関東大震災と震災後の殺傷事件―大災害はなぜ流言・暴力・国家統制を伴ったのか
一言でいうと
1923年9月1日の関東大震災は、地震そのものに加えて大規模な火災を引き起こし、東京・横浜を中心に甚大な人的・物的被害をもたらしました。通信や交通が寸断され、被害の全体像をつかめないなかで、朝鮮人が放火や暴動を起こしているなどの根拠のない流言が広がります。そこには、日本の朝鮮植民地支配を背景とする恐怖や民族的差別意識も重なっていました。自警団などの民間人だけでなく、軍隊や警察の一部も殺傷に関与し、朝鮮人を中心に中国人や日本人も被害を受けました。一方、戒厳令の規定の一部が緊急勅令によって適用され、軍隊・警察を中心とする治安維持と救護が進められるなか、亀戸事件では社会主義者らが軍隊によって殺害され、甘粕事件では憲兵が大杉栄らを殺害しました。震災後には帝都復興事業が進み、金融面では決済困難となった手形を救済する震災手形の制度も設けられます。関東大震災を理解するには、自然災害の被害だけでなく、情報の断絶、既存の差別、暴力、非常時の国家統制、復興政策までを分けて捉える必要があります。
大震災はなぜ社会全体の危機になったのか
1923年9月1日午前11時58分ごろ、相模湾北西部を震源とする大地震が発生しました。東京や横浜では建物の倒壊に加えて大規模な火災が起こり、人的被害は10万人を超えました。
被災地では電話などの通信網や交通網が大きな被害を受け、政府・自治体・警察も災害の全貌をすぐには把握できませんでした。正確な情報が不足する一方で、避難者同士の伝聞や断片的な情報が急速に広がる条件が生まれました。
政府は9月2日に臨時震災救護事務局の設置、非常徴発、戒厳令の規定の一部を適用する措置などを進めました。軍隊は治安維持だけでなく救護・輸送・応急復旧にも動員され、非常時の社会運営で国家機関の役割が急速に拡大しました。
なぜ流言が朝鮮人・中国人などへの殺傷につながったのか
震災直後、朝鮮人が放火・投毒・暴動を行っているとする流言が広がりました。しかし、内閣府の報告書が紹介する当時の司法省調査では、流言にあったような組織的な蜂起や放火などを裏づける事実は確認されていません。
流言が暴力へ結びついた背景には、情報不足だけではなく、日本の朝鮮植民地支配と、それに対する抵抗への恐怖、朝鮮人に対する民族的差別意識がありました。各地では自警団が組織され、朝鮮人と見なされた人々への尋問・暴行・殺害が相次ぎました。
殺傷の主体は自警団だけではありません。軍隊や警察の一部が直接殺傷に関与した事例や、官憲と民間人が共同した事例も公的記録から確認されています。また中国人や、朝鮮人と誤認された日本人も被害を受けました。
犠牲者の正確な総数は現在も確定できません。当時の官庁記録にも欠落があり、起訴された事件だけを数えて全体の被害規模とすることもできないため、このTopicでは特定の総数を断定しません。
震災後の殺傷事件を単なる「混乱」として片づけてはいけません。流言、植民地支配を背景とする差別意識、自警団の暴力、軍隊・警察の一部の関与を区別して確認することが重要です。
亀戸事件・甘粕事件は何を示したのか
震災後の非常時には、民族的な流言を背景とする殺傷とは別に、社会主義者や無政府主義者に対する国家機関の暴力も起こりました。亀戸事件では、亀戸警察署に拘束された社会主義者らが警備にあたっていた軍隊によって殺害されました。
9月16日の甘粕事件では、憲兵大尉甘粕正彦らが無政府主義者の大杉栄らを殺害しました。内閣府報告書は、甘粕が亀戸警察署での社会主義者殺害を聞いたことを動機の一つとして述べた点から、震災直後の殺傷事件との関連を指摘しています。
これらは、朝鮮人・中国人などへの殺傷事件と同一の出来事ではありません。しかし、災害によって通常の社会秩序が大きく揺らぎ、治安維持の権限が強まった状況で、国家機関による違法な殺害も生じたことを示しています。
救護と国家統制、帝都復興はどう進んだのか
政府は救護と治安維持を同時に進めました。警察だけでは人手が足りず、軍隊が救護・輸送・警備へ広く投入されました。一方、流言への対応では情報統制や取締りも強化され、非常時の統治権限が拡大しました。
応急対応の後、政府は帝都復興へ移ります。後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁となり、道路・橋梁・区画整理などを含む大規模な都市改造を構想しました。計画は財政や政治的調整によって大幅に縮小されましたが、東京の都市基盤は復興事業を通じて再整備されました。
したがって震災後の国家対応には、被災者救護や都市復興という側面と、治安維持・情報統制を強める側面が並存していました。一方だけで非常時の国家の役割を説明することはできません。
震災手形はなぜ後の金融問題へつながったのか
震災では企業や商店の取引も大きな打撃を受け、期日どおりに決済できない手形が多数発生しました。政府は1923年9月、震災のため決済困難となった手形を日本銀行が再割引し、その損失を政府が補償する仕組みを設けました。これが震災手形です。
この措置は当面の信用不安を抑えるための非常措置でしたが、震災前から経営に問題を抱えていた企業の手形も含まれ、処理が長期化しました。震災手形問題は1927年の金融恐慌を理解する重要な前提の一つとなります。
ただし、金融恐慌の原因を震災手形だけに求めるのは適切ではありません。第一次世界大戦後から続いていた企業・銀行の不良債権や経済構造上の問題も重なっていました。
Review
入試で押さえるポイント
- 1923年9月1日の関東大震災では地震・火災により10万人を超える人的被害が生じ、通信・交通の途絶が情報混乱を深めた
- 朝鮮人の放火・暴動などの流言を背景に殺傷事件が発生し、自警団だけでなく軍隊・警察の一部も関与した
- 朝鮮人への迫害の背景には植民地支配と民族的差別意識があり、中国人や誤認された日本人も被害を受けた
- 亀戸事件・甘粕事件では非常時の治安維持のもとで社会主義者・無政府主義者に対する国家機関の違法な殺害が起こった
- 震災後には後藤新平を中心に帝都復興が進み、金融面では震災手形の救済措置がとられた
- 殺傷事件の正確な犠牲者総数は確定できず、公的記録の限界を踏まえて根拠以上に断定しない
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- 問1
関東大震災では通信・交通の被害によって正確な情報が不足し、断片的な伝聞や流言が広がりやすい条件が生まれた。
政府・自治体・警察も被害の全貌をすぐ把握できず、情報の断絶が社会不安と流言の拡散を強めました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
震災直後に広がった朝鮮人の組織的な放火・暴動という流言は、当時の司法省調査によって事実であったと確認された。
内閣府報告書が紹介する司法省調査では、流言にあったような組織的蜂起や放火を裏づける事実は確認されていません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
震災後の朝鮮人などへの殺傷は自警団だけが行い、軍隊や警察が関与した事例は確認されていない。
公的記録には軍隊や警察の一部が直接殺傷に関与した事例や、官憲と民間人が共同した事例も確認されています。
本文の該当箇所を確認する - 問4
亀戸事件・甘粕事件は朝鮮人・中国人などへの殺傷事件と同一ではないが、非常時に国家機関による違法な殺害が生じたことを示す。
亀戸事件では軍隊が社会主義者らを、甘粕事件では憲兵が大杉栄らを殺害しました。民族的流言を背景とする殺傷とは区別して理解する必要があります。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1927年の金融恐慌は震災手形だけが原因であり、第一次世界大戦後から続く企業・銀行の問題は関係しなかった。
震災手形問題は重要な前提の一つですが、戦後から続く不良債権や経済構造上の問題も重なっていました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 報告書(1923 関東大震災第2編)内閣府
震災被害、国の初動、戒厳令規定の適用、流言と殺傷事件、救護の全体像を確認
- 1923 関東大震災第2編 第4章第2節 殺傷事件の発生内閣府
朝鮮人・中国人・日本人への殺傷、加害主体の多様性、史料と犠牲者数の限界、亀戸事件・甘粕事件を確認
- 変貌―関東大震災後の「帝都復興」国立公文書館
後藤新平と帝都復興、計画縮小と都市基盤再整備を確認
- 震災手形関係資料日本銀行金融研究所アーカイブ
1923年9月の震災手形割引損失補償令、日本銀行再割引と政府補償、処理期限の延長を確認