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大正時代1912〜1925年社会・経済重要度 A

友愛会から日本労働総同盟へ―労働者の組織化に国家と企業はどう対応したのかゆうあいかいからにほんろうどうそうどうめいへ ろうどうしゃのそしきかにこっかときぎょうはどうたいおうしたのか

一言でいうと

大正期には工業化と大戦景気によって工場労働者が増え、物価上昇や長時間労働、賃金・雇用をめぐる不満を背景に労働争議と組織化が広がりました。1912年に鈴木文治らが結成した友愛会は、当初は親睦・共済・修養を重視する団体でしたが、労働争議の増加とともに労働者自身が団体交渉や労働条件改善を求める組織へ性格を変えていきます。1919年には大日本労働総同盟友愛会、1921年には日本労働総同盟へと改称し、1920年の第1回メーデーも労働組合間の連携を広げました。一方、政府は1916年に工場法を施行し、1922年には健康保険法を公布するなど社会政策を整備しましたが、これらは労働組合がつくった制度ではなく、国家が労働問題へ対応した別の流れです。企業側も組合承認や団体交渉に一様に応じたわけではなく、大規模争議では激しい対立が生じました。大正期の労働運動は、労働者の自主組織化、企業との交渉・対立、国家の保護立法という三つの動きを区別して捉えることが重要です。

なぜ労働者の組織化が進んだのか

明治後期から大正期にかけて、紡績・製糸だけでなく造船・機械・鉄鋼などの工業が拡大し、賃金で生活する工場労働者が増えました。第一次世界大戦期には生産が急拡大する一方、物価も上昇し、労働者の生活費負担は重くなりました。

大戦期には労働力需要が強まり、労働者側の交渉力が高まる局面もありました。こうした状況のもとで賃上げ、労働時間短縮、解雇反対、団体交渉権などを求める労働争議が増加しました。

ただし、労働者が一斉に同じ思想へ向かったわけではありません。職種・地域・企業によって要求や組織形態は異なり、労働組合運動と社会主義運動も同一ではありませんでした。

友愛会はどのように労働組合へ変化したのか

1912年8月、鈴木文治らは友愛会を結成しました。法政大学大原社会問題研究所の解説によれば、創立時は15人で、親睦・共済・修養などを通じて労働者の社会的地位を改善することを目指す団体でした。

しかし工業化と争議の拡大にともない、友愛会は各地へ組織を広げ、労働条件改善を求める性格を強めました。1919年には大日本労働総同盟友愛会へ改称し、普通選挙や労働者の権利を掲げる全国組織へ発展します。

この変化は、最初から完成した労働組合が存在したのではなく、親睦団体的な性格から争議・交渉を担う組織へ段階的に変わったことを示しています。

メーデーと日本労働総同盟は何を示したのか

1920年5月2日、東京・上野公園で日本最初の本格的なメーデーが行われました。大原社会問題研究所によれば、約1万人が参加し、治安警察法第17条撤廃、失業防止、最低賃金制などを決議しました。

メーデーは一つの組合だけの行動ではなく、複数の労働団体が共通要求を掲げる場となりました。労働者が企業ごとの要求だけでなく、労働法制や社会政策をめぐる政治的要求も表明するようになった点に意味があります。

1921年、友愛会系組織は日本労働総同盟へ改称しました。同年の川崎・三菱神戸造船所などの大争議を経て、組合承認や団体交渉をめぐる企業との対立も鮮明になりました。

国家と企業は労働問題にどう対応したのか

政府は労働運動とは別に、労働者保護の制度整備を進めました。1911年に制定された工場法は1916年9月に施行され、一定規模以上の工場などを対象に、主として女性と年少者の労働時間・深夜業・危険業務などを規制しました。

ただし工場法はすべての労働者に8時間労働を保障する制度ではなく、適用対象や保護内容には大きな限界がありました。成人男性の労働時間には原則として上限がなく、小規模工場にも適用されない場合がありました。

1922年には健康保険法が公布され、労働者の疾病などに対する社会保険制度が整備されていきます。これは労働組合の組織そのものとは別の国家による社会政策です。一方、企業は労働者の要求に譲歩する場合もあれば、組合承認を拒み争議が長期化する場合もあり、対応は一様ではありませんでした。

労働組合運動と社会主義運動、そして工場法・健康保険法などの国家社会政策は、相互に影響しながらも同じものではありません。誰が組織し、誰が制度をつくったのかを分けて理解します。

1920年代半ばに労働運動はどう多様化したのか

1920年代に入ると、労働運動の内部では議会政治を重視する立場、直接行動や階級闘争を重視する立場などの違いが表面化しました。労働組合の全国組織も一枚岩ではなくなります。

1925年には日本労働組合評議会が結成され、日本労働総同盟とは異なる立場から労働運動を展開しました。これは労働運動の拡大が、そのまま単一組織への統一を意味しなかったことを示します。

大正期の重要な変化は、労働者が企業から与えられる福利だけに依存せず、自ら団体をつくって労働条件や社会制度を交渉する主体として登場したことでした。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1912年に鈴木文治らが友愛会を結成し、当初の親睦・共済・修養を重視する団体から労働条件改善を求める組織へ発展した
  • 友愛会は1919年に大日本労働総同盟友愛会、1921年に日本労働総同盟へ改称した
  • 1920年5月2日に第1回メーデーが東京・上野公園で行われ、複数の労働団体が共通要求を掲げた
  • 1916年施行の工場法は主として女性・年少者を保護したが、適用範囲や労働時間規制には限界があった
  • 1922年公布の健康保険法は国家による社会政策であり、労働組合の組織化そのものとは区別する
  • 労働組合運動と社会主義運動は同一ではなく、1920年代半ばには労働運動内部の路線・組織も多様化した

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  1. 問1

    大正期に増えた労働争議や労働組合運動は、参加した労働者が全員同じ社会主義思想を持ったために起こった。

  2. 問2

    友愛会は1912年の結成時から完成した争議組織だったのではなく、親睦・共済・修養を重視する団体から労働条件改善を求める組織へ段階的に変化した。

  3. 問3

    1920年の第1回メーデーは、日本労働総同盟だけが企業内要求を掲げて行った単独の争議だった。

  4. 問4

    1916年施行の工場法は主として女性や年少者を保護したが、すべての労働者に8時間労働を保障した制度ではなかった。

  5. 問5

    1920年代半ばには労働運動が日本労働総同盟一つに統一され、路線や組織の違いはほぼなくなった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 鈴木文治らが友愛会を結成する
  2. 工場法が施行される
  3. 労働争議と労働組合運動が活発になる
  4. 友愛会が大日本労働総同盟友愛会へ改称する
  5. 日本で第1回メーデーが行われる
  6. 大日本労働総同盟友愛会が日本労働総同盟へ改称する
  7. 健康保険法が公布される
  8. 日本労働組合評議会が結成される

Sources

参考資料

  1. 友愛会[労]1912.8.1法政大学大原社会問題研究所

    友愛会の創立、初期の性格、組織拡大を確認

  2. 第1回メーデー[労]1920.5.2法政大学大原社会問題研究所

    第1回メーデーの日付、参加規模、決議内容を確認

  3. 資料シリーズ『雇用システムの生成と変貌―政策との関連―Ⅰ戦前期の雇用システム』労働政策研究・研修機構

    大戦期の労働争議増加、友愛会の改称と団体交渉要求の展開を確認

  4. 工場法施行から100年 今だから学びたい労働基準法の成り立ちとその意義厚生労働省

    1916年の工場法施行と労働保護立法としての位置を確認

  5. 健康保険法(大正11年法律第70号)厚生労働省

    1922年4月22日の健康保険法公布を確認