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飛鳥時代592〜604年政治・外交重要度 A

推古朝の成立と政治改革―推古天皇・厩戸王・蘇我馬子は何を目指したのかすいこちょうのせいりつとせいじかいかく すいこてんのう うまやどのおう そがのうまこはなにをめざしたのか

一言でいうと

6世紀末、推古天皇すいこてんのうが即位し、厩戸王うまやどのおうや蘇我馬子そがのうまこらが政治を担った推古朝では、冠位十二階や十七条憲法などを通じて、氏族の世襲的な秩序だけに頼らず、王権のもとで官人を組織する新しい仕組みが整えられ始めました。ただし、この時点で氏姓制度がなくなったわけでも、律令国家が完成したわけでもありません。古墳時代以来の政治秩序を引き継ぎながら、新しい国家の仕組みを作り始めた段階として理解します。

古墳時代の終わりから推古朝へ

6世紀後半には、ヤマト王権の政治や権威の表し方が変化し始めていました。587年には物部守屋が蘇我馬子らに敗れ、翌588年には馬子によって飛鳥寺の造営が始まります。一方、大型前方後円墳は次第に衰え、王権や有力豪族が力を示す方法も、巨大な墓だけでなく寺院・宮殿・政治制度へと広がっていきました。

その流れの中で592年、推古天皇が即位します。このサイトでは592年を飛鳥時代の開始としますが、その年に古墳時代の社会が突然別の社会へ変わったわけではありません。6世紀後半から進んでいた政治・文化の変化が推古朝にも引き継がれました。

592年を古墳文化の断絶点とせず、6世紀後半から続く政治・文化の変化の中で推古朝を捉えます。

推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の政治

推古朝を理解するとき、後世に聖徳太子として知られる厩戸王だけが一人で政治改革を行ったと考えないことが重要です。

『日本書紀』では593年、厩戸王が皇太子となり政治に参画したと伝えられています。一方、蘇我馬子はそれ以前から大臣として強い政治的影響力を持ち、推古天皇自身も王権の中心にいました。

したがって推古朝の政治は、推古天皇・厩戸王・蘇我馬子など複数の政治主体の関係の中で考える必要があります。厩戸王を「摂政」とする説明もありますが、後世と同じ制度としての摂政がこの時点で確立していたと単純に考えないようにします。

603年―冠位十二階で個人に冠位を与える

603年に定められたのが、冠位十二階かんいじゅうにかいです。徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けた十二の冠位によって、朝廷内の序列を示しました。

重要なのは、氏や姓のような氏族単位の世襲的秩序とは別に、原則として個人を対象に冠位を与える仕組みが導入されたことです。後の位階制度へつながる重要な変化でした。

ただし、冠位十二階によって氏姓制度が廃止されたわけではありません。大臣など最上層の有力者を含め、従来の氏族秩序は引き続き大きな意味を持っていました。古い仕組みを一度に壊したのではなく、その上に新しい官人秩序を加えたと考えると分かりやすくなります。

604年―十七条憲法は何を定めたのか

604年には、十七条憲法じゅうしちじょうけんぽうが定められたと『日本書紀』に記されています。和を重んじること、仏教の三宝を敬うこと、君主の命令に従うこと、官人が私心を抑えて職務を行うことなどが説かれています。

ここでいう「憲法」を、現代の憲法と同じものだと考えてはいけません。国家機構や人民の権利を体系的に定めた近代的な憲法ではなく、政治を担う人々に対して望ましい姿勢や秩序を示した政治的・倫理的な規範という性格が強いものです。

資料で見る:国立歴史民俗博物館 khirin「版本十七条憲法」

現存する資料は後世に伝えられた版本などであり、604年当時の原本そのものではありません。十七条憲法の記事は、720年に成立した『日本書紀』を中心に伝えられていることにも注意します。

冠位十二階と十七条憲法はどうつながるのか

冠位十二階は、政治を担う人々を王権のもとで序列化する仕組みでした。十七条憲法は、その政治を担う人々に共通する行動規範を示そうとするものでした。

つまり、誰がどのような位置で政治を担うのかを整理すると同時に、その人々がどのような姿勢で政治を行うべきかを示すという二つの方向から、王権の政治組織を整えようとする動きを見ることができます。

ただし、これによって豪族の力がなくなったわけではありません。推古朝そのものが蘇我馬子のような有力豪族との関係の上に成り立っていました。豪族を排除したのではなく、既存の氏族秩序を残しながら新しい官人秩序を加えていった段階です。

冠位十二階=官人の序列、十七条憲法=官人の行動規範、と整理すると両者の関係が見えやすくなります。

なぜこの時期に政治改革が進んだのか

推古朝の改革は国内だけを見ても十分には理解できません。589年、中国では隋が南北朝の分裂を終わらせて中国を統一し、東アジアに強力な統一王朝が現れました。倭も600年以降、隋との外交を進めていきます。

隋との外交では、倭の使者や王権が東アジアの国際秩序の中でどのような位置に立つのかが問題になります。そのため、冠位や礼制など国内の制度整備と対外外交は、互いに無関係な改革ではなく、東アジアとの関係を意識しながら進められたものとして考える必要があります。

この先は、600年・607年・608年の遣隋使を詳しく見ることで、推古朝の国内改革と外交がどのようにつながっていたのかを確認します。

推古朝で律令国家が完成したわけではない

冠位十二階や十七条憲法は古代国家形成の重要な節目です。しかし604年の段階でも、氏姓制度や国造など古墳時代以来の仕組みは続き、全国的な戸籍・班田・律令制度はまだ整っていません。

したがって、「聖徳太子が冠位十二階と十七条憲法を作り、日本を中央集権国家にした」とまとめるのは単純化しすぎです。推古朝の改革は、その後の大化改新、天智・天武・持統朝の制度整備、701年の大宝律令へ続く長い国家形成の初期段階の一つとして位置づけます。

古墳時代の政治秩序を一度に捨てたのではなく、それを組み替えながら新しい国家体制へ進んでいったことが、飛鳥時代を理解する基本になります。

このページで覚えたい流れ

6世紀後半、古墳時代以来の政治秩序が変化する → 592年、推古天皇が即位する → 593年、厩戸王が皇太子となり政治に参画する → 推古天皇・厩戸王・蘇我馬子らが政治を担う → 603年、冠位十二階で官人を個人単位に序列化する仕組みが導入される → 604年、十七条憲法で官人の行動規範が示される → 氏族秩序を残しながら王権中心の官人秩序が整えられ始める → 隋との外交と結びつきながら、7世紀の国家形成へ進む

推古朝の改革を「聖徳太子一人が中央集権国家を完成させた」と覚えるのではなく、古墳時代以来の仕組みを残しながら新しい官人秩序を加えていった初期段階として理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 592年、推古天皇が即位する
  • 593年、厩戸王が皇太子となり、推古朝の政治に参画する
  • 603年の冠位十二階は、氏族単位の世襲的秩序とは別に個人へ冠位を与える仕組みで、後の位階制度へつながる
  • 604年の十七条憲法は官人の政治的・倫理的規範であり、近代憲法と同じ性格の法典ではない
  • 推古朝の改革を厩戸王一人の事業として単純化せず、推古天皇・厩戸王・蘇我馬子など複数の政治主体を見る
  • 冠位十二階や十七条憲法によって氏姓制度が直ちに廃止されたわけでも、律令国家が完成したわけでもない

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理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    592年の推古天皇即位を境に、古墳時代以来の政治・文化の仕組みは一度に消滅した。

  2. 問2

    推古朝の政治改革は、厩戸王が他の政治主体から独立して一人で進めた事業と考えればよい。

  3. 問3

    冠位十二階は、氏や姓による氏族単位の秩序とは別に、原則として個人へ冠位を与える仕組みを導入した。

  4. 問4

    十七条憲法は、国家機構や人民の権利を体系的に定めた現代の憲法と同じ性格の法典だった。

  5. 問5

    推古朝の国内制度整備は、隋の中国統一や倭の対隋外交と無関係ではなく、東アジアとの関係を意識した国家形成の中で考える必要がある。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 推古天皇が即位する
  2. 厩戸王が皇太子となり、推古朝の政治に参画する
  3. 冠位十二階が制定される
  4. 十七条憲法が定められる
  5. 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を始める

Sources

参考資料

  1. 飛鳥宮跡 解説書奈良県明日香村・関西大学文学部考古学研究室

    推古朝から飛鳥宮・律令国家形成へ至る政治史と、隋との外交・国制整備の背景を参照。

  2. 律令国家と隋唐文明東京大学 BiblioPlaza

    推古朝の国制整備を隋との対外交渉や7世紀の律令国家形成の中で位置づけるため参照。

  3. 版本十七条憲法国立歴史民俗博物館 khirin

    後世に伝えられた十七条憲法の資料例として参照。

  4. 「十七条憲法」成立時の政治的、外交的な情勢について国立国会図書館 レファレンス協同データベース

    十七条憲法と推古朝の政治・外交背景に関する研究文献案内として参照。