市民権をめぐる差別制度まで解消するものではありませんでした。また在米者の家族などには渡航の余地があり、日系社会は労働者中心の集団から家族を持つ定住社会へ変化していきました。

なぜ西海岸の排斥運動は続いたのか

カリフォルニアなどでは、白人優越主義やアジア系移民への人種的偏見に、農業・土地・労働をめぐる競争意識や地域政治が結びつき、日本人排斥を求める運動が続きました。

1913年のカリフォルニア外国人土地法は、アメリカ国籍取得資格を持たない外国人の農地所有を制限しました。さらに1920年の州法では土地賃借などへの規制も強まり、日本人移民の経済活動や定住を抑えようとする方向が明確になります。

排斥運動は新たに来る労働者の人数だけを問題にしたのではありません。日本人移民が家族を形成し、農業経営や地域社会に定着すること自体を脅威として描く主張が広がったため、紳士協約で労働移民を減らしても対立は終わりませんでした。

「写真花嫁」の渡航停止でも摩擦は収まらなかったのか

紳士協約のもとでも、すでにアメリカに住む日本人の妻などは渡航できました。日本で写真を交換するなどして縁談を成立させ、渡米して夫と生活を始めた女性は、当時「写真花嫁」と呼ばれました。

排斥運動側はこの家族渡航も批判し、日本人移民の定住と二世の増加を排斥論の材料にしました。日米政府の協議を受け、日本政府は1920年2月末で「写真花嫁」への渡米旅券発給を停止します。

日本側には、追加の自主規制によってアメリカ側の排日的立法を抑えたいという期待がありました。しかし移民排斥を求める政治運動は続き、問題は州レベルの土地法から連邦レベルの移民法へ移っていきました。

1924年移民法はなぜ日本人移民を排除したのか

1924年、アメリカで移民法(ジョンソン=リード法)が成立しました。この法律は、国別の移民割当を1890年国勢調査時の各出身国人口の2%とするなど、移民全体を強く制限する制度を設けました。

日本人に直接大きな影響を与えたのは、アメリカ国籍取得資格を持たない外国人を移民として原則入国させない規定でした。当時のアメリカ法制では日本人移民に帰化資格が認められていなかったため、日本からの新規移民は事実上排除されます。

したがって、日本人排除を国別割当の数字だけで説明するのは正確ではありません。日本人には「帰化資格を持たない外国人」という法的区分が用いられ、それが排除の仕組みとして働きました。

なお、この法律にも帰国者や一部の非移民など例外があり、あらゆる日本人のアメリカ入国が一律に不可能になったと説明するのは適切ではありません。中心となる変化は、日本からの新規移民が法律によって原則排除されたことです。

1924年移民法では、国別割当制度と日本人排除の仕組みを混同しないことが重要です。日本人には、当時「アメリカ国籍取得資格を持たない外国人」とされたことを根拠とする入国排除規定が作用しました。

1924年移民法は日米関係に何を残したのか

日本政府は、紳士協約によって自主的に移民を制限してきた実績があるとして、法律による日本人排除は不要であり差別的だと主張しました。1924年5月には駐米大使を通じて正式に抗議しています。

アメリカ政府内にも日本との外交関係悪化を懸念する意見はありましたが、連邦議会は排除規定を維持しました。法律の成立によって紳士協約を基礎にした移民調整は終わり、日本国内では強い反発が生じました。

ただし、1924年移民法だけで後の日米対立すべてを説明することはできません。ここで押さえるべきなのは、国際協調が進められていた1920年代にも、人種・移民をめぐる対立が日米関係の重大な緊張要因として残っていたことです。

Review

入試で押さえるポイント

  • 日米紳士協約は日本政府が新規労働移民への旅券発給を自主制限する仕組みで、アメリカ社会の人種差別や排日運動を解消したものではない
  • カリフォルニアでは外国人土地法が日本人移民の土地所有・賃借などを制限し、排斥運動は定住や家族形成にも向けられた
  • 日本政府は1920年2月末に「写真花嫁」への渡米旅券発給を停止したが、アメリカの排日的立法は止まらなかった
  • 1924年移民法は国別割当制度に加え、帰化資格を持たない外国人の移民入国を原則認めない規定によって日本からの新規移民を事実上排除した
  • 日本政府は紳士協約を履行してきたにもかかわらず法律で差別的に排除されたとして抗議し、移民問題は日米関係の緊張要因となった

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  1. 問1

    日米紳士協約は日本からの新規労働移民を大幅に制限したが、アメリカ社会の人種的偏見や土地・市民権をめぐる差別まで解消したわけではない。

  2. 問2

    西海岸の排日運動は新たに来る労働者の人数だけを問題にしており、在米日本人の土地利用や家族形成は争点にならなかった。

  3. 問3

    日本政府が1920年に「写真花嫁」への旅券発給を停止すると、アメリカ側の排日的立法を求める動きは収まり、移民問題は解決した。

  4. 問4

    1924年移民法で日本からの新規移民が事実上排除された仕組みは、国別割当の数字だけではなく、日本人が当時「帰化資格を持たない外国人」とされたことに関係していた。

  5. 問5

    1924年移民法によって、帰国者や非移民を含むあらゆる日本人のアメリカ入国が例外なく禁止された。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 日米紳士協約によって日本が対米労働移民を自主的に制限する
  2. アメリカで日本人移民を事実上排除する移民法が成立する

Sources

参考資料

  1. 外交史料 Q&A 大正期―在米日系移民の「写真結婚」外務省 外交史料館

    紳士協約後の家族渡航、「写真結婚」への排斥、1920年の旅券発給停止と1924年移民法への流れを確認

  2. 日本外交文書デジタルコレクション 大正13年(1924年)第1冊外務省 外交史料館

    1924年の米国排日移民法成立問題について制定経緯、日米交渉、米国内動向、日本側反応の外交文書構成を確認

  3. Immigration from Asia and the Pacific, 1870s to 1950sU.S. National Archives and Records Administration

    1907年紳士協約の家族移民、1924年移民法の国別割当と帰化資格を持たない外国人の排除規定、例外の存在を確認

  4. Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, 1924, Volume IIU.S. Department of State, Office of the Historian

    日本政府の紳士協約履行、日本人排除条項をめぐる日米交渉、日本政府の正式抗議と日米関係への影響を確認

  5. Global Timeline―Japanese immigrationLibrary of Congress

    1913年カリフォルニア外国人土地法、1922年の帰化資格判断、1924年移民法の位置づけを確認