Knowledge Check
飛鳥時代の理解度テスト
19つの詳細学習トピックにある95問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
Test
理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
0 / 10 問回答
592年の推古天皇即位を境に、古墳時代以来の政治・文化の仕組みは一度に消滅した。
592年はこのサイトで飛鳥時代の開始とする目安ですが、古墳時代以来の政治・文化は連続しており、6世紀後半からの変化が推古朝へ引き継がれました。
出題元の学習トピックを確認する推古朝の政治改革は、厩戸王が他の政治主体から独立して一人で進めた事業と考えればよい。
推古天皇・厩戸王・蘇我馬子など複数の政治主体の関係の中で推古朝の政治を捉える必要があります。
出題元の学習トピックを確認する冠位十二階は、氏や姓による氏族単位の秩序とは別に、原則として個人へ冠位を与える仕組みを導入した。
603年の冠位十二階は、従来の氏族的秩序を残しながら、個人を対象とする新しい官人序列を加えた点が重要です。
出題元の学習トピックを確認する十七条憲法は、国家機構や人民の権利を体系的に定めた現代の憲法と同じ性格の法典だった。
十七条憲法は、政治を担う人々に望ましい姿勢や秩序を示した政治的・倫理的規範という性格が強く、近代的な憲法とは異なります。
出題元の学習トピックを確認する推古朝の国内制度整備は、隋の中国統一や倭の対隋外交と無関係ではなく、東アジアとの関係を意識した国家形成の中で考える必要がある。
589年に隋が中国を統一し、倭も600年以降に対隋外交を進めました。冠位や礼制などの国内整備と外交は、東アジアの国際関係を背景に捉えます。
出題元の学習トピックを確認する600年の遣隋使は『隋書』倭国伝に記録されているが、『日本書紀』には記載されていない。
600年の遣隋使は中国側の『隋書』倭国伝に見えますが、後に日本で編纂された『日本書紀』には記載されていません。史料ごとの記録の違いに注意します。
出題元の学習トピックを確認する600年の使者に対する隋の文帝の指摘が直接の原因となって、倭は直ちに冠位十二階と十七条憲法を制定したと確定できる。
文帝の指摘と603年・604年の制度整備を一本の直接的因果関係に固定することはできません。600年の外交は、倭が隋の制度や礼制を意識する背景の一つとして捉えます。
出題元の学習トピックを確認する607年の国書で倭の君主が「天子」と称したため、隋は倭を自国と完全に対等な天子の国として承認した。
倭側が自立性の強い外交姿勢を示したことと、隋が完全な対等関係を承認したことは別です。『隋書』では煬帝が国書を不快に思ったと記されています。
出題元の学習トピックを確認する607年の国書をめぐる摩擦の後も外交関係は途絶えず、608年には隋使の裴世清が倭を訪れた。
国書をめぐる摩擦があっても外交関係は続き、608年には裴世清が倭を訪れました。倭から隋へ送るだけでなく、隋からも使者が来る往来が成立しています。
出題元の学習トピックを確認する遣隋使には外交交渉だけでなく、高向玄理・南淵請安・僧旻らを送り、大陸の制度や学問を学ぶ人材育成の役割もあった。
留学生・学問僧は大陸で政治制度・儒教・仏教・学問などを学び、その知識は後の7世紀の政治改革にも生かされました。
出題元の学習トピックを確認する飛鳥文化では、仏教の受容は信仰や思想にとどまらず、大規模寺院の建設という形でも社会に現れた。
飛鳥寺の造営に象徴されるように、仏教受容は寺院という新しい巨大建造物を列島に出現させ、社会を目に見える形でも変えました。
出題元の学習トピックを確認する飛鳥寺の造営では、古墳築造と同じ技術だけで十分だったため、海外から専門技術者を受け入れる必要はなかった。
寺院には大規模建築、瓦葺き、仏像鋳造など新しい専門技術が必要で、『日本書紀』には百済から瓦博士などが渡来したことが記されています。
出題元の学習トピックを確認する飛鳥文化は、中国や朝鮮半島の文化をそのまま同じ形で移しただけの文化と考えるのが適切である。
飛鳥文化は複数の東アジア文化の影響を受けつつ、人・技術・思想の交流の中で列島の新しい文化として形成されました。単純な模倣とは捉えません。
出題元の学習トピックを確認する飛鳥文化の時期には、日本列島のほぼすべての人々が仏教徒となり、仏教文化は社会全体へ均等に広がっていた。
初期の寺院造営を主導したのは大王家や蘇我氏などの有力者で、仏教文化の中心はまず政治権力を持つ人々の周辺に形成されました。
出題元の学習トピックを確認する6世紀後半以降は古墳がただちに消えたわけではなく、古墳と並行して寺院が新しい政治的・宗教的・文化的拠点として加わった。
古墳はその後も造られましたが、寺院という新しい巨大建造物が登場し、権威や文化を示す場のあり方が広がっていきました。
出題元の学習トピックを確認する618年に唐が成立すると、倭はその年のうちに最初の遣唐使を派遣した。
唐が成立したのは618年ですが、倭の最初の遣唐使は12年後の630年です。王朝交代後も対中国外交は続きましたが、直ちに派遣されたわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する犬上御田鍬は遣隋使にも関わっており、第一次遣唐使は遣隋使から続く対中国外交の新しい段階として捉えられる。
犬上御田鍬は614年にも遣隋使として派遣されたとされ、630年には第一次遣唐使に加わりました。外交相手が隋から唐へ変わっても人的・外交的な連続性が見られます。
出題元の学習トピックを確認する後の律令国家は、遣唐使が唐の制度をそのまま持ち帰り、倭の既存の政治秩序を一度に置き換えて成立した。
倭には氏姓制度や国造など既存の政治秩序があり、大陸の制度を学びながら長い時間をかけてそれらを組み替えていきました。
出題元の学習トピックを確認する630年の第一次遣唐使の規模や船団構成は、奈良・平安時代の典型的な大規模遣唐使と同じだったと考えてよい。
遣唐使の規模・船団・構成は時期によって変化しました。後世の大規模な遣唐使像を630年の第一次遣唐使へそのまま当てはめることはできません。
出題元の学習トピックを確認する632年には唐使の高表仁が倭を訪れており、倭から唐へ使者を送るだけでない双方向の外交が行われた。
犬上御田鍬らの帰国時に高表仁も来倭しました。唐との外交は倭側からの一方向の遣使だけではありませんでした。
出題元の学習トピックを確認する乙巳の変は、中央集権化を目指す改革派と、それに反対する蘇我氏全体が戦った単純な対立として理解できる。
乙巳の変には皇位継承や有力豪族の権力関係が複雑に絡みました。中大兄皇子側には蘇我倉山田石川麻呂も参加しており、蘇我氏全体との単純な対決ではありません。
出題元の学習トピックを確認する乙巳の変によって蘇我氏は一族すべてが滅ぼされ、その後の新政権に蘇我氏の人物は参加しなかった。
政治の中心から排除されたのは蝦夷・入鹿を中心とする本宗家で、蘇我倉山田石川麻呂など別系統の人物は新政権にも参加しました。
出題元の学習トピックを確認する甘樫丘周辺で確認された7世紀中ごろの焼土は、蘇我蝦夷が645年に自邸を焼いたことを直接証明する考古資料である。
焼土や炭化材は確認されていますが、それを645年の蝦夷の自邸焼失と直接結びつけて断定することはできません。史書と考古資料の対応には慎重さが必要です。
出題元の学習トピックを確認する乙巳の変は645年の政変であり、大化改新はその後の孝徳朝で進められた一連の政治改革として区別できる。
流れとしては、645年の乙巳の変で新政権が成立し、その後に改革が進み、646年の改新の詔へ続きます。両者を同じ出来事として扱わないことが重要です。
出題元の学習トピックを確認する乙巳の変は重要な転換点だが、645年の時点で有力豪族の政治的役割がなくなり、全国を直接支配する律令国家が完成したわけではない。
乙巳の変後も有力豪族は政治で重要な役割を持ち、戸籍・地方行政・税制・律令などは天智・天武・持統朝まで段階的に整えられました。
出題元の学習トピックを確認する大化改新は、645年の乙巳の変で蘇我入鹿が倒されたその日に制度改革まで完成した出来事である。
乙巳の変は645年の政変で、その後に新政権のもとで複数の制度改革が進められました。大化改新はその一連の改革として捉えます。
出題元の学習トピックを確認する大化改新後の地方支配では、国造など地域有力者を直ちに全面排除するのではなく、国家の地方行政の中へ再編していく方向が強まった。
従来の地域有力者を利用しながら、中央の王権が地方を一定の仕組みへ組み込む方向へ進みました。646年に8世紀の地方制度が完成したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する改新の詔に『郡』と記されていることから、646年当時すでに大宝律令後と同じ郡制が使われていたと判断できる。
7世紀の木簡などでは地方行政単位に『評』が用いられ、『郡』は大宝律令以後の用語です。現在の詔文には『日本書紀』編纂時の整理が含まれると考えられます。
出題元の学習トピックを確認する改新の詔に戸籍・計帳・班田収授の方針が見えるが、646年に全国戸籍や班田収授制度が完成したわけではない。
戸籍・班田の具体的な制度は7世紀後半に段階的に整えられ、現存史料上で重要な全国的戸籍としては670年の庚午年籍が挙げられます。
出題元の学習トピックを確認する646年に示された税制は、701年の大宝律令で整えられる租・庸・調とすでに同じ制度だった。
646年の税制を後の租・庸・調と同一視することはできません。古い貢納制度を残しつつ、税制はその後も繰り返し再編されました。
出題元の学習トピックを確認する古代史料に現れる『蝦夷』は、北方全体に同一文化を持つ一つの民族集団が存在したことを示す名称である。
『蝦夷』は中央国家側が北方の人々を分類した呼称として理解します。北方には地域ごとに異なる社会があり、一枚岩の民族集団として単純化できません。
出題元の学習トピックを確認する647年の渟足柵については、その年の柵そのものと確定できる遺構が現在までに発掘されている。
渟足柵は『日本書紀』に記録されていますが、647年の柵そのものと確定できる遺構は特定されていません。史書の記事と考古資料は区別して考えます。
出題元の学習トピックを確認する柵戸は守備だけでなく、北方拠点周辺への移住、土地開発、施設維持などにも関わったと考えられる。
北方進出は軍隊を送るだけではなく、人を移住させ、集落や農地を作り、行政拠点を維持する長期的な政策でもありました。
出題元の学習トピックを確認する渟足柵や磐舟柵は、防御だけでなく行政・移住・物資集積・周辺社会との交渉など複数の役割を持つ拠点だったと考えられる。
古代の城柵は戦国時代の城と同じではなく、軍事に加えて行政・移住・交流の機能を持つ境界地域の拠点でした。
出題元の学習トピックを確認する阿倍比羅夫が北海道方面まで到達した可能性があるなら、その時点で北海道はヤマト王権の直接支配下に入ったと考えてよい。
到達範囲の地名比定自体に議論があり、仮に北海道方面へ到達していても、接触や軍事行動と直接統治の完成は別です。
出題元の学習トピックを確認する660年に義慈王が降伏して百済王権が崩壊すると、旧百済勢力の抵抗もその時点ですべて終わった。
660年に百済王権は崩壊しましたが、鬼室福信ら旧百済勢力は各地で復興運動を続けました。王権の崩壊と抵抗の終結は同じではありません。
出題元の学習トピックを確認する倭が百済復興を支援した理由は、仏教や文化を伝えてくれた百済への恩返しだけで説明できる。
長年の交流に加え、百済は朝鮮半島で重要な政治的パートナーでした。唐・新羅の勢力拡大による国際秩序の変化や安全保障上の利害も重なっています。
出題元の学習トピックを確認する661年に斉明天皇自身が九州へ向かったことは、百済救援が王権中枢を巻き込む国家的な事業だったことを示す。
斉明天皇は筑紫へ入り、朝倉橘広庭宮へ移りました。斉明天皇の死後も中大兄皇子が救援政策を継続しました。
出題元の学習トピックを確認する663年の白村江の戦いは、倭と唐だけが戦った二国間戦争として理解するのが正確である。
白村江は、百済復興勢力と倭の側、唐と新羅の側が関わった東アジアの国際戦争の一部として理解します。
出題元の学習トピックを確認する白村江の敗戦は国家形成を一から始めた原因ではなく、すでに進んでいた制度整備を対外危機への対応という面からさらに促した。
推古朝や大化改新以来、国家制度の整備はすでに進んでいました。白村江の敗戦後は対外危機が強く意識され、防衛と国家形成がさらに進められます。
出題元の学習トピックを確認する664年に置かれた『防』は、奈良時代に制度化された防人制度と完全に同じ仕組みだった。
664年の記事の『防』は後の防人制度へつながりますが、奈良時代の制度化された防人と完全に同一視しないようにします。
出題元の学習トピックを確認する水城は太宰府方面を守るために設けられた小規模な砦で、地形を利用した大規模な土塁ではなかった。
水城は福岡平野から太宰府方面への進入路を遮る巨大な土塁で、外側には濠も設けられました。地形を利用した大規模防衛施設です。
出題元の学習トピックを確認する『朝鮮式山城』という名称は、朝鮮人だけが築城作業を行ったことを意味する。
朝鮮式山城という名称は、朝鮮半島系の築城技術を受け継ぐ構造に由来します。築城に百済系技術者が関わりましたが、名称が築城者の民族だけを示すわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する白村江後の防衛は、防による海岸警備、烽による通信、水城による平地防御、山城による拠点防衛を組み合わせた多重防衛網として理解できる。
個々の施設を別々に見るのではなく、海岸警備・通信・平地防御・山城を組み合わせた広域的な防衛システムとして捉えることが重要です。
出題元の学習トピックを確認する水城や山城の建設と兵士・通信網の維持は、人・物・情報を広域的に動員する国家の能力を強めることにもつながった。
大規模防衛施設には大量の労働力・資材・食料・技術者が必要で、防衛強化は国家の動員能力の拡大とも結びつきました。
出題元の学習トピックを確認する667年の近江大津宮遷都は、唐の侵攻を恐れて飛鳥から逃れたことだけで説明できる。
遷都には白村江後の国防上の事情だけでなく、琵琶湖の水運、東国との交通、政治体制の再編など複数の要因が考えられます。
出題元の学習トピックを確認する『日本書紀』本文では天智天皇の即位を668年とするが、667年即位とする別伝もあり、史料上の揺れがある。
学校・入試では基本的に668年即位で整理しますが、『日本書紀』には667年とする別伝もあるため、史料上の揺れを意識します。
出題元の学習トピックを確認する庚午年籍は単なる人口調査ではなく、人民の居住・所属や氏姓を把握し、人々を国家の支配制度へ位置づける基礎台帳だった。
庚午年籍は全国的な人民把握の基盤となり、後世には氏姓を確認する根本台帳としても重視されました。
出題元の学習トピックを確認する670年に庚午年籍が作られたことで、律令制に基づく全国的な班田収授制も完成した。
庚午年籍で人民把握は大きく前進しましたが、定期的な造籍と班田の仕組みは天武・持統朝にさらに整えられていきます。
出題元の学習トピックを確認する近江令は後世の史料に伝えられるが、本文は現存せず、まとまった法典としての実態には研究上の議論がある。
天智朝に法制整備が進んだことは重要ですが、近江令の内容や法典としての実態は確定していません。
出題元の学習トピックを確認する天智天皇の時代には父から子へ皇位を継ぐ原則がすでに固定されていたため、大友皇子以外が後継候補になる余地はなかった。
この時代の皇位継承原則は固定されておらず、血統、母方の身分、政治的実績、有力者からの支持など複数の要素が関わっていました。大海人皇子も有力な皇族でした。
出題元の学習トピックを確認する大海人皇子が671年に吉野へ入ったことは、最初から翌年の反乱を計画していたことを確実に示す。
『日本書紀』は後に勝利した大海人皇子を中心に編纂された史書でもあります。吉野入りの時点から反乱を計画していたと断定はしません。
出題元の学習トピックを確認する大海人皇子は672年に吉野を出ると、そのまま最短経路で近江大津宮へ直接攻め込んだ。
大海人皇子は吉野から伊賀・伊勢を経て美濃方面へ進み、東国側から兵力を集める動きをとりました。
出題元の学習トピックを確認する不破方面の確保は、大海人皇子側が東国から兵を集めやすくし、近江側への援軍を妨げるうえでも重要だった。
不破は畿内と東国を結ぶ主要交通路上にあり、壬申の乱では戦闘だけでなく交通路と兵力動員経路の確保が勝敗に大きく関わりました。
出題元の学習トピックを確認する壬申の乱は大海人皇子と大友皇子の二人だけの争いではなく、皇族・中央豪族・地方豪族・動員兵を巻き込んだ広域内戦だった。
高市皇子や大伴吹負をはじめ各地の豪族・官人が軍事行動を担い、大和や近江など広い範囲で戦闘が行われました。
出題元の学習トピックを確認する天武朝の皇親政治とは、皇族以外の氏族出身官人を政治から排除し、皇族だけで行政を行う体制だった。
皇親政治では皇族が政治の上位に置かれましたが、実際の行政には多数の氏族出身官人が必要でした。氏族を排除するのではなく、国家の官人組織へ組み込む方向が強まりました。
出題元の学習トピックを確認する681年に天武天皇が律令編纂を命じた時点で、完成した律令法典がただちに全国へ施行された。
681年は律令編纂を命じた段階で、事業は天武天皇の死後まで続きました。後の飛鳥浄御原令へつながる政策として理解します。
出題元の学習トピックを確認する八色の姓は古墳時代以来の氏姓秩序を廃止したのではなく、王権との関係に応じて氏族を国家側から再編する制度だった。
天武朝は臣・連など従来の氏姓秩序を消滅させるのではなく、真人・朝臣・宿禰・忌寸などの姓によって氏族を新たに順位づけしました。
出題元の学習トピックを確認する天武天皇が686年に亡くれた後も、律令編纂や官人制度などの改革は皇后に引き継がれ、持統朝へ連続した。
天武朝の政策は皇后の鸕野讃良皇女に引き継がれ、法制・戸籍・都城などの整備が持統朝へ続きました。
出題元の学習トピックを確認する689年に飛鳥浄御原令が施行されたことで、701年の大宝律令と同じ完成形の律令国家が成立した。
飛鳥浄御原令は重要な段階ですが、本文は現存せず、制度整備はその後も続きました。701年の大宝律令へさらに発展していきます。
出題元の学習トピックを確認する686年に天武天皇が亡くれると、鸕野讃良皇女はその直後に持統天皇として即位した。
天武天皇の死後、鸕野讃良皇女はまず称制の形で政務を担い、草壁皇子の死後の690年に持統天皇として即位しました。
出題元の学習トピックを確認する690年の庚寅年籍は、飛鳥浄御原令に基づき、班田など律令的な人民・土地支配を運用する基盤となった。
庚寅年籍は人々を戸に編成し、土地配分・税・労役などを国家が継続的に把握するための基盤でした。
出題元の学習トピックを確認する庚午年籍と庚寅年籍は、どちらも後世に氏姓確認の根本台帳として同じ役割を担った戸籍である。
庚午年籍は後世に氏姓確認の根本台帳として特に重視され、庚寅年籍は律令的な人民・土地支配の運用基盤として重要でした。
出題元の学習トピックを確認する692年の班田によって、後の律令制と同じ班田収授制が全国で一斉に完成した。
692年には畿内で班田が行われましたが、全国で同じ制度が一斉に完全実施されたと考えるのは適切ではありません。地域差を含む長い制度形成の一段階です。
出題元の学習トピックを確認する藤原京の画期性は、宮だけでなく周囲に計画的な街区を持つ本格的な都城が形成された点にある。
藤原京では道路・街区が計画され、官人の宅地・寺院・市場などを含む都市空間が形成され、律令国家の行政を支える首都となりました。
出題元の学習トピックを確認する大宝律令では、律は主に犯罪と刑罰を、令は行政・官人・地方支配・租税など国家運営の仕組みを定めた。
大宝律令では、律は主に刑罰法規、令は中央官庁・官人・地方行政・戸籍・土地・租税など国家運営の法規として整理されました。
出題元の学習トピックを確認する大宝律令は唐の法典をそのまま翻訳し、日本列島の従来の政治秩序を考慮せずに適用したものだった。
唐の律令制度から強い影響を受けましたが、日本列島に既にあった王権・氏族・地方有力者などの政治社会に合わせて制度を組み替えました。
出題元の学習トピックを確認する大宝律令の地方行政では、従来の地方有力氏族をすべて排除し、郡司も中央から派遣した。
国司は中央から派遣されましたが、郡司には従来の地方有力氏族の系統が任命されることが多く、地域の有力者を国家行政へ組み込む仕組みでした。
出題元の学習トピックを確認する地方行政単位の表記は、7世紀の「評」から大宝令施行後の「郡」へ移っていった。
年紀木簡から、大宝令以前には「評」、施行後には「郡」が用いられる変化を確認できます。
出題元の学習トピックを確認する701年に大宝律令が成立した時点で、日本列島のすべての地域で律令制が同じように完全実施された。
大宝律令は大きな到達点ですが、地方では旧来の有力氏族が重要な役割を持ち続け、制度運用にも地域差がありました。
出題元の学習トピックを確認する607年の国書に「天子」とあるため、この時点で「天皇」という称号が正式に成立していたことが確実に証明できる。
「天子」と「天皇」は別の語で、607年の国書だけから天皇号の正式成立を証明することはできません。
出題元の学習トピックを確認する天皇号の成立年は一つに断定できないが、飛鳥池遺跡の木簡から遅くとも天武朝ごろには使用を確認できる。
天皇号の成立時期には複数の見方がありますが、7世紀後半の飛鳥池遺跡木簡は「天皇」の使用を示す重要な文字資料です。
出題元の学習トピックを確認する古代には正式国名「倭国」が一貫して使われ、ある一日に法令で「日本国」へ改名されたと考えればよい。
倭・大倭・ヤマトなどは時代や文脈で使われ方が異なり、現代的な一日の国名変更として単純化するのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する「日本」という国号は、7世紀末から8世紀初めに成立・定着したと考えるのが適切である。
厳密な制定年を一つに定めるのは難しく、大宝律令や702年遣唐使とも関係する国家形成・外交の中で成立・定着したと考えます。
出題元の学習トピックを確認する702年の遣唐使を境に、それ以前とは断絶した新しい国家「日本」が初めて誕生した。
ヤマト王権・倭から続く長い国家形成の中で、天皇号と日本国号が律令国家の自己規定として段階的に定着したと捉えます。
出題元の学習トピックを確認する白鳳時代は、645年から710年までと厳密に定められた日本史全体の正式な時代区分である。
白鳳は主に美術史で使われる文化区分で、年代の区切りにも幅があります。飛鳥時代後半の仏教美術を説明する概念として捉えます。
出題元の学習トピックを確認する飛鳥文化から白鳳文化への仏像表現の変化は、ある一つの年に一斉に起こったのではなく、新しい表現が徐々に広がったものと考える。
白鳳彫刻では丸み・量感・若々しい表情が目立ちますが、様式は年を境に突然切り替わったのではなく、段階的に変化しました。
出題元の学習トピックを確認する現在奈良市に残る薬師寺東塔は、天武天皇が680年に建立を発願した藤原京の薬師寺の建物がそのまま残ったものである。
現在の薬師寺東塔は平城京移転後の730年建立とされます。藤原京の本薬師寺と現在の薬師寺を区別します。
出題元の学習トピックを確認する白村江の戦い後も、中国・朝鮮半島との文化交流は途絶えず、人・技術・情報の移動が続いた。
軍事的対立の後も新羅使などを通じた交流は続き、仏教美術・建築・文字文化などの受容が進みました。政治的対立と文化交流は同じ動きをするとは限りません。
出題元の学習トピックを確認する白鳳文化の時期には、仏教はすでに日本列島の全国民へ同じ形で完全に普及していた。
寺院は増えましたが、巨大寺院の造営主体は天皇・皇族・有力氏族が中心でした。仏教が全国民へ同じ形で完全普及した時代とは考えません。
出題元の学習トピックを確認する巨大前方後円墳が造られなくなると、7世紀には古墳そのものもすぐに造られなくなった。
7世紀にも円墳・方墳・八角墳などの終末期古墳が造られ、精巧な埋葬施設も発達しました。古墳時代の終わりは墓の突然の消滅ではありません。
出題元の学習トピックを確認する高松塚古墳は巨大前方後円墳より小型だが、内部には精密な石材加工と高度な壁画技術が用いられている。
墳丘は小型でも、凝灰岩の切石を組んだ石室に漆喰を塗り、極彩色壁画を描くなど高度な技術が投入されました。
出題元の学習トピックを確認する西壁女子群像の「飛鳥美人」という名称は、壁画が描かれた当時から使われていた作品名である。
「飛鳥美人」は西壁女子群像に後世つけられた愛称で、古代からの作品名ではありません。
出題元の学習トピックを確認する高松塚古墳の被葬者は、出土資料によって特定の皇子であることが確定している。
熟年男性と考えられていますが、皇族・高位官人など複数の候補があり、被葬者を特定する決定的証拠はありません。
出題元の学習トピックを確認する四神・日月・星宿を配置した高松塚古墳の壁画は、東アジアの方位・天文・葬送思想を墓室へ取り入れた表現と考えられる。
東西南北に対応する四神と日月・星宿によって、石室内部に東アジア的な秩序ある世界が表現されています。
出題元の学習トピックを確認する富本銭は、日本列島で人々が初めて使用した貨幣である。
富本銭より前にも、銀そのものの重量・素材価値を利用した無文銀銭などが使われていました。富本銭は日本最古の鋳造貨幣として位置づけます。
出題元の学習トピックを確認する683年の銅銭使用命令が、富本銭を初めて鋳造した年を示している。
683年は銅銭使用を命じた年ですが、使用を命じる以前から銅銭が存在した可能性があり、富本銭の初鋳年と断定できません。
出題元の学習トピックを確認する飛鳥池遺跡から未完成品や鋳型などがまとまって出土したことで、7世紀後半の飛鳥で富本銭が実際に鋳造されていたことが明らかになった。
完成品だけでなく未完成品・失敗品・鋳型・鋳棹・坩堝などの製造関連資料が出土し、富本銭の実際の鋳造を示しました。
出題元の学習トピックを確認する富本銭は、和同開珎と同程度に全国の日常取引で広く流通していたことが確実に確認されている。
富本銭の流通範囲や具体的用途には議論が残り、和同開珎ほど大量・広範囲に確認されるわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する708年の和同開珎では、富本銭の段階よりも銭貨を広める政策が明確に進められた。
和同開珎では銭を蓄えた者への叙位なども行われ、国家による本格的な銭貨普及政策が進められました。
出題元の学習トピックを確認する平城京への遷都理由は一つの原因に確定できず、国家制度・政治・交通・都城計画など複数の要素を考える必要がある。
遷都理由を一つに示す確実な史料はなく、地勢だけでなく国家制度・政治・交通・都城計画など複数の要素が関わったと考えます。
出題元の学習トピックを確認する藤原京は平城京より著しく小さかったため、都として手狭になったことが遷都の確実な理由である。
発掘調査では藤原京も方5キロメートル以上に広がる大規模な都市と考えられ、単純な大小関係だけで遷都を説明できません。
出題元の学習トピックを確認する平城京は唐の長安城から強い影響を受けたが、日本列島の地形などに合わせた独自の構造も持っていた。
長安城の都城制度を参照しつつ、東側の外京など日本の条件に合わせた構成もあり、単純な縮小コピーではありません。
出題元の学習トピックを確認する薬師寺・大官大寺・飛鳥寺などの移転・再建は、710年の遷都と同時にすべて完成した。
大寺院は平城京へ移転・再建されていきましたが、710年に一斉に完成したわけではなく、都市形成は遷都後も続きました。
出題元の学習トピックを確認する710年の平城京遷都を境に、飛鳥時代の制度・人材・技術・文化は一斉に失われ、新しい仕組みに置き換わった。
平城京には飛鳥・藤原で培われた制度・人材・技術・文化が多く引き継がれました。710年は完全な断絶ではなく、律令国家を新しい首都へ移す大きな節目です。
出題元の学習トピックを確認する
Result
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間違えた問題は解説と出題元の学習トピックを確認できます。