唐の成立と第一次遣唐使―倭はなぜ新しい中国王朝へ使者を送ったのか
一言でいうと
618年、隋に代わって中国に唐が成立しました。倭は630年、犬上御田鍬らを最初の遣唐使として派遣します。遣唐使は唐の皇帝と外交関係を結ぶ正式な国家使節であると同時に、政治制度・学問・仏教・文化を学ぶ重要な窓口でもありました。遣隋使から続く対中国外交が、王朝交代後の唐との交流へ移った新しい段階として理解します。
隋が滅び、618年に唐が成立する
遣隋使で交流していた隋は長く続かず、618年に滅びました。その後、中国では唐が勢力を広げ、東アジアで大きな影響力を持つ統一王朝へ成長していきます。
中国王朝の交代は、倭にとっても外交相手が変わる重要な出来事でした。ただし、618年に唐が成立すると倭が直ちに使者を送ったわけではありません。最初の遣唐使は12年後の630年です。
重要なのは、隋が滅びたことで対中国外交そのものが終わったのではなく、新しい王朝である唐との関係をあらためて築く方向へ進んだことです。
630年―第一次遣唐使
630年、舒明天皇の時代に最初の遣唐使が派遣されました。中心となった人物が犬上御田鍬です。
犬上御田鍬は630年に初めて中国へ渡った人物ではありません。『日本書紀』では614年にも遣隋使として派遣されたとされ、隋から唐へ中国王朝が交代した後も対中国外交に関わりました。
この点からも、遣隋使と遣唐使を完全に切り離すのではなく、中国の統一王朝との直接外交を続ける中で外交相手が隋から唐へ変わったと捉えると流れが分かりやすくなります。
630年の第一次遣唐使は、遣隋使から続く対中国外交の新しい段階です。
遣唐使は何をする使節だったのか
遣唐使にはまず、倭の王権を代表して唐の皇帝のもとへ赴く正式な外交使節としての役割がありました。
一方、唐は政治制度・法律・都城・仏教・学問などが発達した大国でした。唐との往来は、倭がその制度や文化を直接学ぶ機会にもなります。
ただし、後の律令国家を「遣唐使が唐の制度をそのまま持ち帰って作った」と考えるのは単純化しすぎです。倭には氏姓制度・国造などそれ以前からの政治秩序があり、大陸の制度を学びながら、それらを長い時間をかけて組み替えていきました。
630年の遣唐使を後世の大使節団と同じにしない
遣唐使というと、複数の大型船に数百人が乗り込む奈良・平安時代の大規模な使節団を思い浮かべることがあります。
しかし、遣唐使の規模・船団・構成は時期によって変化しました。後世の典型的な遣唐使像を、630年の第一次遣唐使へそのまま当てはめないようにします。
このページでは、後世の遣唐使全体を詳しく扱うのではなく、隋から唐への王朝交代後、倭が唐との正式な外交を始めたという点を中心に押さえます。
632年―唐からも使者が来る
犬上御田鍬らは632年に帰国しました。その際、唐から派遣された高表仁も倭へ来ました。
これは、遣隋使の時代に小野妹子の帰国とともに隋使裴世清が来倭したことと似ています。倭が一方的に中国へ使者を送るだけでなく、中国王朝側からも使節が来る双方向の外交が行われました。
高表仁と倭側の間では外交儀礼をめぐる対立があったと中国史書に記されています。唐との外交が始まったからといって、互いの国際秩序の考え方が最初から一致していたわけではありません。
隋の時代に渡った人々の知識もつながっていく
前の遣隋使のページでは、高向玄理・南淵請安・僧旻らが留学生・学問僧として大陸へ渡ったことを学びました。彼らの一部は隋が滅んだ後も大陸に滞在し、唐の時代まで学び続けました。
つまり、中国王朝が隋から唐へ交代しても、人の移動や学問の蓄積まで断絶したわけではありません。遣隋使で始まった人的交流が、遣唐使の時代へつながっていきます。
こうした大陸経験者が持ち帰った政治制度・儒教・仏教・国際情勢についての知識は、その後の7世紀の政治改革を考える重要な背景となります。
唐との交流は大化改新へどうつながるのか
年表の次の大きな政治事件は645年の乙巳の変と、その後に進む大化改新です。
ここでも、「唐の制度を学んだから645年にそのまま大化改新を行った」という一本の因果関係にはしません。国内には皇位継承や豪族間の政治関係など独自の問題がありました。
一方で、遣隋使・遣唐使や留学生・学問僧を通じて東アジアの政治制度についての知識が蓄積されていたことは、7世紀の国家形成を支えた重要な背景です。国内政治の変化と海外から得た知識が重なりながら改革が進んでいったと理解します。
このページで覚えたい流れ
607〜608年、遣隋使によって隋との直接外交が進む → 614年、犬上御田鍬も遣隋使として隋へ渡る → 618年、隋が滅び唐が成立する → 中国王朝の交代後も大陸との交流は続く → 630年、犬上御田鍬らが第一次遣唐使として唐へ派遣される → 唐との正式な外交と制度・文化の学習が始まる → 632年、犬上御田鍬が帰国し唐使高表仁も来倭する → 遣隋使以来の人的交流と大陸の知識が7世紀の政治改革の背景となる
遣唐使は遣隋使とは断絶した新事業ではなく、中国王朝の交代後も続いた東アジア外交と知識吸収の新しい段階として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 618年、隋に代わって唐が成立する
- 630年、舒明天皇の時代に犬上御田鍬らが第一次遣唐使として派遣される
- 犬上御田鍬は614年にも遣隋使として派遣されており、遣隋使から遣唐使への外交の連続性を見ることができる
- 632年、犬上御田鍬らが帰国し、唐使の高表仁が倭を訪れる
- 遣唐使は正式な外交使節であると同時に、唐の政治制度・学問・仏教・文化を学ぶ窓口でもあった
- 唐の制度をそのままコピーして律令国家が成立したのではなく、大陸の制度を学びながら倭の政治社会に合わせて段階的に国家制度が形成された
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- 問1
618年に唐が成立すると、倭はその年のうちに最初の遣唐使を派遣した。
唐が成立したのは618年ですが、倭の最初の遣唐使は12年後の630年です。王朝交代後も対中国外交は続きましたが、直ちに派遣されたわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
犬上御田鍬は遣隋使にも関わっており、第一次遣唐使は遣隋使から続く対中国外交の新しい段階として捉えられる。
犬上御田鍬は614年にも遣隋使として派遣されたとされ、630年には第一次遣唐使に加わりました。外交相手が隋から唐へ変わっても人的・外交的な連続性が見られます。
本文の該当箇所を確認する - 問3
後の律令国家は、遣唐使が唐の制度をそのまま持ち帰り、倭の既存の政治秩序を一度に置き換えて成立した。
倭には氏姓制度や国造など既存の政治秩序があり、大陸の制度を学びながら長い時間をかけてそれらを組み替えていきました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
630年の第一次遣唐使の規模や船団構成は、奈良・平安時代の典型的な大規模遣唐使と同じだったと考えてよい。
遣唐使の規模・船団・構成は時期によって変化しました。後世の大規模な遣唐使像を630年の第一次遣唐使へそのまま当てはめることはできません。
本文の該当箇所を確認する - 問5
632年には唐使の高表仁が倭を訪れており、倭から唐へ使者を送るだけでない双方向の外交が行われた。
犬上御田鍬らの帰国時に高表仁も来倭しました。唐との外交は倭側からの一方向の遣使だけではありませんでした。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 平城遷都1300年記念 大遣唐使展奈良国立博物館
618年の唐成立、630年の第一次遣唐使、遣唐使による唐文化受容について参照。
- 律令国家と隋唐文明東京大学 BiblioPlaza
隋唐の制度受容と日本の律令国家形成を、単純な制度移植としないため参照。
- 唐王朝から日本に赴いた使節外務省 日中歴史共同研究
第一次遣唐使の帰国と632年の唐使高表仁来倭について参照。
