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飛鳥時代6世紀末〜7世紀前半文化重要度 A

飛鳥文化―仏教は政治と文化をどう変えたのかあすかぶんか ぶっきょうはせいじとぶんかをどうかえたのか

一言でいうと

6世紀末から7世紀前半、飛鳥を中心に仏教を基盤とする新しい文化が形成されました。寺院を造るには、仏教の教えだけでなく、建築・瓦・金属加工・仏像制作など多くの技術が必要です。中国や朝鮮半島との交流を通じて、それらの知識や技術を受け入れながら、倭では飛鳥寺や法隆寺、仏像などに代表される仏教文化が形づくられていきました。飛鳥文化は、外国文化をそのまま移したものではなく、東アジアから受け入れた仏教・技術・美術を倭の政治社会の中で用い始めた文化として理解します。

仏教伝来から「寺院を造る時代」へ

6世紀には百済からヤマト王権へ仏教が公に伝えられ、蘇我氏と物部氏などの政治対立とも関係しながら受容が進みました。飛鳥文化で見るのは、その次の段階です。仏像を礼拝するだけでなく、仏教のための大規模な寺院を実際に建設するようになります。

その代表が、蘇我馬子によって造営された飛鳥寺あすかでらです。造営は588年に始まり、『日本書紀』では596年に寺の建設が一応完成したとされています。発掘調査からは、塔を中心として北・東・西に金堂を配置する大規模な伽藍が確認されています。

仏教は思想や信仰として入ってきただけではありません。寺院という新しい巨大建造物を列島に出現させたことが、社会を目に見える形で変えました。

飛鳥寺を造るには新しい技術が必要だった

古墳を築く技術と、仏教寺院を造る技術は同じではありません。寺院には、柱を組んで大規模な建物を造る技術、屋根を瓦で葺く技術、仏像を鋳造する技術など、さまざまな専門知識が必要でした。

『日本書紀』には588年、飛鳥寺の造営に際して百済から瓦博士かわらはかせなどの技術者が渡来したことが記されています。飛鳥寺から出土した創建期の瓦にも、朝鮮半島との技術的なつながりを示す特徴が確認されています。

寺院建立は、仏教・建築・瓦生産・金属加工・彫刻・専門技術者の組織化が一体となった大規模事業でした。そのため寺院は信仰の場であると同時に、蘇我氏などの有力者が持つ政治力・経済力や海外との人的ネットワークを示す存在でもありました。

資料で見る:文化遺産オンライン「飛鳥寺跡出土の軒丸瓦」

飛鳥文化は「外国文化のコピー」だったのか

飛鳥時代の寺院や仏像には、中国や朝鮮半島との強い関係が見られます。ただし、中国から朝鮮半島を経て倭へという一本の単純な経路だけで、すべてが同じ形で伝わったと考えない方が適切です。

寺院建築・瓦・仏像などには、中国の南北朝文化や朝鮮半島の百済・高句麗などとの関係が指摘されています。日本列島では、それら複数の文化的影響を受けながら新しい寺院・仏像制作が進みました。

飛鳥文化の国際性とは、外国の作品をそのまま並べたという意味ではありません。人・技術・思想が東アジアを移動し、その交流の中で列島の新しい文化が作られたということです。

飛鳥文化を外国文化の単純な模倣とせず、東アジアの人・技術・思想の交流の中で形成された文化として理解します。

鞍作鳥と仏像制作

飛鳥文化を代表する仏師として覚えておきたいのが、鞍作鳥くらつくりのとりです。止利仏師とも呼ばれます。

飛鳥寺の本尊である飛鳥大仏も鞍作鳥の作と伝えられています。現在の像は後世の火災や修理によって大きく補修されていますが、創建時の部分も一部残ると考えられています。

さらに623年、法隆寺金堂の釈迦三尊像しゃかさんぞんぞうが造られました。光背の銘文には鞍作鳥が作者として記され、中央の釈迦如来と左右の菩薩を一つの大きな光背でまとめる金銅仏です。

資料で見る:奈良国立博物館 収蔵品データベース「銅造釈迦如来及両脇侍像」

細かな仏像様式をすべて暗記する必要はありません。まずは、鞍作鳥―飛鳥時代を代表する仏師―623年の法隆寺金堂釈迦三尊像、という基本関係を押さえます。

仏教はまだすべての人々の宗教ではない

飛鳥文化を、日本列島のすべての人々が仏教徒になった時代と考えるのは早すぎます。初期の寺院造営を主導したのは、大王家や蘇我氏などの有力豪族でした。

巨大な寺院や金銅仏を造るには大量の資源と専門技術者を必要とするため、仏教文化の中心はまず政治権力を持つ人々の周辺に形成されました。

この時期に重要なのは、仏教が列島全体へ一気に普及したことではなく、王権や豪族の政治・文化の中に仏教が本格的に組み込まれ始めたことです。

古墳から寺院へ―権威の表し方も変わる

5世紀までの有力者は、巨大な前方後円墳を築くことで政治的な力を目に見える形にしていました。6世紀後半以降も古墳は造られ続けますが、それと並行して寺院という新しい巨大建造物が登場します。

墓は主に死者のための記念物ですが、寺院は生きている人々が集まり、仏像を礼拝し、僧侶が活動する場所です。

したがって飛鳥文化の成立は単なる美術史上の変化ではありません。古墳・氏族・王権を中心としてきた社会に、仏教寺院という新しい政治的・宗教的・文化的拠点が加わったことに大きな意味があります。

このページで覚えたい流れ

6世紀、百済から仏教が公に伝わる → 蘇我氏を中心に仏教受容が進む → 588年、飛鳥寺の造営が始まる → 百済などから寺院建築・瓦製作の技術が伝わる → 596年、飛鳥寺が完成する → 飛鳥を中心に寺院と仏像をともなう本格的な仏教文化が形成される → 鞍作鳥らの仏師が活動する → 623年、法隆寺金堂釈迦三尊像が造られる → 東アジアの文化を受け入れながら飛鳥文化が発展する

飛鳥文化は「仏教が伝わった」という一つの出来事ではなく、仏教を受け入れるために建築・瓦・仏像・専門技術者まで含む新しい文化体系が形成されていった過程として理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 飛鳥文化は6世紀末〜7世紀前半を中心とする、仏教色の強い文化
  • 飛鳥寺は蘇我馬子が造営した日本最初の本格的な仏教寺院で、588年に造営が始まり、596年に堂塔が完成したとされる
  • 飛鳥寺の造営には百済から渡来した瓦博士などの専門技術者が関わり、寺院建築や瓦製作など新しい技術が導入された
  • 鞍作鳥(止利仏師)は飛鳥時代を代表する仏師
  • 623年の法隆寺金堂釈迦三尊像は鞍作鳥の代表作で、飛鳥文化を代表する仏像
  • 飛鳥文化を外国文化の単純な模倣とせず、中国・朝鮮半島との交流の中で倭の仏教文化が形成されたと理解する

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    飛鳥文化では、仏教の受容は信仰や思想にとどまらず、大規模寺院の建設という形でも社会に現れた。

  2. 問2

    飛鳥寺の造営では、古墳築造と同じ技術だけで十分だったため、海外から専門技術者を受け入れる必要はなかった。

  3. 問3

    飛鳥文化は、中国や朝鮮半島の文化をそのまま同じ形で移しただけの文化と考えるのが適切である。

  4. 問4

    飛鳥文化の時期には、日本列島のほぼすべての人々が仏教徒となり、仏教文化は社会全体へ均等に広がっていた。

  5. 問5

    6世紀後半以降は古墳がただちに消えたわけではなく、古墳と並行して寺院が新しい政治的・宗教的・文化的拠点として加わった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 飛鳥文化が栄える
  2. 飛鳥寺が完成する
  3. 法隆寺金堂釈迦三尊像が造られる
  4. 百済から仏教が公的に伝わる
  5. 蘇我馬子らが物部守屋を破る
  6. 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を始める

Sources

参考資料

  1. 飛鳥寺跡の発掘調査と伽藍配置奈良文化財研究所

    飛鳥寺の造営、伽藍配置、発掘調査成果について参照。

  2. 飛鳥寺跡出土の軒丸瓦文化庁 文化遺産オンライン

    飛鳥寺創建期の瓦と、寺院造営に伴う新技術について参照。

  3. 飛鳥大仏奈良県

    飛鳥寺本尊と鞍作鳥、現存像の修理・残存部分について参照。

  4. 銅造釈迦如来及両脇侍像奈良国立博物館 収蔵品データベース

    623年の法隆寺金堂釈迦三尊像と鞍作鳥について参照。