日本社会主義同盟・日本共産党・無産政党―大逆事件後の社会主義運動はどのように再編されたのか
一言でいうと
1910年の大逆事件後、日本の社会主義運動は強い取締りのもとで活動を縮小しました。しかし第一次世界大戦後には、労働運動の拡大やロシア革命・国際社会主義運動の影響を受け、社会主義者の再組織化が進みます。1920年12月に堺利彦・山川均・大杉栄らが参加して日本社会主義同盟が結成されましたが、これは一つの思想に統一された政党ではなく、無政府主義系とボルシェビキ系など異なる潮流を含む幅広い結集でした。1921年に同盟が結社禁止となると諸潮流は別々に再編され、その一部は1922年7月に日本共産党を非合法に結成し、コミンテルンとの結びつきを強めました。一方、労働組合や農民組合の成長、普通選挙実現への動きは、労働者・農民の要求を合法的な議会政治へ持ち込もうとする無産政党の形成も促します。1925年の農民労働党は結成直後に禁止され、1926年には労働農民党が成立し、その後も複数の無産政党へ分かれていきました。社会主義、共産主義、日本共産党、無産政党は同じものではありません。大正末期の特徴は、一度の統一ではなく、思想・組織・議会参加をめぐる違いを抱えながら、複数の運動形態へ再編されたことにあります。
大逆事件後、社会主義運動はどのような状況にあったのか
1910年の大逆事件とその後の取締りによって、明治末から大正初期の社会主義運動は大きく萎縮しました。公然とした組織活動は難しくなり、社会主義者の活動は限られた範囲にとどまりました。
しかし第一次世界大戦後には、物価上昇や労働争議の増加を背景に労働組合運動が広がり、1917年のロシア革命も世界の社会主義運動に大きな影響を与えました。日本でも社会問題や社会改造を論じる活動が再び活発になります。
この再出発は、明治期の運動がそのまま復活したのではありません。労働組合を重視する立場、無政府主義、ボルシェビキ革命を重視する立場、議会政治を利用しようとする立場など、複数の考え方が並存していました。
日本社会主義同盟はなぜ短期間で崩れたのか
1920年12月、日本社会主義同盟が結成されました。堺利彦・山川均・大杉栄らが参加し、社会主義者の幅広い結集をめざした組織でした。
ただし、同盟は単一の綱領に統一された政党ではありませんでした。法政大学大原社会問題研究所の解説が示すように、内部では無政府主義系とボルシェビキ系の対立が表面化し、大同団結を維持することが難しくなっていきました。
1921年5月には第2回大会が警察によって解散させられ、その19日後に結社禁止命令を受けました。国家の取締りと内部の思想的対立が重なり、社会主義者は再び別々の組織や運動へ向かいます。
なぜ1922年に日本共産党が非合法に結成されたのか
日本社会主義同盟の解体後、ボルシェビキ革命とコミンテルンの影響を強く受けた一部の社会主義者は、共産主義政党の組織化へ進みました。1921年には堺利彦・山川均らが準備組織をつくり、1922年7月15日に東京で日本共産党の創立大会が開かれました。
日本共産党はコミンテルンへの加盟を決議し、同年にはその日本支部として承認されました。当時の政治体制では公然と活動できる政党として認められず、非合法の秘密組織として出発しました。
ここで社会主義と共産主義を同一視してはいけません。日本社会主義同盟に集まった人々すべてが日本共産党へ進んだわけではなく、無政府主義者や社会民主主義者などは異なる道を選びました。
1922年の日本共産党は、社会主義運動全体の名称ではなく、コミンテルンと結びついた共産主義者の非合法政党として成立しました。
無産政党は日本共産党と何が違ったのか
1920年代半ばになると、労働組合や農民組合の組織化と普通選挙実現への動きを背景に、労働者・農民などの要求を議会政治へ持ち込む政党をつくろうとする動きが強まりました。こうした政党は総称して無産政党と呼ばれます。
1925年12月には農民労働党が結成されましたが、結成直後に禁止されました。翌1926年3月には労働農民党が成立します。労働農民党は当初、共産主義的な立場の人々を排除する方針をとっており、無産政党が日本共産党と同じ組織ではなかったことが分かります。
その後、左派をどこまで参加させるか、労働組合・農民組合との関係をどうするかなどをめぐって対立し、1926年末には労働農民党、社会民衆党、日本労農党など複数の無産政党へ分かれました。合法的な議会政党をめざす路線も一枚岩ではなかったのです。
大正期の再編をどう捉えればよいのか
大逆事件後の社会主義運動は、一つの組織へ統一されたのではありません。1920年の日本社会主義同盟は幅広い結集を試みましたが、取締りと思想対立によって短期間で解体しました。
その後には、共産主義者による非合法の日本共産党、労働組合・農民組合を基盤に合法的な議会進出をめざす無産政党、無政府主義など、異なる運動の回路が並立しました。
つまり「再編」とは、社会主義運動が単純に共産党へ一本化されたことではなく、労働・農民運動の成長と政治参加の拡大を背景に、複数の思想と組織形態へ分化したことを意味します。国家による取締りがこの再編にどう作用したかは、1925年の治安維持法を扱う後のTopicで改めて確認します。
Review
入試で押さえるポイント
- 1920年12月に日本社会主義同盟が結成されたが、無政府主義系・ボルシェビキ系など複数の潮流を含む幅広い結集だった
- 日本社会主義同盟は1921年5月に結社禁止となり、内部の思想対立もあって諸潮流は別々に再編された
- 1922年7月15日に日本共産党が非合法に結成され、コミンテルンと結びついた共産主義政党として出発した
- 1920年代半ばには労働者・農民の要求を合法的な議会政治へ持ち込もうとする無産政党が形成され、1926年に労働農民党などが展開した
- 社会主義・共産主義・日本共産党・無産政党は同一ではなく、大正末期の社会運動は複数の思想と組織形態へ分化した
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- 問1
第一次世界大戦後に再活発化した社会主義運動は、参加者が全員同じ思想と組織方針を持つ一つの運動として再出発した。
労働組合重視、無政府主義、ボルシェビキ革命重視、議会利用など複数の立場が並存していました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
日本社会主義同盟は無政府主義系やボルシェビキ系など異なる潮流を含む幅広い結集で、単一綱領の政党ではなかった。
内部の思想的対立に加えて国家の取締りもあり、1921年には結社禁止となって短期間で解体しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1922年に日本共産党が結成されると、日本社会主義同盟に関わった社会主義者はすべて同党へ合流した。
日本共産党はコミンテルンと結びついた非合法の共産主義政党で、無政府主義者や社会民主主義者などは異なる道を選びました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
無産政党は労働者・農民の要求を合法的な議会政治へ持ち込もうとする動きから形成され、日本共産党と同一の組織ではなかった。
1926年の労働農民党などは合法的な議会政党を目指し、当初は共産主義者を排除する方針もとっていました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
大正末期の社会主義運動の再編とは、社会主義・共産主義・無産政党が日本共産党一つへ統一されたことを意味する。
実際には非合法の日本共産党、合法的議会進出を目指す無産政党、無政府主義など複数の思想と組織形態へ分化しました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 日本社会主義同盟結社禁止[政]1921.5.28法政大学大原社会問題研究所
日本社会主義同盟の活動、1921年の結社禁止、無政府主義系・ボルシェビキ系の対立と解散後の再編を確認
- 日本共産党[社]1922.7.15法政大学大原社会問題研究所
1921年の準備組織、1922年7月15日の創立大会、コミンテルン加盟決議と日本支部としての承認を確認
- 新札幌市史 第4巻 通史4 日本共産党札幌地区委員会札幌市中央図書館
日本共産党が1922年7月15日に非合法で結成されたことを公立図書館の自治体史デジタルアーカイブで確認
- 農民労働党[社]1925.12.1法政大学大原社会問題研究所
1925年の全国的無産政党結成と内務省による即日解散命令を確認
- 労働農民党(労農党)[社]1926.3.5法政大学大原社会問題研究所
1926年の労働農民党結成、当初の左派排除方針、その後の合法無産政党としての展開を確認
- 無産党分立[社]1926.10.24法政大学大原社会問題研究所
1926年末の労働農民党・社会民衆党・日本労農党への分立と、無産政党内部の路線差を確認